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2025年10月12日 礼拝「光の子どもとして歩む」エペソ5:8~14

  • hikaruumichurch
  • 10月12日
  • 読了時間: 9分

 エペソ人への手紙の後半部分を読み進めて9回目になりました。4章1節で、あなたが

たは、召されたその召しにふさわしく歩みなさいと招かれ、4章17節では、異邦人がむな

しい心で歩んでいるように歩んではなりませんと警告されています。5章2節では、愛の

うちに歩みなさいと命じ、それは1節にあるように、神に倣う歩みです。3節からは、聖

徒にふさわしくない言動が列挙されており、それらを避けるようにと命じられています。

それらを行う者たちは6節で不従順の子らと呼ばれていて、神の怒りは不従順の子らに下

ります。7節で、彼らの仲間になってはいけませんと警告されています。

 そして今日の箇所8節で、光の子どもとして歩みなさいと招かれました。キリスト信仰

は、歩み、生活です。心で信じていれば良いのではなく、実生活に生かされることで、キ

リスト信仰は、主イエスを信じる私たちを真に生かすいのちとなるのです。

 8節。主イエスを信じる前の私たちは闇でしたとあります。人と比較して、相対的に評

価するなら、それなりにましだと自負していたとしても、闇と言われる存在に変わりはな

いということです。そのような私たちが、主イエスを救い主と信じて、十字架による罪の

赦しを受け入れたその時から、闇ではなく、光となりました。

 ここで注目すべきは、主にあって、です。私たちはキリスト・イエスを信じる信仰によっ

て、キリストにつくバプテスマを受けました。キリストの中に入ったのです。このキリス

トの権威に自分を明け渡すことで、主にあって光となれるのです。自己中心という罪の性

質に自分を委ねて歩んでいる時は、闇でした。キリストにあって、神の支配下に自分を差

し出して、キリストに自分を委ねて歩んでいる時は、光となります。

 主イエスを信じて光になったのだから、光の子どもとして、光の子どもらしく歩むよう

にと招かれています。子どもは、その特質を備えています。人間の子どもは人間の特質を

備え、猿の子どもは猿の特質を備えています。キリスト信仰者は、光の特質を備えている

光の子どもです。キリストは人を照らすまことの光として、この世に来られました。

 ヨハネの福音書1章で、ことばである神が紹介されています。初めにことばがあった。

ことばは神とともにあった。ことばは神であったと書き出され、すべての人を照らすまこ

との光が世に来られたと記されています。人となられた神、主イエス・キリストです。そ

のまことの光に照らされたものは光となります。主イエスは、わたしは世の光ですと断言

しておられます。

 さらに主イエスは、弟子たちに、あなたがたは世の光ですと宣言され、あなたがたの光

を人々の前で輝かせなさいと命じました。それは、人々が弟子たちの良い行ないを見て、

天におられる父なる神をあがめるようになるためだと、その目的を語られたのです。主イ

エスを信じる私たちは、主の証人として歩むという、尊い使命が委ねられています。

 11節。実を結ばない暗闇のわざに加わるな、仲間入りをするなと命じられています。不

従順の子らが行っているのは暗闇のわざであり、私たちは暗闇のわざを明るみに出すよう

にと促されるのです。私たちキリスト信仰者は、主にあって光となっています。光となっ

たのだから、暗闇のわざに加わってはならないのです。

 不従順の子らとつるむことはしなくても、暗闇のわざにすり寄っていたり、暗闇のわざ

を放置しているなら、それは加わっていることになります。そうではなく、明るみに出し

て、すなわち主の光に晒して、暗闇のわざであると明確にすることが大事です。

 12節。暗闇のわざ、不従順の子らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかし

いことです。もう一度、列挙されている暗闇のわざを確認しましょう。3節から。淫らな

行い、様々な汚れ、貪り、わいせつなこと、愚かなおしゃべり、下品な冗談とあります。

彼らは、人に知られないように、隠れたところで行います。暗闇のわざだからです。

 光となった私たちは彼らに同調しない、そのわざに加わらないことで、暗闇のわざであ

ると明らかにするのです。もし暗闇のわざに引き寄せられているなら、それを明るみに、

主の光に引き出して、そこから離れて、光の子どもとして歩むことで、光の結ぶ実を実ら

せて頂きましょう。光は成長を促し、良い実を結ばせます。暗闇は良い実を結ばせること

はできません。だから仲間入りをしてはならないと言われるのです。

 9節。新改訳聖書第3版では、ー光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのですー

と訳されていました。新改訳聖書2017では、あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は

実を結ぶのですと訳し変えられています。あらゆる善意と正義と真実のうちに結ぶ実とは

何かは記されていません。暗闇のわざと正反対であると判断できますが、具体的には記さ

れていないのです。しかし私たちが思い浮かぶ具体的な実は、パウロがガラテヤ人への手

