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2026年1月25日 礼拝「主イエスは良い羊飼い」ヨハネ10:7~18

  • hikaruumichurch
  • 1月25日
  • 読了時間: 9分

 今日私たちは、主イエスが良い羊飼いであることを確認します。主イエスは、私たち主

イエスを信じた者を、ご自分の羊として、面倒を見てくださるのです。これほどの幸いは

ないことを確認し、羊飼いである主イエスに聞き従う歩みを確かにしましょう。

 羊は、羊飼いに対して、従順です。羊は視野は広いのですが、奥行きを見るなど距離感

を取ることが苦手だと言われています。なので窪みなどに足を取られひっくり返ることが

あります。もし毛がふわふわの状態で仰向けに転んでしまうなら、自分では起き上がれな

いので、助けられなければ死を迎えます。羊が良い草や良い水を見つけ、いのちの安全が

保たれるのは、羊飼いの世話によります。羊が羊飼いから離れたなら、きわめて危険なの

です。羊は良い羊飼いに従っている時、最も安全で、安心して、生きられます。

 羊は羊飼いの声を聞き分けると言われます。主イエスは良い羊飼いで、私たちがその羊

であるなら、私たちは主イエスの声を聞き分ける者となり、盗人で強盗である、悪い羊飼

いについていくことはないと言われます。

 7節。主イエスは、羊たちの門でもあります。そして8節。わたしの前に来た者、つま

り律法学者やパリサイ人など、ユダヤ教の宗教指導者たちを指して、盗人で強盗だと強い

非難をしています。彼らが主イエスを信じようとしないばかりか、主イエスを通して父な

る神の御許に行こうとする者たちを妨げているからです。しかしどれほど、主イエスを通

しての救いを邪魔しようとしても、主イエスの羊は、彼らの声を聞くことはなく、主イエ

スに聞き従う者とされるのです。事実、主イエスの弟子たちは、社会的に圧迫を受ける中

にあっても、イエスを主キリストと信じる信仰を堅くしていきました。

 9節。創造者である神が神の御子を人として、この地上に遣わされました。罪人をその

罪から救うために十字架で身代わりの処罰をするためです。主イエスの十字架の死と復活

によって差し出された罪の赦しを自分のためであると受け入れること、それが主イエスの

門を通って入ることです。その者は救われます。主イエスは門です。羊が保護と休息を受

けられる囲いの中に入るための門です。主イエスを信じる者が羊の囲いに入ります。この

囲いに入るためには、主イエスという門を通る以外の道はありません。だれでも主イエス

を通って入るなら救われます。出たり入ったりして、牧草を見つけると約束されます。

 11節。主イエスは、羊たちの門であると同時に、良い牧者でもあります。羊にとっての

幸いは、良い羊飼いに飼われているかにかかっています。良い牧者は、いのちをかけて羊

を守ろうとするからです。良い牧者は、羊のためにいのちを捨てる覚悟をしています。良

い牧者にとって、自分の羊を守ることは当然のことです。

 私たちはこの具体例を、ダビデのことばで確認できます。彼は王になる前、父の羊の世

話をしていた羊飼いでした。そうしてペリシテ人の大男ゴリヤテとの戦いに志願した時に

「しもべは、父のために羊の群れを飼ってきました。獅子や熊が来て、群れの羊を取って

行くと、しもべはその後を追って出て、それを打ち殺し、その口から羊を救い出します。

それがしもべに襲いかかるようなときは、そのひげをつかみ、それを打って殺してしまい

ます。しもべは、獅子でも熊でも打ち殺しました。この無割礼のペリシテ人も、これらの

獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をそしったのですから」とサウルに言い、

さらに「獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった主は、このペリシテ人の手から

も私を救い出してくださいます」と神である主への信頼を表明しています。

 ダビデは良い羊飼いとして、羊を守るために猛獣と戦いました。まさにいのちを捨てる

覚悟で羊を守ったのです。そしていつも、主が自分を救い出してくださったのです。そし

て私たちは、主イエスはダビデ以上の良い牧者として来られたことを覚えるのです。

 10節後半と11節。主イエスは、羊がいのちを得るため、それも豊かに得るために来ら

れました。主イエスは、ご自分を信じる者、自分を羊飼いとする者、主イエスの羊として

生きようとする者を、ご自分のいのちに豊かに生かしてくださるのです。良い牧者は羊た

ちのためにいのちを捨てます。主イエスは十字架でいのちを捨ててくださいました。

 14節。主イエスと、主イエスを自分の主を仰ぐ者たちとの関係が言われています。良い

牧者は羊たち一匹一匹をよく知っていて、名前を呼んで連れ出すように、主イエスは、私

たち一人ひとりをよく知っておられます。私たちが抱えている弱い部分も、醜い部分も、

至らない部分をも知っておられ、だから呆れてしまうのではなく、失望するのでもなく、

そのような私たち一人ひとりを真に生かすために関わってくださるのです。また羊が自分

の羊飼いを知っているように、私たちが主イエスを自分の羊飼いとして仰ぐなら、私たち

もまた主イエスをよく知る者となると言われています。

 主イエスが私たちを知り、私たちが主イエスを知る、その親密さは15節で分かります。

父なる神と御子イエスとの親密さに匹敵すると言われたのです。これはすごいことです。

主なる神はただひとりです。そして父なる神は主なる神、御子イエスも主なる神、聖霊な

る神も主なる神です。父なる神と、御子イエスと、聖霊なる神は、等しく主なる神である

と聖書は宣言します。と同時に、父なる神と御子イエスと聖霊なる神は、それぞれ固有の

