2026年2月22日 礼拝「神のわざが現れるため」 ヨハネ 9:1~12
- 2月22日
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私たちは、苦しみの中にいる人を見るとき、また自分自身が苦しみの状況にあるとき、
どのような目で見、どのように感じているでしょうか。主イエスは、この人が盲目で生ま
れたのは、この人に神のわざが現れるためと言われました。私たちも、このような神の視
点で物事を見るようにしたいと思います。
瞬きの詩人と呼ばれた、水野源三さんをご存じでしょうか。彼が瞬きの詩人と呼ばれた
のは、瞬きをすることしかできない身体にありながら、すばらしい詩をたくさん残し、そ
の詩を通して多くの人々を慰め、励ましてきたからです。一つご紹介します。
戸を硬く閉め切っていた、部屋に入ってこられた。
キリストにお会いしてから、キリストにお会いしてから!!
その両手と、わき腹に、傷跡が痛々しい
キリストにお会いしてから、私の心が変わった!!
「信じない者にならずに、信じなさい!」と言われた
キリストにお会いしてから・・・私の心が変わった!! お会いしてから!!
水野さんは1946年の夏、小学4年生9歳で集団赤痢にかかり、一命はとりとめたけれ
ど高熱のため脳が冒され、脳性麻痺になりました。耳が聞こることが後に分かるまでは、
ただ目を動かすだけの存在と思われていたのです。人間的に見れば、なぜこんな不幸に見
舞われるのだろう、となります。ご両親の嘆きや苦悩はいかばかりだったでしょうか。い
ろいろと原因を探りながら、悔やんでいたのではないかと想像します。
そのような水野さんに、キリストの福音が伝えられます。水野さんは、からからに乾い
た土地が恵みの雨をどんどん吸い取るように、からからに渇いたたましいを潤すいのちの
水、神のことばを慕い求めて養われていきました。そして純粋な信仰の証の詩を数多く書
き記しました。書き記すといっても、水野さん自身は文字を書くことはできません。瞬き
ができるということ、耳が聞こえるということ、この自分でできるたった二つのことを用
いて、数多くの、人を感動させる詩を残したのです。「生きる」という詩があります。
神様の 大きな御手の中で かたつむりは かたつむりらしく歩み
蛍草は 蛍草らしく咲き 雨蛙は 雨蛙らしく鳴き
神様の大きな御手の中で 私は 私らしく 生きる
もし皆さんが、瞬きしかできない状態になったらどうでしょうか。絶望し、自暴自棄に
なるかもしれません。私たちの悲しい習性は、人と比較して、自分にないもの、能力的に
欠けていることばかりが気になって、持っているもの、与えられているものを感謝して活
用しなくなるということです。不平や不満、嘆きや呟きは活力を奪います。自分に与えら
れているものを意識し、それを有効に用いることをさせなくするのです。不平や不満では
なく満足する、嘆きや呟きではなく喜びと感謝があるなら、私たちの歩みはどんなにか変
えられ、自分をも、人をも生かすことになるのではないでしょうか。
水野さんは、主イエスとお会いしてから変えらました。瞬きができるということ、そし
て耳が聞こえるということ、その自分でできる二つのことを最大限に生かすようになった
のです。聖書をひたすら読み、神のことばを慕い求めました。ラジオ放送によって、神か
らのメッセージに耳を傾けました。そして自分の意思を、50音表を用いて伝えていくので
す。母親や義理の妹の大きな助けを受けて、神のいのちに生かされるすばらしさ、自分の
罪深さ、また信仰の証を50音表で文字を伝え、それを繋げることで文章にしたのです。
1節。主イエスと弟子たちが道を歩いていました。そこに、生まれたときからの目の見
えない人が物乞いをしているのを見ます。2節。弟子たちは主イエスに尋ねます。彼が盲
目に生まれたのは、だれが罪を犯したからですかと。弟子たちの無神経さを知らされます
が、当時は、これが普通でした。人間的に見て不幸と言われる状態になるのは、だれかの
罪のせいに違いない、不幸が大きければ大きいほど、だれかが重大な罪を犯したからだと
いうのが、その社会の常識だったのです。その常識から、そして好奇心から、彼らは軽い
気持ちで主イエスに尋ねたということです。常識とは恐ろしいですね。
このような考えは私たちにもあります。いわゆる苦しみの状況にある人を見るとき、ま
た障害者が生まれた家庭を見るとき、私たちはその因果関係を探ろうとします。あの人た
ちはどんな悪いことをしたのかとか、その先祖はどのような人々であったかなどと考え、
その罰だと思うのです。その時、私たちは彼らの立場に立ってはいません。その人に寄り
添うとか、どうすれば助けになるかという思いはなく、好奇心で見ているのです。人を罪
に定めて、自分は正しいと、自己正当化したいのかもしれません。
ただ原因が分かったとしても、この人の目が見えるようにはなりません。その原因を突
き止めても、その人の苦しみはなくならないのです。原因を突き止めることで、さらに深
い苦しみをもたらすことになります。
弟子たちの軽々しい、しかし当事者には傷口に塩を擦り込まれるような痛切な問いかけ
に対して、主イエスのことばは、なんと慰めに満ちた、そして希望を与えることばではな
いでしょうか。また私たちの陥りやすい間違いを指摘するのです。3節。主イエスは、原
因がどこにあるかというような詮索は無意味であると戒めます。
主イエスは、罪を不問にしているのではありません。罪が様々な悲劇を生み出している
のは事実です。その上で、この人に神のわざが現われるためだと答えました。私たちも、
主イエスの視点で物事を見ましょう。主イエスが告げた恵みの視点で考えましょう。どの
