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2026年1月11日 礼拝「互いに従い合う」エペソ5:21

  • hikaruumichurch
  • 1月11日
  • 読了時間: 9分

 クリスマスなどで中断しましたが、再び月に一回の、エペソ人への手紙から、神の語り

かけを聞きます。エペソ人への手紙後半部分、4章から読み進めて、今日は11回目になり

ました。今朝私たちは、互いに従い合う関係になるようにと、教会の主に召されているこ

とを確認します。そのような者へと整えられていくことを求めましょう。

 本日の礼拝招詞では、1章3~4節が読まれました。ここに、私たちが主に召された目

的が記されています。私たちキリスト信仰者は、神の御前に聖なる、傷のない者とされる

ために救われたということです。私たちは主イエスを信じる信仰によって救われました。

それは、世界の基が据えられる前から、キリストにあって選ばれていたということです。

この霊的な事実を、私たちの理性は納得できません。私たちの知らない、理解を越えた大

いなる神のみわざであり、一方的なあわれみ、恵みによって、私たちは選ばれたというこ

とを、そのまま受けとめ、感謝するだけです。

 私たちが救われるために、神の御子は神のあり方を捨て、人としてこの地上に生まれ、

私たちの罪の処罰の身代わりに十字架で処刑されました。神の御子が神のあり方を捨て、

いのちを捨てるという高価な代価を払ったのは、私たちの罪に赦しを備えるためであり、

その救いのみわざを信じることで、私たちは救われました。本当に感謝です。しかし私た

ちが救われたのは、罪が赦されたことで完了ではなく、神の御前に聖なる、傷のない者に

なるためです。その完全な完成は、主イエスが再臨され、私たちが栄光のからだへと復活

する時になされます。しかしこの地上生涯においても、信仰の歩みを積み重ねる中で、神

の御前に聖なる、傷のない者へと整えられていくことが、主のみこころです。

 5章18節で、御霊に満たされなさいと招かれました。御霊は、主イエス・キリストを信

じて救われた私たちの心に住むように、と与えられた神からの賜物です。私たちは罪を赦

された罪人です。過去に犯した罪、現在抱えている罪、これから犯すかもしれない罪のす

べてが赦しの対象であり、罪のない者、罪を犯さなかった者と見なされるけれど、自己中

心という罪の性質を抱えている私たちは、神に聞き従うよりも、自分を優先することで、

神に背くことを選ぶこともあります。そうならないためには、御霊に満たされる必要があ

るのです。御霊の支配に自分を委ねるにしたがって、神の御前に聖なる、傷のない者へと

整えられていくためにです。救われた目的がここにあります。

 御霊に満たされるためには、賛美と感謝が有効です。19~20節。日々、主の偉大さを

覚え、そのみわざのゆえに主を賛美する。すべてのことについて、父なる神に感謝をささ

げる。私たちが御霊に満たされていく秘訣が述べられていました。

 さて今日の箇所21節です。キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。22節以降を読み

進めるなら、互いにの具体的な関係は、夫婦であり、親子であり、主従関係です。妻が夫

に、子どもが親に、しもべが主人に従うのは、当時の社会では当然でした。しかし夫が妻

に、親が子どもに、主人がしもべに従うとは、拒絶反応を起こす命令でした。しかし、キ

リストを恐れて、互いに従い合いなさいと、明確に命じられています。これが教会です。

 今日私たちは、キリストのからだである神の教会に集められているお互いを思いつつ、

互いに従い合うことを考えます。賛美と感謝の生活は、御霊に満たされるなら、当然でき

ます。逆に、キリスト者が賛美し、感謝していくことで、御霊に満たされていきます。し

かし、従い合う生活は、御霊に満たされなければできません。表面的には、また一時的に

は、自分の肉の頑張りで、自分を繕って、従おうとすることはできます。しかしそれは苦

痛です。信仰生活を苦しくし、自分が願うように評価されなければ、一変に不平や不満を

生じさせます。従うという生き方は、御霊に満たされて初めてできることです。御霊の助

けを求めた分だけ従う者となれるのです。

 神の教会には、千差万別の人々が集められ、神の家族とされています。「互いに」と招か

れている相手は、気の合う人、好ましい人とは限りません。気にくわない人であるなら、

私たちの肉の思いは、従うことを強く拒みます。しかし、その人と、互いに従い合う関係

を築くようにと招かれているのです。気にいらない相手であっても、嫌いなタイプであっ

ても、互いに従い合うようにと命じられています。その人もまた私を見て、苦悩している

かもしれません。ただ私たちは、同じくイエス・キリストを信じており、主のみこころを

第一とするという、基本的な生き方で一致できる相手です。なので、互いに従い合うこと

ができるはずなのです。御霊に満たされることを追い求めましょう。

 21節。「従う」は「下に置く」という意味のことばです。自分を相手の下に置き、自分

を相手よりも低くめる。その上で相手を立てるという意味で従うのです。つまりこの「従

う」は「仕える」と言い換えられます。そして「従う」こと「仕える」ことは「愛する」

ことで可能となるのです。互いに従い合うこと、互いに仕え合うことは、互いに愛し合う

ことでできます。自分の好みを優先させてはなりません。自分の感情に支配させてはなら

