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2025年12月7日 礼拝「人の従順と預言の成就」マタイ1:18~25 アドベント2

  • hikaruumichurch
  • 12月7日
  • 読了時間: 7分

更新日:1 日前

 アドベント第2週を迎えました。先週に続けて、神の御子の誕生について、聖書から確

認します。創造者である神はご自分の約束の実現のために、人を用います。主なる神は一

方的な恵みで人を選び、ご自分の働きに用いられるのです。神の御子の人としての誕生に

は、母親として処女マリアが、育ての父親としてヨセフが選ばれました。

 私たちは今日、ヨセフの選びと、ヨセフの従順を確認します。主なる神は全能の神です

から、人の助けなど必要としません。しかし、あえて人を、私たちを用いようとします。

 私たちは神に愛され、神のかたちとして、神の似姿に、特別に造られました。だからこ

そ、私たちの自由意思に働きかけて、神のみわざに参与するようにと招くのです。私たち

が、神の招きに応じて、神のみわざに参与することで、神の力あるわざ、その全能の御力

を体験的に知り、さらに霊的成長へと進ませるためです。

 18節。ヨセフとマリアは婚約期間に入っていました。当時のユダヤ社会では、一年ほど

の婚約期間を経て、結婚生活に入るのです。婚約期間は法的には夫婦ですが、一緒に住む

ことは許されず、婚礼への備えの期間でした。18節に記されている、ふたりがまだ一緒に

ならないうちにとは、法的には夫婦であるが、一緒には生活していない時に、という意味

です。ヨセフは、マリアが身重になったことを知ります。聖霊によって身ごもったとあり

ますが、ヨセフには理解できなかったことでしょう。

 マリアがヨセフに知らせたのではないかと思われます。御使いが現れたときの情景や御

使いのことば、自分の応答など、細かに伝えたと考えられます。ただヨセフにとっては、

マリアを信じたくても、信じられない話であり、大きな衝撃でした。マリアが嘘をついて

いるとは思いたくないけど、鵜呑みにもできない。妊娠という事実の前で、ヨセフの心は

かき乱され、どう処理すべきかを悩んだことが想像できます。

 その決断が19節です。マリアをさらし者にはしないで、密かに離縁しようとしました。

さらし者にするとは、姦淫の罪を糾弾し、石打ちにするということです。

 ヨセフは正しい人でと記されています。正しい人であるとは、神の御前で正しく生きよ

うとし、神に正しいと見なされる歩みを追い求めるという意味での正しさです。自己評価

ではなく、他人からの評価でもなく、神の評価を気にする人で、神のことばに聞いて、そ

れを生きようとします。主の律法に照らすなら、自分以外の男性によって身ごもったであ

ろう女性を妻にはできません。と同時に、マリアをさらし者にはしたくありません。ヨセ

フは悩んだ末、マリアの罪を不問にし、密かに離縁することにしたのです。離縁されてい

れば、姦淫の罪が糾弾され、石打ちに処せられることはないからです。

 ヨセフは正論を振りかざすこともできます。自分が誠実を尽くしてきたのに、マリアの

裏切りは許せないと、その鬱憤を晴らすために、マリアをさらすこともできました。しか

しヨセフは、マリアの不実を問いただすことをしませんでした。どうしてそのようなこと

したのか、聖書は何も記しません。そのようにしたという事実だけを記すのです。その結

果、マリアは殺されず、救い主が誕生する道が開かれたのです。

 もう一度、ヨセフは正しい人で、と紹介された事実を考えます。正しい人とは、主なる

神のことばに聞き、誠実に従おうすることだと語りました。主なる神のことばを、自分に

都合よく変えるのではなく、自分の思いを遂げるために利用するのでもなく、主なる神の

ことばをどう適用するのが、主の御前に正しいのかを祈り求めて、神がさせようとするこ

とを行おうとすることが、神のことばを生きることであり、正しい人と称される生き方に

導かれるのです。ヨセフは、マリアに対するさばきを神に委ねました。もしマリアに罪が

あるのなら、義なる神は必ず公正にさばきます。正しい神に処置を委ねることで、自分の

人間的な感情による報復から解放されたのです。

 20節。御使いが夢に現れて、マリアの妊娠について説明されました。その胎に宿ってい

るのは聖霊によるのです。そして神の計画が告げられます。21節。マリアは男の子を産む

