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2026年2月15日 礼拝「いのちの御霊に従う」ローマ8:1~11

  • 2月15日
  • 読了時間: 9分

更新日:2月16日

 本日私たちは、いのちの御霊に従って歩む幸いと祝福を確認します。前回は、キリスト

信仰者である自分のうちに住んでいる罪について確認しました。主イエス・キリストを信

じて、罪を赦され、神の子どもとされる特権が与えられ、神のいのちに生きる者となった

私たちですが、なおも自分のうちに罪が住んでいる事実を正直に認めたのです。

 キリスト信仰者である私たちは、創造者であるまことの神を自分の神とした者たちで、

神のことばに聞き従って生きることが最善、最良であると知り、生きようとしています。

しかし日々の生活において、神と神のことばを生きることを求めながらも、自分の肉の欲

求に従うことで、神と神のことばを退けてしまうことがあります。神の御前に悪であるこ

とを行わせるのです。パウロはその葛藤を7章で赤裸々に告白しました。それを行わせて

いるのは、自分のうちに住んでいる罪だと言うのです。私たちも同意します。

 1節。キリスト信仰者は罪を赦された罪人です。主イエスを信じ、罪を悔い改めたこと

により、犯した罪は赦されましたが、罪を全く犯さなくなるわけではありません。罪の性

質を引きずっている肉体に生きているので、油断すると罪に引き込まれます。しかしキリ

スト・イエスにある者が罪に定められることは決してありませんと断言されています。キ

リスト信仰者は罪の赦しを求めて、罪を悔い改めることを知っているからです。

 2節。人は神のかたちとして、神の似姿に、特別に造られているので、だれもが善悪の

基準を身につけています。良心があるのです。ただ身につけている善悪の基準に従って生

きているわけではありません。善であると分かっていても、それを行いたくないと思い、

悪であると分かっていても、それをしたいという欲求に従わせられて、善を行えず、悪を

行っていることがあります。良心や理性によって、ある程度は制御できても、強い欲求に

は逆らえずに、罪に引き込まれてしまうこともあるのです。これが主イエスを信じる前の

私たち人間の状態です。心の律法とからだにある罪の律法が鬩ぎ合って、罪の律法に従わ

せられるとき、頭ではしたくない、しない方が良いと思う悪を行うのです。

 しかし主イエスを信じた者には、いのちの御霊の律法が与えられました。主イエスを信

じたときに、神は賜物として、信じる者の心に助け主の聖霊が住まわせてくださったので

す。聖霊が働かれるとき、いのちの御霊の律法がキリスト信仰者を支配します。そうして

罪と死の律法から、私たちを解放するのです。律法は原理、法則とも訳せます。強い原理

に自分を委ねるとき、弱い原理は何の効力も及ぼさなくなります。

 私たちは地球の引力に引き寄せられています。私たちに働いている重力よりも強い力で

支えられているので、地面に沈み込むことはありません。海の沖合に出るなら、泳げない

人は海の深みに沈んでしまいます。熱気球に乗るなら、私たちは空に浮かび上がることも

できます。私たちに働く重力よりも、熱気球が強い力で私たちを持ち上げるからです。し

かし私たちが自分の力で空を歩きたいと思い、熱気球のかごの外に出るなら、たちまち地

上に落ちていくことになります。私たちのからだには重力が働いているからです。

 すべての人は、罪と死の律法(原理)に支配されています。主イエスを信じた者は、いの

ちの御霊の律法(原理)の支配を受けます。いのちの御霊に従って歩むとき、罪と死の律法(原

理)から解放されるのです。いのちの御霊に従うことを止めて、自分の肉の頑張りで事を行

おうとするなら、罪と死の律法(原理)に支配されることになり、神に喜ばれることが何で

あるかが分かっていても、それを行うことをせず、神が悲しまれることは何かが分かって

いても、それを行うのです。まさに罪と死の律法(原理)に支配されている状態です。私た

ちが与えられた救いを生きるためには、いのちの御霊の律法(原理)に自分を委ねることが

不可欠です。いのちの御霊の律法(原理)は主イエスのうちにあります。

 3節。罪が世に入りました。最初の人アダムは神の命令に従うことを退け、自分の欲求

を満たすために、禁じられていた善悪の知識の木から実を取って食べたのです。神と神の

ことばを退け、自分の欲求を満たすことが、聖書が指摘する罪です。罪の報酬は死ですと

宣言されているとおり、罪のゆえに神のいのちに死ぬ者となり、肉体の死も定められてい

ます。肉体の死までが、神のさばきの猶予期間です。自分の罪を認めて、罪を悔い改め、

主イエスの十字架によって差し出された罪の赦しを受けることで、救われます。

 罪が世に入り、私たちの肉のうちに善が住まなくなりました。私たちのうちに罪が住む

ようになったので、肉の頑張りによっては律法を行うことができなくなったのです。律法

が与えられ、神の基準が示されましたが、律法によって神の基準が分かっても、したい善

を行えず、したくない悪を行うのです。律法は私たちを正しく歩ませることはできないの

です。しかし神は私たちを正しく歩ませてくださいます。それは神の御子主イエスを信じ

る信仰によって可能にされました。神は御子主イエスを、私たちと同じ肉を取らせて、十

字架で処刑し、私たちのすべての罪の処罰をされたのです。

 4節。主イエスを信じる信仰によって、肉の頑張りで、自分の努力で律法を行うのでは

なく、御霊に従って歩むことで、私たちは律法の要求を満たす歩みができます。これが、

