2025年10月19日 礼拝「手足を義の道具として献げる」ローマ6:12~23
- hikaruumichurch
- 10月19日
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前回私たちは、キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた者はみな、十字架の死にあ
ずかるバプテスマを受けたという霊的事実を確認しました。キリストとともに十字架に死
に、キリストともに葬られ、つまり完全に死んだので、キリストとともに死者の中からよ
みがえって、新しいいのちに歩んでいるという霊的事実です。
11節で私たちは、認めること、認め続けることが命じられました。キリスト信仰者であ
る私たちは、罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者です。私たちは認めな
ければなりません。自分は罪に対して死んだという霊的事実をです。
12節。ですからと続けます。罪に支配されていた古い自分は死にました。今は御子イエ
スにあって、新しいいのちに生きています。罪の性質を引きずっている死ぬべきからだに
あって、新しいいのちを生きているのです。だから、その死ぬべきからだを罪に支配させ
てはならないと命じられます。罪の誘惑に自分を従わせて、罪に支配させてはならないの
です。肉が発する様々な欲望に従ってはならないということです。
私たちは肉体にあって、様々な欲求によって生きています。欲そのものは、神が備えら
れたものであり、私たちが生きていく上で必要不可欠です。欲そのものは良いもの、神か
らの賜物です。様々な欲求を正しく管理し、適切に使うことで、健全な生活を営むことが
できます。それは肉に従うことではなく、御霊に従うこと、聖霊の助けを受けることでで
きるのです。自分自身を神に献げ、自分の手足を義の道具として、神に献げるのです。
14節。自分は罪に対して死んだという霊的事実を歩むなら、罪に支配されることはあり
得ません。古い自分に死んだ私たちは、恵みの下にあると言われています。律法の下にあ
るなら、自分の言動はすべてさばきの対象です。恵みの下なら、赦しの対象です。
15節。屁理屈を考える人の新たな問いかけです。恵みの下にあるのなら、罪を犯しても
良いのではないか。罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれるのだから、罪を犯そ
うと。しかしパウロはそれを否定します。決してそんなことはないと。
16節。かつての私たち、主イエスを信じる前の私たちは、罪の奴隷でした。主イエスは
言明します。罪を行っている者はみな、罪の奴隷ですと。自分では自由に振る舞っている
と考えていても、肉の欲求に従わせられていたのです。自分ではすべきと考えている正し
いことを行うことができず、自分ではやめるべきだと考えている悪を行っていることがあ
ります。肉の欲求に従わせられている、罪の奴隷状態です。
しかし今は、キリストにあって、罪から解放されています。そのような私たちは、自分
が何に従うかを選び取ることができます。神に従うことを選ぶこともでき、肉の欲求に従
うことで神に背くことも選べます。自由が与えられた私たちですから、自分の意思で選べ
るのです。だからパウロは、あなたがたは何に従うことを選ぶのかと問います。自分自身
を罪の奴隷として献げるのか、従順の奴隷として献げるのか、どちらを選ぶのかと。その
結果は明瞭です。死に至るのか、義に至るのか、どちらかです。
17~18節。私たちも神に感謝しましょう。私たちもかつては、罪の奴隷であり、自分
の手足を不義の道具として罪に献げていました。しかし、主イエスを救い主と信じ、十字
架による罪の赦しを受け入れることで、罪から解放されました。神の一方的な恵み、あわ
れみによることです。そして今、救われて、義の奴隷とされています。
奴隷ということばは耳障りの良いものではありません。罪から解放され、自由を得られ
たはずのに、奴隷ですと言われることには、釈然としない思いが出てきます。しかし私た
ちは、キリストにあって新しいいのちに歩む者となりましたが、その現実は、古い大人の
中に、霊的な赤ちゃんとして新たに誕生したということです。神のいのち、新しいいのち
に歩む霊的な赤ちゃんは、すぐには霊的に成長できません。みことばの乳を慕い求めて養
われ、聖霊の助けを受けながら、着実に成長していくのです。
私たちの肉体は、罪の性質を引きずったままです。自己中心という肉の欲求があり、神
に聞くよりも、自分の判断を優先させようとする誘惑にさらされています。気をつけてい
ないと、古い人としての歩みで、新しい人としての歩みを妨げてしまいます。だから義の
奴隷であることを受け入れ、自分の手足を義の道具として神に献げることが必要です。自
分自身を神に献げ、自分の手足を義の道具として神に献げることで、自己中心ではなく、
神中心の歩みができるのです。私たちは自分の意思で決断をして、一歩進めるのです。
19節。私たちは罪から解放され、義の奴隷となり、新しいいのちに歩む者となっていま
す。キリストにあってそのような歩みを始めたのですから、主イエスを信じる前の、古い
生き方に戻ってはなりません。古い生き方とは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献
げる生き方です。そのようになってはいけません。不法に進むのではなく、聖潔に進むの
です。そのために、自分の手足を義の奴隷として献げ続けることが大事です。
20節。かつて、罪の奴隷であったとき、義については自由に振る舞っていました。義に
ついて自由に振る舞っていたとは、義について考えることも、義を追い求めることもしな