から、その名をイエスと付けるように指示されるのです。マリアが産むイエスこそ、罪か

らの救い主なのだと説明されます。そして処女が男の子を産むということは、預言者を通

して語られた神のことばの成就なのだと告げられたのです。22節。

 23節は、預言者イザヤを通して語られました。インマヌエルとは、神が私たちとともに

おられるという意味です。神であられたお方が、神のあり方を捨てて、肉体を取られたの

です。主イエスがマリアの胎内に宿ったとき、霊の存在のあり方を捨てて、私たちと同じ

肉体を取られたのです。主イエスは肉体を取られた神となられました。

 主イエスは、神であることを、まことの人で覆い隠し、人として体験するすべてのこと

を体験されました。無力な赤ちゃんに生まれ、両親の保護を受け、幼なじみと遊び回り、

大工として働き、低い身分を味わい知り、弟や妹たちの面倒を見、母親を助け、社会的な

責任を果たしたのです。一度だけ人としての覆いをはずして、神としての栄光を弟子たち

に現わしました。高い山の上で、ペテロとヤコブ、ヨハネの3人の弟子に、ご自分の栄光

の姿を見せたのです。その時から、キリストは十字架で死ぬこと、そして三日目によみが

えらなければならないことをはっきりと語り始めました。

 神の御子が人としてこの地上に来られたこと自体がインマヌエル、神が私たちとともに

おられるという約束の目に見える形での実現です。私たちが神を拒絶し、神から離れまし

た。しかし神は、ともにいてくださる関係へと、私たちを招いておられるのです。

 24~25節。ヨセフは眠りから覚め、夢による神の語りかけを受け入れ、命じられたと

おりに従いました。妻マリアを受け入れ、結婚生活を始めたのです。聖書は記していませ

んが、様々な非難にさらされたでしょう。彼らは婚約期間を待てなかったと、蔑まれたと

思われます。希望に胸をふくらませて待ち望んでいた婚礼の祝いもできませんでした。し

かし人の中傷や非難を、ヨセフとマリアは神に従うことで乗り越えたのです。しかもヨセ

フは、主イエスが誕生するまで、マリアとの夫婦生活を控えました。ここにもヨセフの神

に対する誠実さを見ることができます。まさしく正しい人と称される人物でした。

 マリアも、ヨセフも、神の語りかけに対して、人間的な常識で判断するなら、そのよう

なことはあり得ないと応答して当然です。しかし彼らは、主によって語られたことは必ず

実現すると信じたので、自分を神に差し出すことで、主なる神のみわざに参与しました。

私たちは確認しましょう。神のみわざは、私たちの常識や理性をはるかに超えて行われる

ことをです。人間的な常識や知識で、神のみわざを制限してはなりません。主なる神の約

束、神が語られたことは、時が来れば必ず実現するのです。その神の招きのことばに聞き

従うことで、神のみわざに参与し、全能の御力を体験する私たちでありたいのです。

 主なる神は、私たちをも用いようとされます。私たちも神のことばに従順でありましょ

う。日々聖書を開き、神のことばに触れていることが大事です。神のことばに触れ続ける

ことで、神の招きを聞くのです。聖書には、神の私たちへの語りかけのすべてが記されて

います。聖書に親しむことで、神の語りかけを聞けます。聖書を開きましょう。

 また主イエスを信じている者の心には、賜物として聖霊が宿っています。聖霊が心に住

んでいてくださることは、主を信じる私たちへの神からの約束です。聖霊が心に住んでお

られることは大きな恵みであり、インマヌエルそのものです。

 私たちは聖霊なる神を心に宿しているので、聖霊ご自身の語りかけを聞き、聖霊に導か

れて歩むことができます。聖霊は神のことばによって語りかけます。だから聖書を開いて

神のことばを聴き、蓄えることが大事です。聖霊の語りかけに敏感になり、聖霊の促しに

素直に聞き従う者となりましょう。日々神のことばに触れ、聖霊の助けを受けて、神のこ

とばを生きる一歩を踏み出すのです。主なる神は私たちをも、ご自分の大いなるみわざに

用いようとされます。マリアは御使いガブリエルの招きに応えました。あなたのおことば

どおり、この身になりますようにと、自分を神に明け渡し、神の全能の御力を体験し、神

のみわざに参与したのです。ヨセフも御使いのことばに従いました。私たちも、神のみわ

ざに参与させていただき、用いられたいのです。みことばに触れ続けることが鍵です。

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