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2026年1月18日 礼拝「私のうちに住んでいる罪とは」ローマ7:15~25

  • hikaruumichurch
  • 1月18日
  • 読了時間: 10分

 私たちは信仰によって義と認められます。主イエスの十字架での身代わりの死を、自分

の罪のためであると受け入れ、罪を悔い改めて、主イエスを救い主と信じる信仰によって

神に義と認められるのです。神の一方的な恵みによる罪の赦し、罪からの救いです。

 今日私たちは、パウロも苦悩した、自分のうちに住んでいる罪について確認します。私

たちに与えられた救いは3段階あります。罪が赦される、神に義と認められるのが出発点

です。これはすべてのキリスト信仰者に与えられており、主イエスの十字架を信じる信仰

によって救われます。救われたので、新しいいのちが与えられ、神のいのちに歩み始めて

います。救いの完成は、主イエス・キリストの再臨によって、罪の全くないからだ、栄光

のからだに復活する時、あるいは変えられる時になされます。

 義と認められて、地上での信仰生活を積み重ねる中で、私たちは罪の性質と戦いつつ、

罪から解放されていきます。霊的に成長しながら、神の聖さに近づいていくのです。救い

の次の段階と言えます。この7章でパウロが取り上げているのが、この部分です。罪の性

質との戦いです。罪を犯さないからだに近づけることを可能にする、救いのみわざです。

 パウロは、主イエスを信じる前、自分は「律法による義については非難されるところが

ない者でした」と豪語する歩みをしてきました。自分たちが作り上げた相対的な基準に照

らすなら、パウロほど、律法を完全に守っていた人物はいないのかもしれません。しかし

人と比べてのどんな自己評価も、絶対的な基準を持つ神の御前では通用しません。主イエ

スを信じる前のパウロは、自分の肉の頑張りで、相対的な基準での律法を、非難されると

ころがないと豪語できるまでに守り行っていました。持って生まれた資質や能力が人と比

べて秀でていたということです。そうして自己満足と自己是認に陥っていたのです。

 しかし主イエスを自分の主とあがめてから、パウロの自己評価の基準が変わりました。

復活された主イエスがあわれみのゆえに、パウロにご自分を現してくださったことで、パ

ウロは自分の間違いを正されました。これまでナザレのイエスに敵対することが、神に従

うことだと確信していて、キリスト信仰者を迫害してきたけれど、それが神への反逆行為

だったのです。自分は神にさばかれ、滅ぼされて当然の罪人なのに、パウロにも罪の赦し

が差し出されていて、そのために主イエスは十字架で罪の処罰を受けてくださったと教え

られ、その救いのみわざを信じて受け取ることで救われたのです。人は律法の行いによっ

てではなく、主イエスを信じる信仰によってのみ、神に義と認められるのです。

 パウロの罪に対する認識は変わりました。それまでは、自分たちで基準を定め、肉の頑

張りでそれを行えれば罪とされず、行えなければ罪であるとしていたのです。だれが、ど

のように定めるかで基準が変わり、それを行えているか、行えていないかの評価も、人に

よって変わりました。だからパウロは、自分について「律法による義については非難され

るところがない者でした」と豪語できたのです。しかし神の御前に自分を立たせ、神の絶

対的な基準に照らして自己吟味する時、自分のうちに罪が住んでいると認識したのです。

 15節。パウロは自分を見つめます。かつては、自分が神にあってしたいと願うことをし

ていたし、自分が神にあって憎んでいることをしていなかったと自負していました。それ

は自分が作った基準に神と神の律法を合わせていたからでした。しかし今は、神の御前に

自分を立たせ、神のみこころは何かを基準として、神と神の律法とに向き合っています。

その観点から、神に喜ばれることをしたいと願い、神が悲しまれることは止めたいと願う

者へと変えられました。しかし現実は、その逆になっている自分がいるのです。

 16節。自分がしたくないことを行っているとは、それが神の御前で悪いこと、してはな

らないことだと頭では分かっているのに、それを行っているということです。それが悪い

こと、してはならないことだと分かっているのは、神の律法に同意しているからです。律

法は良いものと認めているのです。これがキリスト信仰者の特徴です。神のことばに同意

し、神のことばを良いものと認めるのです。ただし心から同意し、良いものであると認め

ているとおりには、行えていない自分がいます。

 17節。ここでパウロは、自分のうちに2つの相反する力があると自覚します。主イエス

を信じる信仰によって新しくされた自分と、その自分のうちに住んでいる罪です。主イエ

スを信じる前には、罪に支配されている自分だけでした。かつての私たちもそうです。

 私たち人間は神のかたちとして、神の似姿に創造されているので、心に神の基準が植え

付けられています。良心です。善悪の判断ができます。何が良いことで、何が悪いことな

のかをだれもが知っています。相対的な基準ではあっても、その基準に生きようとするこ

とで社会秩序が保たれています。それぞれが肉の頑張りで、それぞれの基準を守ろうとし

ているので、秩序が保たれているということです。

 しかし肉の頑張りでは、各人の資質や能力によって、その基準を守れたり、守れなかっ

たりします。頭では正しいことをしたいと願っているのに、肉の欲求はそれをしたくない

と抵抗します。頭では悪いことと分かっていて、してはならない、止めなければならない

と願っているのに、肉の欲求はそれをさせ、止めようとする意思に抵抗するのです。そし

てその人の肉の頑張りでは制御できなくなる時、人は肉の欲求に負けるのです。

 しかし、今パウロが取り上げているのは、私たちのキリストにある新しい人と、キリス

トを信じる前の古い人との鬩ぎ合いです。私たちは主イエスを信じる信仰によって罪を赦

