2025年12月14日 礼拝「主を迎える備えをする」黙示録 22:10~21 アドベント3
- hikaruumichurch
- 1 日前
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アドベント第3週を迎えました。いよいよ来週はクリスマス、救い主イエス・キリスト
の誕生を記念する日を迎えます。アドベントとは来臨という意味です。4週の日曜日をア
ドベントの期間として過ごし、神の御子が人として来られた意味に思いを潜め、私の罪に
赦しを備えるために、十字架で身代わりの処罰を受けるために来臨されたことを深く覚え
て、主イエス・キリストの人としての誕生を心から感謝するのです。
同時に、十字架で死なれ、三日目に死を打ち破って復活された主イエスは、40日の間、
弟子たちに復活の事実を確認させた後、もう一度来られることを約束して、天に上って行
かれました。キリスト信仰者は、主イエスの2度目の来臨を待ち望み、再臨の主を迎える
心備えをもするのです。このアドベントの期間に、私たちは、再臨の主を迎える者である
ことをも意識し、喜びをもって主イエスを迎える備えをします。
今日私たちは、ヨハネの黙示録の最後の部分を開いています。初代キリスト教会はロー
マ帝国からの激しい迫害を受けていました。そのような緊迫した状況の中で、使徒ヨハネ
は終末に関する幻を見せられたのです。この世、まことの神を認めようとしない人々が作
り出す社会は、まことの神への敵対を強め、キリスト信仰者に対して、激しい迫害を加え
続けます。キリストにある地上の教会は困難を歩みます。しかし天上においては、神への
礼拝がささげられているのです。黙示録には、地上の様子と天上の様子が交互に述べられ
ています。地上でのまことの神への反逆は激しく、信仰者は苦闘を強いられるのですが、
天上においてはまことの神と主イエスに対する礼拝が高らかに献げられています。
ヨハネは地上と天上を交互に、対照的に見せられながら、新しい天と新しい地の再創造
へと向かう神の計画を示され、それを迫害の直中に置かれている教会への励ましと希望と
して記すのです。この書を通して地上の教会は、永遠の視点を持って信仰を全うする幸い
を確認し、希望をもって歩み続けました。この世は神のさばきの対象として、様々な災い
に晒され、ついには跡形もなく消え去ります。最後まで、神を恐れず、神に聞いて生きる
ことを拒む者に対して、神の怒りはぶちまけられるのです。
使徒ヨハネは、この世の終末に関する神のご計画を知らされた後で、最後に告げられた
ことばを記しました。10節。この書の預言のことばを封じてはならない。語り告げなけれ
ばならないということです。創造者である神を無視して、自分の欲望に従って生きる者た
ちに対する警告です。時が近づいています。人として誕生した神の御子、主イエスは十字
架による身代わりの処罰を受けることで罪に赦しを備え、救いをもたらしました。主イエ
スの十字架での死と復活によって救いのご計画は完成しています。主イエスを信じる信仰
によって罪の赦しを受けるのでなければ、救いはありません。それを受け入れるか、拒む
かは私たちが決めるのです。十字架による救いを拒む者は、神の愛をも、神ご自身をも拒
むことになります。そのような者に対して、黙示録は警告します。創造者である神を神と
する者には希望の書ですが、創造者を自分の神としない者にはさばきの書です。どれほど
この地上において繁栄を極めたとしても、この世は跡形もなく消え失せます。創造者であ
る神を無視して生きた者は、神のさばきによる滅びから逃れることはできません。
12節。主イエスが「わたしはすぐに来る」と語られてから2千年が過ぎようとしていま
す。今日の交読箇所ペテロの手紙Ⅱ3章8~9節を見ましょう。主なる神の約束の実現は
遅いと思うでしょうか。主の御前では1日も千年も同じです。時間を創造し、時間を超越
しておられる神に、私たちの時間の感覚を押しつけることはできません。
主イエスが十字架で、罪のための身代わりの処罰を受け、三日目に死者の中から復活し
たことにより、罪の赦しは備えられ、罪からの救いは完成しました。その時から、主イエ
スが宣言された「わたしはすぐに来る」が、いつ実現しても良い、終末の時代に入ったの
です。初代教会時代に終末を迎えても良かったし、千年前でも今日でも構わないのです。
今私たちは、終末を生きているのです。創造者である神はこの世を滅ぼし、新しい天と新
しい地を再創造されます。主なる神は主イエスの再臨の日を、私たち罪人のために延ばし
ておられます。罪人が自分の罪を認めて悔い改め、罪の赦しによる救いを自分のものとし
て受け取るようにと、あわれんでくださっているのです。
黙示録22章10節。ヨハネが幻を見せられた時に、近づいたと言われた終末は、今、さ
らに近づいたとだけは言えます。時は近づいています。だから私たちも、警告のことばを
語るのです。主を迎える備えの第1は、福音を伝えることです。福音は、十字架で処刑さ
れた主イエスを信じる信仰によって、罪の赦しと救いを受けることができるという、良い
知らせです。福音を信じる者には、慰めに満ちた喜びの音づれであり、救いを得させる神
の力です。しかし福音は、信じない者には、そのまま滅びの宣告です。罪の赦しによる救
いを拒む者は、自分が犯した罪に向けられた神の怒りによる公正な処罰を受けるのです。
この恵みであり、警告である福音が私たちに委ねられました。主の再臨と世の終わりの
時は近づいています。今は恵みの時、今は救いの日です。主イエスが再臨されてからは、
救いを見出すことはできなくなります。だから今、罪の赦しによる救いという福音を伝え
