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2026年2月8日 礼拝「キリストのように、教会のように」エペソ5:21~33

  • 2月8日
  • 読了時間: 10分

 私たちキリスト信仰者は「互いに従い合いなさい」と招かれています。その「互いに」

の具体的な関係として、パウロは、夫婦関係、親子関係、主従関係を取り上げます。私た

ちはこの中で、夫婦関係を確認します。パウロは夫婦関係を、キリストと教会の関係にな

ぞらえて、互いに従い合うようにと命じたのです。夫婦が互いに従い合う、その結論は33

節です。夫は、自分の妻を自分と同じように愛する。妻は、自分の夫を敬うのです。私た

ちキリスト信仰者は、創造のときに定められた夫婦関係に立ち返るのです。

 22節。妻は夫に従いなさいとの命令から始まります。夫たちは心の中で、そうだと賛同

したと思われます。しかし夫は、自分の妻が、自分を尊敬し喜んで従う者となる責任が、

自分にはあることを覚えなければなりません。というのは今日の箇所は、ほとんどが夫に

関するものだからです。妻に対する勧めは、22節、24節、33節の後半だけです。それ以

外はすべて夫に関するものです。しかも夫と妻との関係は、キリストと教会との関係にた

とえられています。つまり夫の自分の妻に対する関わり方は、教会を愛するキリストのよ

うであるということです。だから心して聞き、そして行うことが求められています。夫が

自分の妻を愛する。妻が自分の夫を敬って従う。この理想の夫婦関係を作りあげていく責

任が、キリスト信仰者の夫婦にはあるのです。

 22節には、動詞がありません。ただ、主に対するように、自分の夫に対して、です。そ

れでこの文章を訳すにあたって、21節と24節から判断して、従うということばを補ってい

ます。21節。互いに従い合いなさいとあります。22節は、妻は夫に対しなさい、であり、

24節は、教会がキリストに従うように、妻もすべてのことにおいて夫に対しなさい、なの

で、妻は、夫に従うことだと判断して訳しているのです。

 妻に対しては明確な動詞はありません。それに対して25節。夫に対しては明確に、愛し

なさいと命じるのです。ちなみに親子関係の子どもたちに対して、主従関係の奴隷たちに

対しても、従いなさいと明確に命じています。これはとても興味深いです。妻の夫に対す

る命令は補完的です。だから従わなくても良いとはなりません。ただ、祝福された理想と

すべき夫婦関係を作り上げる重大な責任は、妻ではなく夫にあるということです。妻は、

神の定めた夫婦の秩序において、夫がリーダーとして、神に委ねられた責任と使命を十分

に果たすことができるように、夫を敬い、支える者として、夫に従うのです。23節。そし

て妻は、夫に従うことで、キリストに従っているということです。

 21節「互いに従い合う」と24節「教会がキリストに従う」の「従う」単語と、子ども

が親に従う、奴隷が主人に従うの「従う」単語は違っています。子どもや奴隷が両親や主

人に従うのは、聞き従うです。それに対して、互いに従い合う、教会がキリストに従うの

は、自分を相手の下に置くの意です。相手を尊重する、相手を立てるということです。

 23節。夫は妻のかしらとは、罪に陥った夫婦に対して神様が定められた秩序です。この

関係が定められたのは創世記3章16節です。女性にとっては屈辱的な定めです。しかしこ

れは、罪人の混乱した人間関係に秩序を与えるための必要悪と言えます。人は善悪の知識

の木から実を取って食べ、罪に陥り、神の絶対的な基準を捨てました。その結果が3章12

節のアダムのことばに現れています。自分の間違いを認めようとせずに、責任転嫁をする

のです。この女が悪い。この女さえいなければ、と自己正当化をします。罪人の特徴は責

任転嫁です。人に罪をなすりつけ、自分は悪くないと主張するのです。12節は、最も悪い

のは、神様あなたですよと、神に責任転嫁までしています。神様が女を造り、そして自分

のそばに置いたから、結局はあなたの言いつけを守ることができなくなったのですよ、と

罪を決して認めようとしない自己正当化の恐ろしさがあります。

 罪人の世界は責任転嫁の世界です。互いに人を悪者にする世界に、支配、被支配の関係

を定めることで、神はそれなりの秩序を与えました。必要悪として、人間の支配者を立て

たということです。独裁者が治める国でも、全体主義の国であっても、いろいろと問題は

あるとしても、無政府状態よりは安定した社会を作ることができると言われます。

 家庭においては夫にその任が委ねられました。夫は妻のかしら、家庭のかしらとして立

てられ、家庭を守る者とされたのです。ただ罪のゆえに、家庭に秩序を与えるという限度

を超えて、家族を自分の思い通りにしようとして、苦しめてしまうこともありますが、そ

うであったとしても、それなりの秩序が家庭にもたらされるのです。

 これが夫は妻のかしらとの意味です。夫が妻を守り、家庭を守り、導くリーダーとして

立てられています。主に仕える夫婦、主に従う家庭となるために、夫はかしらとして立て

られているのです。これがクリスチャンホームの目指す目標であり、祝福です。夫はより

ふさわしいかしらとなることを求めます。妻は、夫がよりふさわしいかしらとして、その

務めを果たすことができるように、夫を立てることによって、夫に従うのです。

 まだキリスト信仰者ではない夫に対しても、基本は同じです。キリスト者である妻は主

に従うように、夫に従うことに変わりはありません。神から離れて、自分の基準で生きて

いるとしても、夫がかしらとして立てられていることに変わりはありません。夫がかしら

としての使命と責任を果たすことを得させるのは、妻の接し方です。ここにキリスト信仰

者である妻の賢さが必要となります。知恵と品性とを聖霊からいただくのです。従うとい

うことばが、聞き従うではなく、自分を低めるということばが補われていることに、神の

ことばの適切さを知ります。夫に隷属するのでも、盲従するのでもありません。夫が、か