されました。神に義と認められ、神はキリストのうちにある私たちを、罪のない者、罪を

犯さなかった者と見なしてくださり、心に賜物として神の御霊を宿してくださいました。

キリスト信仰者のうちには、神の御霊に従いたいと願う新しい人と、肉の欲求に従いたい

と願う古い人がいるのです。

 18節。パウロは、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちには善が住んでいないこと

を知っている、と言います。キリスト信仰者になって、自分が考える良いことは、根本的

に変えられました。自分が判断の基準ではなく、神が判断の基準になりました。神と神の

ことばに対して、自分の考えに合うか合わないかで取捨選択していた者が、神と神のこと

ばに自分を合わせる者へと変えられたからです。自己中心だった者が、神を中心にする者

へと変えられたのです。その上で、良いこと、すなわち、神が良しとされることを行いた

いという願いがいつもあるのに、それを実行できない自分がいるのです。

 19~20節。繰り返しです。自分の本質を正直に見つめます。したいと願う善は行わない

で、したくない悪を行っていると。自分の肉の欲求に従うなら、したいと思うことは行う

けれど、したくないと思うことは行わないことになります。キリスト信仰者ではない人々

にとって、これが普通です。本能のままにという生き方です。しかし主イエスを信じて、

創造者であるまことの神を自分の神として歩みたいと願うキリスト信仰者は、したいと願

う善としたくないと思う悪の基準が変えられています。それなのに、したいと願う善を行

わないで、したくない悪を行う自分、肉の欲求に従わせられている自分を見るのです。そ

うしてパウロは、それを行っているのは、私のうちに住んでいる罪と断定しました。

 21節。パウロは自分のうちに原理を見出します。原理は、法則、律法とも訳せることば

です。神が良しとされること、神が喜んでくださること、神に受け入れられること、神の

御前での善を行いたいと願っている自分に、悪が存在しているのです。

 22~23節。パウロは内なる人と紹介します。主イエスを信じる信仰によって、神に義と

認められて、神のいのちに新しく誕生した人が内なる人です。パウロはエペソ人への手紙

で「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもっ

てあなたがたを強めてくださいますように」と書き送りましたが、神を中心として生きよ

うとする私たちの新しい人は、御霊の働きを受けて強められ、霊的に成長していきます。

それを妨げるのが、私たちの外なる人、自己中心に生きさせようとする古い人です。キリ

スト信仰者は、古い人と新しい人との鬩ぎ合いを続けながら、御霊に助けられて、霊的な

大人へと成長していき、神の聖さに近づいていくのです。

 私たちの内なる人は、神の律法を喜んでいるのですが、私たちのからだには、肉の欲求

に従わせようとする異なる律法、原理、法則があって、心の律法に対して戦いを挑んで、

自分を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていると言うのです。

 パウロは自分のうちに、相反することをさせる原理、法則があると告白します。内なる

人と外なる人すなわち肉の人、心の律法とからだにある罪の律法、そして神が善とするこ

とを行わせないで、神が悪とすることを行わせようとする自己中心の罪を認めるのです。

 24節。パウロは告白します。自分は本当に惨めな人間だと。その上で、だれがこの死の

からだから、自分を救い出してくれるのかと問うのです。私たちはどうでしょう。パウロ

のように自分を見ているでしょうか。それとも平気で、神の御前での善を行わないで、神

の御前での悪を行うのでしょうか。もし平気であるなら、自分のキリスト信仰は何なのか

を問い直した方が良いかもしれません。本当に罪が分かり、罪から解放されたいと願って

いるのか、罪を赦されたから、それで良しとして、好き勝手に生きようとするのかです。

 ヘブル人への手紙の著者は「あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したこ

とがありません」と書き送りましたが、私たちも、自分のうちに住んでいる罪と戦って、

抵抗し続ける必要があるのではないでしょうか。自己中心で、肉の欲求に従い、神の御前

での善、神に喜ばれること、神が良しとされること、神に受け入れることを知っていなが

ら、それらを行わないで、神が悲しまれること、神が憎まれること、神に拒まれることが

分かっているのに、それを選び取る悪を行うことに平気になっているなら、悔い改める必

要があります。その時主イエスが、この死のからだから、私を救い出されます。

 25節。自分がいかに惨めな人間であるかを認めることが、パウロをして、神への感謝を

生じさせました。主イエス・キリストを通して、神への感謝に導かれるのです。自分の肉

の頑張りでは、肉の欲求に勝つことはできません。主イエスを信じる信仰によって、神に

義と認められ、救われたように、賜物として与えられている、心に宿っておられる聖霊に

助けを求め、信仰によって、肉の欲求、自己中心という罪と戦うことで、私たちは勝利す

ることができるのです。私のうちに住んでいる罪、神を中心にさせず、自己中心に生きさ

せようとする古い人から、私たちを解放するのも、信仰による従順なのです。

 神と神のことばを、自分に合わせて変えるのではなく、自分を、神と神のことばに合わ

せて変えていただくことが救いです。自己中心という罪の性質を認め、聖霊の助けをいた

だいて、自己中心を退けて、神を中心にする信仰の歩みへと整えられていくこと、神の聖

さに近づいていくことも、信仰によって、御霊なる主の働きに自分を委ねることで可能と

なります。私のうちに住んでいる罪と向き合い続け、救いを求めましょう。


 
 
 

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