るのです。クリスマスはその絶好の機会です。私たちは、喜び、楽しんでクリスマスを過
ごすと同時に、私たちが受け、味わっている救いの喜びと感謝は、主イエスを信じる信仰
によってのみ与えられると、大胆に証していきましょう。
11節。主を迎える備えの第2です。不正を行う者と正しい者、汚れた者と聖なる者が対
照的に記されています。神と無関係に、神から離れて生きる者と、神に信頼し、神の基準
で生きる者との対照です。中庸はありません。どっちつかずでいることはないのです。厳
粛です。ますます神から離れていくのか、いよいよ神に近い者とされるのか、私たちの意
思に委ねられた選択であり決定です。神を愛するのか、自分を第一にするのかの、意思に
よる選択が左右するのです。不正を行う者は、ますます不正に引き込まれ、汚れた者は、
ますます汚れを行います。私たちは、キリスト信仰者として、いよいよ主の御前での正し
いことを行い、いよいよ聖なる者となることで、再臨の主を迎える備えとするのです。
キリスト信仰者は神に属する者、聖なる者とされました。聖なる者とされたのだから、
ますます神の聖さに近づいていく、聖なる者としてのふさわしさを求めるようにと招かれ
ています。主なる神の基準を喜び、神の基準に自分を合わせる一歩を踏み出すことで、さ
らに聖なる者へと整えられます。時の使い方、金銭の使い方、その他主なる神から委ねら
れているものの使い方において、主なる神を第一とする優先順位に生きるのはどうするこ
とかを、祈りつつ吟味しましょう。変える必要があるなら、変えていただくのです。
17節。主を迎える備えの第3は「来てください」と心から叫ぶ者となることです。御霊
と花嫁が「来てください」と言います。御霊、聖霊なる神はキリストの再臨を待ち望んで
います。だから、聖霊なる神を心に宿しているキリスト信仰者は、御霊とともに「主イエ
スよ、来てください」と叫ぶのです。御霊の思いに、自分を合わせましょう。
花嫁とは、キリストのからだである神の教会です。花嫁が花婿の来るのを待ち焦がれる
ように、花嫁である教会は花婿であるキリストの来臨を待ち焦がれるのです。キリスト信
仰者の一人一人が花嫁なのではなく、教会が花嫁です。このことをまず確認しましょう。
主イエスを信じた時、キリスト信仰者は、キリストのからだである神の教会に組み入れら
れ、キリストのからだを構成する大切は一器官とされたのです。
キリストのからだである神の教会に組み入れられるとは、目に見えない公同の教会、す
べての主イエスを信じ、神のものとされた信仰者が各器官である神の教会の一員とされる
こととであり、同時に、目に見える地域教会、そのひとつが私たち八重山福音光る海教会
であり、その教会の一員とされる、神のみわざです。
使徒ヨハネはその手紙の中に、次のように書き記しました。「神を愛すると言いながら
兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に
見えない神を愛することはできません」と。主イエスを信じた者同士、神の家族とされた
目に見える兄弟を愛そうとしない者に、目に見えない神を愛することはできないと言うの
です。これはそのまま、キリストのからだである神の教会に属することにあてはめること
ができます。目に見える地域教会に属そうとしない者が、目に見えない公同の教会に属す
ることはできないのです。
各地域に置かれた、目に見えるキリストのからだである神の教会から離れていては、キ
リスト信仰の健全さを保つことはできません。健全で、健康な教会生活から離れている
と、独善的な信仰に陥ります。健全で、健康は信仰は、健全で、健康な教会生活で育まれ
るのです。
花嫁が叫びます。「来てください」と。だから私たちも叫びます。教会が叫びます。花
婿である主イエスの来臨を待ち焦がれて叫ぶのです。もし主イエスの来臨を心待ちにでき
ないとするなら、信仰を吟味しましょう。御霊なる神を心の隅に追いやっていたり、健全
な教会生活ができなくなっているのかもしれません。私たちは教会の一員として「主イエ
スよ、来てください」と叫び、主の再臨を待ち焦がれる信仰者とされましょう。
18~19節。神のことばに何かを付け加えてはなりません。神のことばから何も取り除
いてはなりません。自分に都合良く神のことばを変える誘惑を排除して、いつも、神のこ
とばに自分を合わせて、自分を変えていただきながら、主の再臨を待つのです。終末を生
きる私たちは、主イエスがいつ来られても、今日来られても、心から喜び、感謝して迎え
るられるように備えるのです。私の終末が今夜かもしれません。つまり今夜死んだとして
も、主にお会いできることのゆえに、自分の死を喜ぶ者でありたいのです。
20節。主イエスは私たちに罪の赦しを備えるために、十字架で身代わりの処罰を受ける
ために、人として生まれてくださいました。この誕生を記念するのがクリスマスです。私
たちを愛して、私たちに永遠のいのちを与えるために、神の御子、主イエスはこの地上に
来てくださいました。その目的を達成するために、十字架で、私たち全人類のあらゆる罪
の罰を、その身に引き受けて、私たちの身代わりに処罰されたのです。
いのちを捨てるほどの愛で愛された私たちです。愛と恵みが豊かに与えられています。
主イエスにいのちを捨てるほどの愛で愛されています。その主イエスの再臨です。私たち
は喜びと感謝をもって、待ち焦がれる思いで、主の再臨を待ちましょう。「アーメン。主
イエスよ、来てください」と心から叫び、待ち望むのです。




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