2025年11月9日 礼拝「主イエスによる滅亡の宣告」ルカ 19:41~46
- hikaruumichurch
- 11月9日
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主イエスの十字架への道を読み進めてきました。いよいよ十字架につくために、エルサレムへと入っていくのです。41節。主イエスは都のために泣いたとあります。その嘆きのことばが42節です。主イエスの十字架は、罪人たちに、神との平和をもたらすためのみわざです。しかし宗教指導者たちも、ユダヤ人たちも、主イエスが神との平和をもたらすために、十字架に向かっておられることを悟ろうとしませんでした。
神との平和を得るためには、罪の赦しが必要不可欠です。罪人は神との敵対関係にあり、義の神は罪に対して怒りを向けておられるからです。神との平和に入れられるために必要なのは、罪の赦しです。この罪の赦しをもたらすために、神の御子は人となられ、十字架で身代わりの処罰を受けるのです。しかし宗教指導者たちも多くのユダヤ人たちも、神の救いの計画を理解しようとしませんでした。彼らの目からは隠されていたからです。
主イエスは、預言者イザヤのことばを引用して語りました。「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように」と。多くのユダヤ人たちは、見ているが知らず、聞こえているが悟ることをしませんでした。不信仰のゆえに、神の救いの奥義が、彼らから隠されていたからです。
43〜44節。前回私たちは、ミナのたとえを確認しました。そのたとえの最後で、しもべに1ミナずつを与えた身分の高い人が、彼が王になることを望まなかった敵に対して、目の前で打ち殺せと命じたことが記されていました。これは、主イエスからの、宗教指導者たちへのさばきの宣告です。彼らが悔い改めなければ、滅ぼされることの最後通告です。
主イエスは43〜44節で、ご自分に敵対する、つまり主なる神に敵対しているエルサレムの滅亡を、より具体的に予告なさったのです。主イエスは繰り返し、悔い改めへと招き続けましたが、ユダヤ人の多くは悔い改めることをせず、神との平和への道を悟ろうともしませんでした。そうして、父なる神が救い主として遣わされた神の御子を拒み、十字架の死に追いやろうとしたのです。エルサレムの陥落が宣告されました。
イスラエルの滅亡は、エルサレムの陥落と神殿の破壊によって実現します。紀元70年にローマ軍がエルサレムを包囲し、神殿を破壊するのです。神殿の破壊は、神と神の民との契約が、全く新しい段階に進んだことの象徴です。レビ部族の祭司が、神と民との間を取り持つ使命は終わりました。神の御子、主イエスが、神と民との間を取り持つ大祭司の
役目を担うからです。「祭司職が変われば、必ず律法も変わらなければなりません」とは、ヘブル人への手紙にあります。祭司職が変わり、人間が建てた神殿の役目は終わったのです。主イエスご自身が大祭司となり、ご自分という神殿を通して、罪人を父なる神へと導くのです。主イエスが大祭司であり、主イエスが神殿そのものとなられました。
主イエスはヨハネの福音書で語りました。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる」と、エルサレムの神殿が破壊されることを予告されました。礼拝招詞で読まれた聖書の箇所は、まさに神殿の破壊の予告です。弟子たちは神殿の素晴らしさに驚いていたのですが、主イエスははっきり「ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません」と断言したのです。
人が建てた神殿は破壊されます。そして神と人とを隔てていた、至聖所への垂れ幕は、主イエスが十字架でいのちを引き取った時に、上から真っ二つに裂けたのです。神が聖所と至聖所の隔ての幕を裂かれたことで、人は、主イエスが十字架で流された血を携えて、大胆に聖なる神の御前に出られるようにされたのです。
