2025年11月16日 礼拝「知恵のある者として歩む」エペソ5:15~20
- hikaruumichurch
- 11月16日
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皆さまに質問します。あなたは知恵のある者として歩みたいですか。それとも知恵のな
い者として歩みたいですか。もちろん、知恵のある者として歩みたいですよね。
今日私たちが招かれているのは、知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、
機会を十分に活かして歩むことです。今日の箇所には、知恵のない者として、知恵のある
者として、愚かにならないで、とあります。知恵のない者としてとは、愚かになると言い
換えられます。私たちキリスト信仰者は、知恵のない者として歩むことも、知恵のある者
として歩むことも、愚かな人として歩むこともできるのです。
さて知恵のある者として歩む、知恵のない者として歩むとは、どのような歩みを言うの
でしょうか。10節では、何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさいと命じられ、17節
では、主のみこころが何であるかを悟りなさいと招かれています。つまり、知恵のある者
としての歩みとは、何が主に喜ばれることかを吟味する歩みであり、主のみこころが何で
あるかを悟る歩みとなります。愚かになるとは、何が主に喜ばれることかを吟味せず、主
のみこころが何であるかを悟ることをしない人です。
この世には多くの、知恵のある人、知識のある人、分別のある人たちがいます。しかし
その人たちが、聖書が述べている知恵のある者として歩んでいるわけではありません。そ
れは、この世の知恵と神の知恵は違うからです。1コリント人への手紙1章18節以降で、
この世の知恵と神の知恵が区別されています。この世が与える知恵、この世で身につける
知恵と、神が与える知恵の違いです。20節。神はこの世の知恵を愚かなものにされたとあ
ります。それは18節。十字架のことばは愚かであるとすることから来ます。21節に、神の
知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした、とあるとお
りです。知恵のある者として歩むとは、神の知恵によって歩む人のことです。
私たちキリスト信仰者は、知恵のある者として歩むことができます。先程交読した詩篇
111篇10節に「知恵の初め それは主を恐れること。これを行う人はみな賢明さを得る。
主の誉れは永遠に立つ」とあり、キリスト信仰者は、知恵の初めを歩みだした者です。
聖書が定義する「愚か者」とは、神はいないと思う者たちです。詩篇53篇1節に「愚か
者は心の中で『神はいない』と言う」とあります。この世で、どんなに知恵がある、知識
がある、悟りがあると称賛されたとしても、創造者であるまことの神はいないと思ってい
る者は、愚かであると言われるのです。主イエスも、この世的には成功して、豊作を喜ん
でいるある金持ちに対して、愚か者と糾弾されました。彼が、自分のために蓄えても、神
に対して富まない者だったからです。彼は自分の財産を楽しむことなく、地上での生涯を
終わらせられたのです。いのちを司っておられる神を否定した結果でした。
私たち、創造者である神を知っている者たちは、主を恐れましょう。主を恐れるとは、
主なる神を怖がることではなく、創造者である神を自分の神としてあがめ、全地の主であ
る神の主権の下に自分を置いて歩むことです。主なる神を畏れ敬い、自分が置かれている
状況は、主のご支配にあると確認して、何が主に喜ばれることなのかを吟味し、主のみこ
ころが何かを悟って、主が喜ばれること、主のみこころにしたがって歩むのです。置かれ
ている状況をまず感謝して、その状況の中での主の最善は何かを考え、その最善を歩むた
めの知恵を神に求めるのです。
15節。自分がどのように歩んでいるか、細かく注意を払なさいと招かれます。この招き
に真剣に取り組みましょう。私たちは、愚かな者として歩むことを選べるからです。だか
ら細かく注意を払う必要があります。知恵のない者として歩んでいるか、知恵のある者と
して歩もうとしているかを細かく注意して、知恵のある者としての歩みを選びましょう。
16節。機会を十分に活かしなさいと命じられます。悪い時代だから、機会を十分に活か
すことが大事になります。知恵のある者として、つまり主なる神を意識しての時間の使い
方を吟味して、機会を十分に活かさなければ、悪い時代の流れに呑み込まれて、神の御前
で無意味と言われる時間の使い方になるのです。機会を十分に活かすとは、時を有効に使
うために時間を買い取ることです。時間は、すべての人に公平に与えられています。一日
24時間、ぼんやりと過ごしても、何かに打ち込んでも、同じように時間は過ぎていくので
す。与えられた時間を、有益に用いているか、無益に過ごしているかでは、その結果には
雲泥の差があります。真に有益に使っているかを吟味することが重要です。
悪い時代であると自覚しましょう。私たちの心をまことの神以外に向けさせるものであ
ふれている、そのような社会です。だから細かく注意を払わなければ、心が主なる神から
離されてしまっています。この悪い時代にあって、時を買い取って、主なる神との霊的な
交わりを持つ、知恵のある者として歩むようにと、招かれています。
教会では、主なる神との霊的な交わりを深める機会が用意されています。日曜毎の礼拝
があります。これは最も有益で重要な機会です。火曜日には祈り会があります。週の半ば
に設けられた、神に近づく有益な機会です。それらの機会を十分に活かすことで、神のみ
こころが何であるかを悟り、何が主に喜ばれることなのかを吟味する素地が培われます。
神の基準、神の価値観が身について、悪い時代に流されることはありません。教会で過ご