行いによってではなく、信仰によって義と認められるの意味です。いのちの御霊の律法、

原理、法則が、罪と死の律法、原理、法則から、私たちを解放したのです。律法は神の正

しさを教え、何をすべきか、何をしてはならないかを教えますが、私たちを正しく歩ませ

ることはできません。罪と死の律法が私たちを支配しているので、私たちは、肉の頑張り

によっては、神の律法を満足させる歩みができないのです。

 5節。私たちキリスト信仰者は、罪赦された罪人なので、罪が支配する肉の欲求に自分

を委ねることができます。それが肉に従う者と表現される状態です。肉の欲求に自分を委

ねるとき、肉に属することを考えていて、肉に従うことになります。しかし御霊に自分を

委ねる者は、御霊に従おうとしているので、御霊に属することを考えます。御霊がキリス

ト信仰者のうちに住んでおられるので、御霊に属することが分かるのです。

 6節。肉の思いと御霊の思いが対照的に述べられています。肉の思いは死へと導き、御

霊の思いはいのちと平安へと導きます。私たちは肉の欲求に従うのでしょうか。御霊の思

いを自分の思いとするのでしょうか。死ではなく、いのちと平安を得ましょう。

 7節。肉の思い、言い換えるなら、肉の欲求であり、自己中心の思いは、創造者である

神に聞くことを退けます。自分の考えや自分の都合、計画、基準を、神に聞くことよりも

優先するのです。だから肉の思いは神に敵対すると言われるのです。神に従うことを妨げ

ます。だから神の律法に従わせません。いや、神の律法に従うことはできないのです。

 8節。言い換えです。肉のうちにある者とは、肉の欲求を、神に聞くことよりも優先す

る者ですから、神を喜ばせることができません。当然の帰結です。

 9節。キリスト信仰者には、神の御霊がうちに住んでおられます。これは神が恵みの賜

物として心に宿してくださったからです。罪が分かり、罪の赦しを求めて、主イエス・キ

リストの十字架の贖いを受け取った者なら、賜物として聖霊が住んでおられます。主イエ

スを信じた者への神の約束です。神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるならは、

神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるのだからとの意味です。キリスト信仰者で

あるなら、御霊がうちに住んでおられます。だからあなたがたは、肉のうちにではなく、

御霊のうちにいるのですと自覚させています。私たちも、主イエスを信じて救われたのだ

から、御霊がうちに住んでおられることを覚えましょう。自覚するのです。

 もしキリストの御霊を持っていない人がいればとあります。これは、口では主イエスを

信じていると言ってはいても、自分の罪が分かっておらず、罪の赦しを求めていない自称

クリスチャンのことです。主イエスの十字架の死と復活によって差し出された罪の赦しを

受け取ってはいないのです。罪と罪の赦しが分かっていません。だから彼らは、どんなに

自分はクリスチャンであると言っても、キリストのものではありません。

 10節。キリストがあなたがたのうちにおられる、これがキリスト信仰者に与えられてい

る現在の霊的状態です。キリストがあなたがたのうちにおられるのだから、からだは罪の

ゆえに死んでいても、御霊が義のゆえに私たちを生かすいのちとなっているのです。その

結果、いのちの御霊の律法が罪と死の律法から、私たちを解放しています。これがキリス

ト信仰者である私たちになされている、神のみわざである霊的事実です。私たちは自分を

何に、誰に委ねようとするのでしょうか。いのちの御霊に従おうとしているでしょうか。

 いのちの御霊の律法、原理、法則を歩むことができる私たちですが、自分の肉の頑張り

で生きようと、いのちの御霊の支配から離れるなら、私たちの肉に働いている、罪と死の

律法に引きずられて、神の御前での悪を行うことになるのです。私たちはどちらも選ぶこ

とができます。肉に従うことも、御霊に従うことも、どちらでも選べるのです。

 11節。御霊は、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊と表現されています。こ

のお方、御霊がうちに住んでおられるキリスト信仰者は、キリストを死者の中からよみが

えらせた方の御霊によって、死ぬべきからだをも生かされています。神のみわざです。

 キリスト信仰者である私たち、罪の赦しを求めて、悔い改め、主イエスを自分の救い主

と信じた私たちは、主イエスを自分の主とあがめて、自分が中心ではなく、神を中心にし

て、神に聞いて生きるという全く新しい歩みを始めました。その私たちのうちには、御霊

が住んでいます。これほどすばらしい祝福、恵みはありません。

 そのような私たちですが、同時に、罪と死の律法にも晒されています。私たちがいのち

の御霊に従うことを止めたとたん、罪と死の支配下に置かれ、罪の誘惑に引き込まれてし

まいます。結果として肉の欲求を満たすことで、罪を犯すのです。その罪を放置したまま

悔い改めなければ、その報酬は死です。罪の報酬は死とは、神の定めです。しかしキリス

ト信仰者は、御霊の促しを受けて、罪を認め、悔い改めることができます。いつでも、い

のちの御霊に従うことができるのです。これはキリスト信仰者の特別の恵みです。

 私たちキリスト信仰者は、いのちの御霊に従って生きることを求め続けるべきです。肉

に従ってはなりません。御霊に属することを考え、いのちと平安を歩みましょう。


 
 
 

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