ような状況に置かれたとしても、その状況の中に神のわざの現われを見ることができるの
です。どんなに悲惨に思えたとしても、絶望的な状況であったとしても、そこで神のわざ
は現れるのであり、神の恵みを味わい知ることができるからです。
私たち人間は、創造者である神から離れ、自分中心に生きることを選びました。聖書は
それを罪と指摘します。その罪が様々な害悪を生み出し、いろいろな苦しみをもたらして
いるのです。私たちの不幸には、罪が起因していることを忘れてはなりません。
6~7節。主イエスは神のわざが現れるためだと言ってから、唾で泥を作り、その盲人
の目に塗り、シロアムの池で洗いなさいと命じました。彼が主イエスのことばに従うと、
彼の目は見えるようになりました。まさに、神のわざが現れた瞬間です。
主イエスが人としてこの世に来られたのは、十字架で死ぬことで、私たちに罪の赦しを
備えるためでした。主イエスが与える救いは罪の赦しに基づく救いです。罪とは創造者で
ある神から離れ、自分中心に生きる、そのあり方です。この根源的な罪が、様々な不幸、
悲惨、苦しみなどを引き起こすのです。平和ではなく、争いを生じさせます。私たちも、
憎しみや敵対関係は簡単に作れるのに、平和を作ることは難しいと思うことがあります。
自己主張し、相手をやりこめようとする限り、和解することは困難になります。
神のわざとは、神が遣わした者を信じることだと、主イエスは言われました。私たちが
主イエスを信じる信仰によって救いに与ることが神のわざです。私たちがまことの神を自
分の神とし、神のことばを生きる者となること、それが神のわざです。
かつて私たちは、創造者であるまことの神を知ろうとしませんでした。神に聞いて生き
ることがどれほど幸いかも知りませんでした。そのような私たちが、神ご自身の働きかけ
があって、主イエスを信じる者となり、神に聞いて生きるという真に幸いで、素晴らしい
歩みを始める者とされます。
この盲人は、主イエスのことばに従いました。6~7節。皆様がこの盲人であるなら、
どのように感じるでしょうか。目に泥が塗られ、シロアムの池に行って洗うようにと命じ
られます。皆様ならどうするでしょうか。どうしてそんなことをするのかと疑問に思うで
しょうか。そんなことをしても無意味だと思うでしょうか。この盲人は、主イエスのこと
ばが何を意味するのか、想像できなかったでしょう。ただ、何かは分からなくても「神の
わざが現われるため」とのことばに自分をかけようとしたのではないでしょうか。そして
主イエスのことばに従ったとき、目が見えるようになりました。その後彼は主イエスにお
会いし、自分の神として信じ、受け入れます。この人に神のわざが現れました。彼はまこ
との神、救い主イエスを見る目が開かれ、救い主イエスを信じる心が与えられたのです。
水野源三さんですが、彼は身体の麻痺が取り除けられ、自由に話し、どこにでも思いの
まま動くという、肉体の癒しは与えられませんでした。聞くことと瞬きすることのまま、
その生涯を閉じました。しかし、そのできる二つのことを最大限に生かすいのちが与えら
れました。神に聞いて生きるという、造られた本来のあり方に立ち返りました。創造者で
ある神を自分の神、自分の主と仰いで生きるという、罪からの救いを受けたのです。神の
わざが現われ、その証しの器となりました。水野源三さんが脳性麻痺になり、身体の自由
がほとんど奪われたところに、神のわざは現われました。そして自分に与えられた二つの
できることを最大限に生かすいのちに生きることで、多くの人々に、創造者である神にあ
る慰めと憩い、希望と喜び、平安と感謝を証する器とされたのです。
私たちも苦しみに会うでしょう。悲惨な状況に置かれるかもしれません。悲劇的な事態
に巻き込まれることもあります。しかしその苦しみや悲しみ、苦悩は、絶望に追いやるも
のではありません。神のわざの現われになると主イエスは語るのです。
その人に神のわざが現れるために、神の御子キリストは人として生まれました。その人
に神のわざが現れるために、神の御子キリストは十字架で処刑され、私たちの罪に赦しを
備えられました。神の御子キリストは十字架で死ぬことで、私たちへの神の限りない愛を
示されたのです。罪人が作り出す社会を生きる私たちは、どのような苦悩や苦難に会うこ
とになるか誰も予測できません。しかし神の愛に生かされていることを味わうとき、ない
ものにではなく、あるものを感謝し、それを最大限に生かすいのちに生かされます。そし
て、その人もまた、神のわざが人々に現されるための器へと変えられるのです。
今苦しみに会っているかもしれません。そこに主なる神はともにおられます。もしその
苦しみの原因が自己中心、罪の結果であるなら、その罪を悔い改め、主イエスが十字架で
備えてくださった罪の赦しを受け取ることが大事です。それが神のわざです。まことの神
を自分の神と受け入れ、神に聞いて生きる者となる。それが神のわざです。あなたの人生
は全く新しい歩みへと変えられていきます。主イエスを自分の救い主と信じ、自分の神と
あがめることから始まります。その人生は、感謝と喜び生きる人生となります。
私たちは神に信頼し、神を愛する者となりましょう。神のみわざをさらに体験したいの
です。みことばの約束を確認しましょう。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に
したがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私
たちは知っています」




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