す時間は、子どもたちにも有益です。子どもたちは、ほとんどの時間を、この世の価値観
で教育され、日々触れている様々な情報も、この世のものが大半で、まことの神から遠ざ
けるものです。子どもにとって主日礼拝、親との家庭礼拝は、貴重な機会です。
皆さまは、父なる神との霊的に交わる時間をどれくらい確保しているでしょうか。神の
ことばに聞き、神に祈る、神の御前での静まる時間を、どれくらい確保しようとしている
でしょうか。何が主に喜ばれることかを吟味し、主のみこころが何であるかを悟るための
時間を確保しているでしょうか。知恵のある者として歩むためには、父なる神との霊的な
交わりを持つ時間を確保する必要があります。
18節。ぶどう酒に酔ってはいけませんと命じます。悪い時代だからなおさらです。酒に
酔う誘惑は、キリスト信仰者にとっても魅力的です。社会生活で生じる様々な摩擦や軋轢
によってストレスに悩まされます。人間関係の悩み、仕事上の責任の重圧、競争社会での
疲れなどなど、疲れ切った心を紛らわせるために、酒に酔うことはお手軽な逃れの場とな
り得ます。しかし神のことばは、酒に酔うことを禁じるのです。
というのは、酒に酔った先にあるのは放蕩だからです。そこには放蕩があるからですと
戒めます。酒に酔う時、理性や自制心は弱められます。だから私たちは、酒で自分を慰め
たり、励ましたりしてはなりません。酒を利用してはならないのです。酒で、からだを、
心を満たすのではなく、御霊に満たされなさいと命じます。酒は一時的には潤します。し
かし最後的には、人を滅ぼします。御霊は人を真に生かします。御霊に満たされる時、人
は真に主体的に、またその人らしく生かされるのです。酒に酔う時、人は愚かになり、主
のみこころは何であるかを悟ることも、何が主に喜ばれることかを吟味することもできな
くされます。御霊に導かれて生きることが、知恵ある者としての歩みに進ませるのです。
私たちは、イエス・キリストを信じ、罪からの救いに与かった時から、心に聖霊を宿し
ています。助け主の聖霊は、キリスト信仰者の心に遣わされており、いつでも、どんな時
にも、キリスト信仰者を助けようとしておられます。この御霊に満たされなさいと命じら
れているのです。この命令は継続です。満たされ続けなさいです。私たちは自分の意思で
選び取るのです。心に御霊が宿っている私たちですから、酒にではなく、御霊に満たされ
て、神からの知恵をいただいて、知恵のある者として歩むのです。
19~20節。日々の生活において、神を賛美し、いつでも、すべてのことについて、父で
ある神に感謝することが命じられています。口から出てくるのが、神への賛美であり、感
謝であるなら何と幸いではないでしょうか。不平や不満ばかりであるなら、寂しいです。
18~20節で「御霊に満たされなさい」「賛美しなさい」「感謝しなさい」と訳されて
います。ここでの命令形は「御霊に満たされなさい」だけで、他は、御霊に満たされなさ
いの修飾語です。すなわち、あなたがたは御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とを
もって、互いに語りつつ、主に向かって、心から歌いつつ、また賛美しつつ、そしてすべ
てのことについて父なる神に感謝しつつ、とパウロは語っているのです。
この文章から分かることは、私たちは何もせず、ただ何となく時を過ごしていて、それ
で御霊に満たされることにはならないということです。そうではなく、御霊に満たされる
ための積極的な姿勢が記されていて、そのように歩むようにと招くのです。賛美し、感謝
することが御霊に満たされるための積極的な姿勢です。私たちが賛美に溢れていき、感謝
に溢れていくに従って、御霊に満たされていくのです。主イエスを信じた私たちの心に、
御霊は住んでおられるのだから、心から願って、御霊に満たされましょう。
20節。いつでも、すべてのことについて、と記されています。感謝できることを感謝す
るのは当然です。感謝できそうもない状況も、感謝できそうもないことをも、主イエス・
キリストの名によって、父なる神に感謝するのです。すべてのことについて、感謝です。
私たちキリスト信仰者が、いつでも、すべてのことについて感謝できる、その秘訣は、
自分は全能の神に愛され、その支配の中に置かれていることの確認、神は最善をなされる
との確信です。主イエスの十字架を仰ぐとき、自分は、いのちを捨てるほどの愛で、神に
愛されていることを確認できます。神の最善を期待する神への信頼は、神を賛美すること
で得られます。主のすばらしさを確認し、それを告白することで、賛美は生まれてきま
す。また賛美し続けることで、主のすばらしさを味わい直すのです。いつでも主を賛美し
ましょう。主のすばらしさ、主の偉大さ、主の栄光、主の主権、主の力、主の真実、主の
愛を確認し、味わいましょう。その時私たちは、このお方が私の神であるという、このこ
と自体のすばらしさのゆえに、すべてのことを感謝することになるのです。
私たちは賛美しつつ、感謝しつつ、御霊に満たされていくのです。御霊の支配に自分を
差し出し、御霊ご自身に自分を明け渡して、その語りかけに敏感になり、その促しに素直
に応じる者となっていきます。そうして私たちは、御霊に満たされる中で、神の知恵が与
えられた、知恵のある者として歩むことになるのです。
御霊に導かれて、私たちは神のことばを自分のものとしていきます。御霊に促され、助
けられて、私たちは神のことばを生きる者とされていきます。知恵のある者として歩むこ
とになるのが期待できるのは当然です。
私たちは知恵のある者として歩むのです。御霊に満たされて、御霊に教えられて、主の
みこころは何であるかを悟り、何が主に喜ばれることなのかを吟味して、その一歩一歩を
踏み出し続けるのです。まさに、知恵ある者として歩む歩みを会得していきます。




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