しらとして家庭を守り、導きたいと思う思いを強く持てるように、夫を敬うのです。夫を

家長として家庭を良く治める存在とするのは、妻の夫への接し方にあるのです。

 さて夫です。キリスト恐れて互いに従い合いなさいと命じられました。夫は自分の妻を

愛することで、妻に従うのです。夫に対する、25節から33節までの長い長い勧めで、パウ

ロは「自分の妻」という表現を繰り返し使って、夫に命じます。これは当時の社会におけ

る夫婦関係の乱れや、結婚に対する認識の低さを前提にしています。自分の妻として神に

与えられた助け手、助け合う夫婦関係の意識を深めさせるのです。

 新約聖書の時代、結婚観は非常に低く、夫婦関係は乱れていました。女性の地位が極端

に低められていたのです。ギリシヤ世界では、男は3通りの女性、快楽のための売春婦、

日常の同棲者としての愛人、そして子供を産み、家事一切を管理する者としての妻を持っ

ていました。このことは、夫と妻との親しい交流を破壊していたのです。それはローマ社

会でも同じです。セネカは「婦人たちは離婚されるために結婚し、結婚するために離婚さ

れた」と述べていますが、結婚の神聖さは完全に否定されていたことが分かります。

 このような社会の実状の中で、パウロは聖書が示す結婚の神聖さを書き記すのです。当

時の男性が毒されている結婚観を改めさせ、聖書の基準を植えつけるためには、ただ妻を

愛しなさいという命令だけでは不十分でした。自分のただひとりの妻を、キリストが教会

を愛されたように愛することを、懇切丁寧に書き送ることによって、それまでの身につけ

てきた間違った結婚観、夫婦に関する風潮を改めさせる必要があったのです。

 私たちも、結婚の神聖さが崩されている社会に生きています。だからこそ、聖書の基準

を生きる結婚生活が、真の幸いと祝福とを生み出すことを高らかに証ししなければなりま

せん。社会の風潮を教会に入り込ませるのではなく、私たちが、教会が、乱れた社会に良

い影響を及ぼすのです。私たちは社会に祝福をもたらす器としても召されているのです。

 25節。夫が自分の妻を愛する模範は、キリストの教会への愛、その愛し方です。夫は心

してこの命令を受け止めなければなりません。私たちは妻を好きになり、一緒に生活した

いと願って結婚しました。しかしキリストはそうではありません。教会、つまり私たち

は、愛される価値がなかったばかりではなく、敵対していたのであり、神が怒っておられ

る罪の中に死んでいた者たちです。そのような私たちを、キリストは愛されたのです。

 自分の妻を、キリストが教会を愛されたように愛するなど、とてもできないと感じてし

まいます。しかしキリストは、いのちを捨てる愛で私たちを愛されました。もしキリスト

が愛してくださらなかったなら、私たちは教会として、キリストの御前に立つことはでき

ませんでした。しかし今、私たちは教会として御前に立っています。

 夫である者たちは、この、キリストの愛を規範とし、手本とし、模範として、自分の妻

を愛するのです。私たちが好きになり、一緒に家庭を築くのだと決心した相手です。自分

を愛してくれ、いろいろと気にかけてくれ、何よりも私たちが一緒にいたいと願った人の

はずです。その妻を、キリストに愛されたことを感動した愛、ありのままで愛され、受け

入れられる喜びを味わった、その愛で愛することが命じられています。

 もし妻を愛さなくなっているなら、妻への要求が強いからではないでしょうか。結婚す

るまでは何かと相手のことを考え、相手が喜ぶことを惜しみなくしていたのに、結婚生活

が続くに従って、自分の要求を押しつけ、それが得られないと気分を害す。相手中心では

なく、自分中心の結婚生活を作ろうして、夫婦関係を壊していくのです。キリストは教会

を愛しました。その愛を私たちは知っています。その愛を求め、妻を愛するのです。

 26~27節。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたのは、この世

から教会を聖別するためでした。教会を導き、整え、変え続けながら、きよく聖なるもの

となった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためなのです。しみがあります。しわがあ

ります。きよくない部分があります。そのような教会を、みことばにより、水の洗いを

もって聖別してくださるのです。水の洗いはバプテスマです。みことばによって罪を示さ

れ、その罪を悔い改めて、イエス・キリストの十字架による罪の赦しを受け入れます。そ

の罪からの救いを象徴してバプテスマを受けるのです。バプテスマによって、この世から

聖別されたキリストのからだである神の教会に属するのです。

 28節。同様にです。夫は自分の妻を、自分のからだのように愛するのです。その目的

は、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のない者として立たせるため

なのです。夫は妻の支配者ではなくなりました。助け合う、互いの助け手なのです。

 31節、32節。罪がこの世に入る以前になされた宣言です。人が神に背き、罪がこの世

界に入った時、夫婦関係に、支配・非支配が定められました。30節。キリストのからだの

部分とされた私たちは、罪が入る以前の関係に回復されます。キリストを信じ、教会に属

する夫婦は、力ずくで支配したり、嫌々ながら支配されることから解放され、キリストの

ように愛し、教会のように従うことで、真の意味で一心同体となるのです。

 33節。夫は自分の妻を愛します。キリストに愛された愛で自分の妻を愛するのです。妻

は自分の夫を敬い、かしらとして立てるのです。これらは意思による決断です。感情に流

されてはいけません。心を定めて行うのです。真に祝福された夫婦関係を築き上げていき

ましょう。子どもたちにとっても幸いな家庭が作り上げられていきます。


 
 
 

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