ないのです。父なる神が私たちを召し、互いに従い合う相手として置かれた主にある兄弟

姉妹です。だから「御霊に満たされなさい」と命じられるのです。御霊に満たされるので

なければ、従うことも、仕えることも、そして愛することなどできません。

 互いにとは、まず自分からと、自覚しましょう。人が自分に従い、仕えてくれることを

求めていては、互いには実現しません。「互いに」ということばに、自分を偽らせてはな

りません。一人一人が、他の人はどうであれ、自分がみことばに従って生活する時、互い

にという関係が生まれるのです。まず自分が、御霊の助けを求めて、従うことを決意し、

仕える者とされる。そうして従う関係が築き上げられていきます。

 21節。互いに従い合いなさいと命じる、その動機は、キリストを恐れてです。パウロが

キリストを恐れてと使うのは、この箇所だけです。だから私たちには馴染みのないことば

です。キリストを愛して、互いに従い合いなさい。キリストに信頼して、互いに従い合い

なさいと命じられたなら、はい、分かりましたと素直に応じられます。いのちを捨てるほ

どの愛で愛された私たちです。キリストを愛する愛に押し出されて、互いに愛し合う関係

を築き上げようとするでしょう。しかし、キリストを恐れては馴染みがありません。

 コリント人への手紙第二5章14節で「キリストの愛が私たちを捕らえている」とパウロ

は記します。私たちは、キリストの愛を受けた者として、キリストの愛で互いに従い合い

なさいと命じられる方が心地よく感じられます。まさにキリストの愛に生き、キリストの

愛に押し出されるのでなければ、互いに従い合うことなどできないでしょう。キリストに

愛された愛で互いに、キリストを愛する愛に押し出されて互いに、従い合うことを追い求

めるのです。私たちは、5章15節にある「自分のために死んでよみがえられた方」主イエ

スのために生きる者となった、私たちなのです。

 しかし21節で命じられているのは「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい」です。

キリストを恐れるとはここだけです。ただ、主を恐れるという表現を、パウロはコリント

人への手紙第二5章11節で使います。「主を恐れることを知っている私たちは、人々を説

得しようとしています」と、十字架の福音を宣べ伝える動機として使うのです。この文脈

では、キリストの愛に押し出されることも福音を伝える動機ですが、主を恐れるのは9~

10節を受けてです。私たちも、主を恐れる理由を正しく知っておくことは重要です。「そ

ういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うの

は、主に喜ばれることです。私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてし

た行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならない

のです」と述べました。「そのために、主を恐れることを知っている」と述べるのです。

 パウロは6章2節で「今は恵みの時であり、今は救いの日です」と述べます。この、今

はとは、終わりの日、キリストがさばきの座に着かれる日が意識されています。この事実

を忘れてはなりません。キリストはさばきの座に現れ、私たち一人ひとりはその御前に立

ち、善であれ悪であれ、この肉体においてしたすべての行為がさばかれて、報いを受ける

ことになります。だから私たちは、主を恐れることを知っています。

 パウロが、キリストを恐れて、としたのは、キリストのさばきの座の前に立つことを念

頭においていると考えられます。キリストを畏れ敬い、尊んで、キリストから良い報いを

受けることを喜びとして、互いに従い合うのです。パウロが、主のさばきを念頭において

いることに、襟を正したいのです。キリストをかしらとするキリストのからだである神の

教会においては、互いに従い合うことが最重要課題だということです。

 特に、強い立場にある者、支配的な立場にある者が、弱い立場に置かれている者、指示

を受ける立場にある者に対して、従う者になるのは、キリストの愛に押し出されるだけで

は難しいのかもしれません。だからパウロは、キリストを恐れて、互いに従い合いなさい

と命じました。私たちも、さばきの座に現れる主の御前に立つ時、互いに従い合い、互い

に仕え合う歩みをしてきましたという報告を携えて、主に喜ばれたいのです。

 私たちは、キリストの愛に捕らえられ、キリストの愛に押し出されて、また、主からの

良い報いを期待して、互いに従い合う者とされましょう。まず自分が従うことを求める。

そのために自分を低め、自己中心から解放されて、御霊に満たされることが必要です。御

霊の完全な支配に自分を明け渡して、つまり古い自分、自己中心の古い肉の人である自分

に死んで、キリストの愛に押し出されて、互いに従い合い、互いに仕え合うのです。

 私たちはキリストのからだを構成する器官として召し集められました。神の恵みによっ

て救いに与かり、キリストのからだの大切な一つの器官とされて、組み合わされ、結び合

わされています。教会が、かしらであるキリストにふさわしく整えられるためであり、キ

リストのからだとして健全な成長を遂げるためなのです。私たちは互いに愛し合い、互い

に従い合うことで、愛のうちに建てられていくのです。


 
 
 

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