位格を持つ存在であると聖書は宣言するのです。父と御子と聖霊はそれぞれ固有な存在で

ありながら、等しく、ただひとりの主なる神です。このあり方は私たちの理性を超えてい

ます。私たち人間には考え出せないあり方です。私たちは、そうなのですねと受け入れる

しかありません。納得できる説明もできません。父と御子と聖霊を混同してはならない。

父と御子と聖霊とを分離してもならないのです。分離することはできない父と御子が、お

互いを知っているのと同様なほどに、主イエスは私たちを知っており、主イエスを自分の

羊飼いとして仰ぐ私たちも、主イエスを知ることになると言われたのです。

 ここに私たちの救いの確かさがあります。私たちが主イエスを信じるとき、主イエスは

私たちの羊飼いとなって守り、導いてくださいます。天地万物を創造された、全知全能の

主なる神ご自身が、良い羊飼いとして私たちの面倒を見てくださるのです。私たち一人ひ

とりの癖も、特徴も、長所も短所も、持ち味も欠点も、すべてを知り尽くし、正すべき点

を正し、伸ばすべき点を伸ばすことによって、私たちを養い育ててくださいます。これほ

どのすばらしい歩みはありません。これが救われた者に与えられる約束です。

 17~18節。これはすごい宣言です。主イエスの十字架の死は、誰かに追いやられた予期

しない出来事ではなく、神の救いの計画に同意しての、自分の決断による行動でした。主

イエスには、いのちを捨てる権威があり、もう一度得る権威があると宣言されたのです。

主イエスがいのちを支配しており、私たちにいのちを与える権威を持っておられます。

 私たちも自分のいのちを捨てようと考えることがあるかもしれません。しかし捨てる権

威はありません。自分で死のうとしても、死ねるかは分からないのです。ましてやもう一

度得る権威はありません。主イエスがいのちを司っています。いのちを与え、いのちを取

り去る権威を主イエスは持っています。だから主イエスは、自分が来たのは、羊がいのち

を得るため、それも豊かに得るためですと断言するのです。このお方が私の羊飼いとなっ

てくださいます。私たちが羊のように、羊飼いとしての主イエスを仰いで、従順について

行くなら、私たちが迷い出ることはなくなります。

 16節。主イエスを救い主と信じ、自分の羊飼いとする者は、民族を超え、人種を超え、

文化や様々の違いを超えて、ひとつの群となると約束されています。主イエスを信じる前

の私たちは、良い羊飼いのいない、迷い出た羊のようでした。迷い出た羊のように、死に

向かって歩んでいた私たちは、主イエスという羊飼いのもとで生きることができ、いのち

が与えられ、また豊かに持つ者として、間違いのない歩みをすることができるようにされ

ているということを覚えましょう。

 羊のすばらしい特質の一つは、羊飼いに対して従順であることです。この従順という特

質を私たちも身につけたいのです。主イエスはご自分を信じた者たち、私たちキリスト信

仰者をご自分の羊とされました。私たちは、主イエスを自分の羊飼いとして仰ぎ、主に対

して従順であることを求め続けましょう。神のことばに聞き、素直に応じるのです。

 9章38節で主イエスは「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が

見えるようになり、見える者が盲目となるためです」と言っています。さらに、自分は目

が見えると言っているなら、罪は残るとも言われました。自分は、自分の判断で正しく生

きられると自負している者は、神の語りかけに耳を傾けようとはしません。必要と感じな

いのですから、神に対して従順に生きようなどとは考えないのです。逆に神の導きが必要

だと感じている者は、神の語りかけに耳を傾け、従順に生きようとします。私たちが「自

分は羊飼いに導かれる必要のある羊である」と自覚するなら、羊飼いとなられる主イエス

を感謝し、喜んで従うことになります。

 主イエスのこれらの話を聞いていた者たちに、分裂が起こったことを聖書は記していま

す。主イエスを自分の羊飼いにする者と、主イエスを自分の羊飼いにしない者とに分かれ

たのです。主イエスから直接教えを聞いた者であっても、主イエスを信じない者はいると

いうことです。私たちは主イエスを信じましょう。ご自分を信じた者に対する、主イエス

はすばらしい約束が27~29節で、次にようになされています。「わたしの羊たちはわたし

の声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、ま

た、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくだ

さった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはでき

ません」と。主イエスに聞き従う者への約束です。主イエスに従順でありましょう。

 主イエスは良い牧者です。良い牧者だから、羊たちのためのいのちを捨てました。十字

架で身代わりの処罰を受けることで、全人類のあらゆる罪に赦しを備えて、ご自分を信じ

るようにと招いておられます。良い牧者である主イエスに飼われる羊となるかは、私たち

が決めます。主イエスに飼われる羊となるなら、主イエスは、その大能の力でご自分の羊

たちを守り、私たちを父なる神の御許に導いてくださるのです。

 詩篇23篇でダビデは喜びと感謝を込めて告白しています。「主は私の羊飼い。たとえ死

の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから」

 私たちも、このように告白できる信仰者となることができます。主イエスを信じて、自

分の羊飼いとして仰ぎ、その声を聞いて、従順に従うだけです。


 
 
 

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