エルサレムの神殿は、ローマ軍によって破壊されたまま現在に至ります。そしてこの神殿が人の手によって再建されることはありません。主イエスが真の神殿となられたので、人が建てる神殿は不要だからです。エルサレムに神殿が再建されることを待っている人々がいます。しかしそれはないと私は考えます。ヨハネの黙示録には、新しい天と新しい地が再創造されたときに、聖なる都、新しいエルサレムが、神のみもとから、天から降ってくるとあります。そしてこの都の中に、神殿はありませ。全能の神である主と小羊イエスが、都の神殿だからです。人が建てた神殿は役目を終えました。律法にしたがって、神を礼拝することも終わったのです。御霊と真理によって礼拝する時代になっています。
45〜46節。ユダヤ教指導者は、エルサレム神殿にある異邦人の庭で商売することを許可していました。その場所代を商売人たちから受け取ることで、利益を得ていたのです。神殿は主イエスが、わたしの家と語っておられるように、すべての人が主なる神に祈るために備えられた場所でした。祈りの場所は異邦人にも開かれていたのです。それが異邦人の庭でした。しかし宗教指導者たちを始めユダヤ人たちは、その異邦人の庭を両替人や商売人に開放することで、強盗の巣と変え、神殿から異邦人を閉め出したのです。
主イエスは、その現実を憤り、商売人たちを追い出し始めました。罪人は神を恐れることをしません。神のみこころを問い、それを行うこともしません。自分がいかに利益を得られるかを考え、神の規定を平気で破るのです。異邦人のために開かれている祈りの場所を強盗の巣と変え、そこで商売をすることで儲けることまでしていたのです。
神殿が本来の役目を果たしていないのですから、破壊されて当然と言えます。このことはソロモンが建てた神殿においても同じでした。南ユダ王国は立てられた王によって、宗教的堕落と宗教改革を繰り返していましたが、イスラエルの民はいつも主なる神を神としない歩みに堕落するのです。ヒゼキヤ王が神に称賛されるような宗教改革を行った後、その子であるマナセ王は、最悪の宗教的堕落を引き起こしました。神殿の中に、偶像のための祭壇をいくつも築くほどの堕落でした。マナセの孫のヨシヤ王は徹底した宗教改革をなしたけれど、神のさばきを覆すことはできませんでした。新バビロニア帝国によって、エルサレムは陥落し、神殿も破壊されたのです。残された民はバビロン捕囚となりました。
バビロン捕囚から帰還した民は、神殿の再建に取りかかりました。彼らは、モーセを通して与えられた神の律法を誠実に守ろうとしたと言えます。しかし主イエスが来られた時には、律法を表面的に、形式的に、義務的に守るようになり、神の愛に応えて、神を愛するがゆえに、神のみこころを求めて守ってはいなかったのです。主イエスは繰り返し、父なる神が律法を与えた、その本質を教えて、悔い改めへと招き続けたけれど、宗教指導者を始め、多くのユダヤ人は、主イエスへの敵対心を強くしたのです。そうして神の御子、主イエスを十字架の死に追いやりました。しかしこの十字架こそ、主なる神が罪人のために備えられた救いの方法でした。罪の赦しを受け取ることが救いに与る唯一の道です。
43節の「平和に向かう道」とは十字架の道であり、十字架による身代わりの処罰を自分のためであったと受け入れ、十字架につけられた主イエスこそ神、自分の救い主、自分の主と信じ、差し出されている罪の赦しを受け取る以外に、神との平和を味わうことはできません。しかし多くのユダヤ人は、この主イエスを拒むことで、神との平和への道を、自ら閉ざしたのです。残された者だけが、主イエスを信じました。神のあわれみです。
今日私たちは、申命記を交読しました。モーセを通して与えられた律法から一貫して神のみこころは明らかにされています。祝福とのろいが、絶えず語られています。主なる神を自分の神として従うのか、自分の神としないで背くのかで、祝福かのろいかが定められます。私たちは神を侮ってはなりません。神は侮られる方ではないのです。聞き従う者には豊かな祝福を与え、背く者には呪いが押し寄せるのです。
主イエスが来られたことで、主イエスを信じる者は、主なる神を自分の神とする者であり、主イエスを拒む者は、主なる神を自分の神としないことが明確にされました。私たちは主イエスを信じた者ですから、主イエスを自分の主とあがめて、神と神のことばに従う者として歩みましょう。神からの呪いではなく、祝福を豊かに味わう地上生涯、信仰生活を確かにしましょう。主イエスの再臨を待ち望み、喜び、感謝して、主イエスを迎える者
となりましょう。日々の歩みにおいて、主のみわざに参与する私たちなのです。




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