かったということです。神の義など、全く無関心でした。しかし神のかたちとして、神の
似姿に造られた私たちには、心に神の基準が植え付けられています。私たちは何が正しい
か、何が間違っているかを判断できます。しかしその判断に従って生きるよりも、自分の
欲求に従って生きていたと言えます。義について自由に振る舞っていたといわれる所以で
す。良心の呵責を感じながらも、悪いと分かっていることを行い続け、正しいと分かって
いることをしないで済ませてもいたのです。
21節。そのような歩みの結果はどうだったでしょうか。義について自由にふるまってい
た結果、どのような実を得ていたのでしょうか。その頃を振り返ってみると、キリスト信
仰者として、神の義の基準を知らされた者として、恥ずかしいとしか言いようのない歩み
をしていたのです。それらの行き着くところは、まさに死です。公正な神にさばかれて、
神の怒りが下されて、滅ぼされて当然の、様々な罪と悪を行っていたと言えます。
22節。そのような私たちは今、罪から解放され、神の奴隷となりました。罪の支配から
解放されて、神の支配の下に歩んでいます。神の絶対的な基準を知り、神の義を求めて生
きることで、聖潔に至る実を結ぶことができます。その行き着く先は永遠のいのちです。
もう一度確認しましょう。神の一方的な恵みとあわれみのゆえに、罪の赦しと罪からの
救いが備えられ、私たちは赦しと救いに招かれました。愛とあわれみの神は、罪に死んで
いる私たち、滅びに向かっている私たちをかわいそうに思って、私たちの罪に赦しを備え
るために、御子イエス・キリストを人として誕生させ、私たちの罪をすべてその身に負わ
せて、十字架で代わりに処罰したのです。人となられたイエスを神、救い主と信じ、十字
架の死は、私の罪を赦すための身代わりの処罰であると受け入れ、自分の罪を認め、悔い
改めることで、罪の赦しと罪からの救いに与るのです。信仰によって救われました。
救われた私たち、新しいいのちが与えられ、新しいいのちに歩む者となった私たちは、
自分の死ぬべきからだ、罪の性質を引きずっているからだを、罪に支配させることも、神
に支配させることも、どちらも選ぶことができます。自分の手足を不義の道具として罪に
献げることも、義の道具として神に献げることも、どちらも選ぶことができるのです。
罪から解放されたので、自由に選ぶことができます。しかし何を選んだかの結果は負わ
なければなりません。選ぶ自由はあるけれど、選んだ結果からは逃れられないのです。罪
の支配に自分を委ねることも、神の支配に自分を委ねることもできます。罪の支配に自分
を委ねるなら、その行き着くところは死です。神の支配に自分を委ねるなら、その行き着
くところは永遠のいのちです。結果責任は負うのです。
23節。対照的な表現での結論です。罪の報酬は死です。神の賜物は永遠のいのちです。
罪の報酬と神の賜物、死と永遠のいのちが対比されています。報酬は拒絶できません。自
分が選んだことの報いです。罪を犯した結果、その報いは死です。創造者である神は、最
初の人アダムに恵みと祝福を備えて招き、その上でただ一つの禁止命令を告げ、その命令
に背いた時の罰も伝えました。あなたは園のどの木からでも思いのまま食べて良いと、祝
福あふれる許可を与えた上で、園の中央にある善悪の知識の木からは取って食べてはなら
ない。それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬと警告したのです。
しかしアダムは神に背きました。善悪の知識の木の実を食べたのです。その当然の報い
として死ぬ者となりました。肉体の死は先延ばしにされましたが、霊的に死に、罪の奴隷
となったのです。だから必ず、肉体の死を迎えます。肉体の死の猶予は、神のあわれみで
す。私たちに悔い改めの機会が与えられたということです。そして創造者である神は、罪
の赦しと罪からの救いを備えて、悔い改めへと招いてくださっています。
神の賜物、神が備えられたプレゼント、ギフトは永遠のいのちです。そのいのちは主キ
リスト・イエスにあります。それを受け取るか、拒むかは、私たちが決めます。賜物です
から、受け取りを拒否することができます。報いは拒否できませんが、賜物は拒否するこ
とができるのです。キリスト信仰者は、この賜物を感謝して受け取った者たちです。人と
なられた神、主イエス・キリストを自分の救い主と信じ、あの十字架の死は、私の罪を赦
すための身代わりの処罰であると受け入れたことで、永遠のいのちを受け取りました。
その上で、私たちはどう生きるかが問われるのです。恵みの下にあるのだから、罪を犯
そうと神を侮り、この死ぬべきからだを罪に支配させることができます。しかし、その行
き着くところは死です。罪の報酬は死です。罪を犯すことがあります。しかしその度に、
罪を認めて悔い改め、罪から離れることが大事です。私たちのうちに宿っておられる聖霊
は、罪を指摘し、罪の悔い改めを促しておられます。聖霊の語りかけに敏感になり、聖霊
の促しに素直に応じることで、罪を悔い改め、赦しを受け取るのです。その度に、自分自
身を神に献げ、自分の手足を義の道具として神に献げましょう。その結果は、聖潔の実を
得て、永遠のいのちに行き着きます。
私たちは、主イエスを信じて、永遠のいのちを受け取った者たちです。そのいのちに歩
み続けることが大事です。いのちを捨てるほどの愛で愛されていることを味わい知った私
たちですから、神の愛と恵みの中を、感謝し、喜びながら、自分の手足を義の道具として
神に献げて歩むことが大事です。主キリスト・イエスにあって、永遠のいのち、神のいの
ちに生きて、義の実をも、聖潔の実をも、豊かに結ばせていただきましょう。




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