紙に書き送った御霊の実です。聖霊が私たちに結ばせてくださる霊的品性は、愛、喜び、

平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。これらの品性を身につけることができ

るなら、私たちはすばらしい人格者として整えられていきます。

 10節。光が結ばせてくださる実、まことの光である主イエスが結ばせてくださる実は、

主なる神に喜ばれる歩みであり、そこから生まれる様々な祝福と言えます。私たちは、何

が主に喜ばれることなのかを吟味するようにと招かれています。何が主に喜ばれるかと問

いかけても、良く分からないと言うかもしれません。視点を変えて、自分が選ぼうとして

いることは、主に喜んでいただけるか、主を悲しませるか、主に受け入れられることか、

主は拒まれるか、主は良しとされるか、主は悪いとされるかと考えるなら、具体的にどち

らを選ぶべきかの判断はできるでしょう。吟味して、良い道を選び取るのです。

 実を結ばない暗闇のわざに加わってはなりません。そこから離れることが大事です。

 13節。すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされるとあります。暗

闇の中では見えないものも、光が差し込むと明らかにされ、見えます。まことの光に照ら

されるなら、肉眼では見えない霊的なものも、すべて明らかにされます。私たちはまこと

の光ではありませんが、まことの光を受けて、反射することで光としての役目を果たすこ

とができます。夜空に輝く月の光に照らされると、夜であってもある程度は見ることがで

きるように、私たちキリスト信仰者も、まことの光を受けて、世の光として、暗闇のわざ

を明るみに出すことができるのです。

 14節。私たちは、霊的に眠っていてはなりません。霊的に目覚めていなければなりませ

ん。かつては暗闇の支配にありましたが、主イエスを信じる信仰によって、愛する御子の

ご支配の中に移された者たちです。そのような私たちが、まことの光から離れて、死者の

中に戻ってはならないのです。霊的な眠りから覚め、死者の中から起き上がるなら、キリ

ストが私たちを照らしてくださいます。主イエスは私たちを生かします。まことの光、キ

リストに照らされて、光となり、みことばの光に照らされて、主に喜ばれることが何であ

るかを見分けて、主が喜ばれること、主のみこころにふさわしく歩むのです。

 あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶとありますが、この中で、善意につ

いて考えましょう。善意とは、人への思いやり、人の益を考える親切心と言えます。私た

ちの古い人は自己中心でした。人の益よりも、自分の損得を考えて、自分が良ければ、人

はどうなっても良いとしていたのです。そのような罪の性質を持つ私たちが、主イエスを

信じて、いのちを捨てるほどの愛で愛されていることを味わい知り、まことの光に照らさ

れたことで、人のために何ができるかを考える善意の人へと変えられたのです。

 主イエスを信じて、救われた時のことを思い出しましょう。その時私たちは、救われた

喜びと感謝に満たされました。そして自分さえ良ければという思いは消えて、人のために

何かをしたいと思うようになり、何ができるかを考えました。主の愛に動かされて、人を

愛そうとしたのです。しかしいつの間にか善意は薄れ、自分を優先する者へと戻ってはい

ないでしょうか。私たちの古い性質、自分を優先する自己中心という罪の性質は、心して

押さえつけなければ、善意の人であることを妨げてしまうのです。

 今日も私たちは、神の教会に集まり、主への礼拝をささげています。皆さまは、この主

への礼拝の場で、隣人となること、隣人を愛する愛を求めているでしょうか。他者を思い

やり、親切心をもって、善意の人として、隣人と関わっているでしょうか。それとも自分

の快適さ、心地よさばかり求めていて、人のことには無関心、無頓着になっていないで

しょうか。もしそうなら、光の子どもとして歩んではいないことになります。

 私たちは心しましょう。主イエスを信じて、救いの喜びに満され、神の愛に押し出され

るように与えられた善意が薄れてしまわないように注意しましょう。あらゆる善意と正義

と真実のうちに、光は実を結ぶのです。光が結ばせてくださる様々な実、主イエスが結ば

せてくださる実を豊かに実らせましょう。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔

和、自制という御霊が結ばせてくださる実とともに、様々な実を結ぶ者となりましょう。

 罪の性質である自己中心を警戒して、自分の言動を主の御前で吟味し続けることが大事

です。教会の交わりの中で、主に喜ばれることは何かを考えて、自分の喜び、自分の満

足、自分の快適さばかりではなく、お互いの快適さ、心地よさを思い、そのために自分に

できることを考え、それを喜びとして、それを行うのです。

 私たちの神の家族としての集まりが、神の家族にふさわしく、互いに思いやる、善意に

溢れた交わりとして、整えられたいのです。そのような私たちであるなら、神の家族とし

ての交わりを見る人々が、その麗しさに心を惹かれ、父なる神をあがめることになり、主

イエスを求めたいと思うようになるのです。私たちの光を人々の前で輝かせ、私たちの良

い行いを見て、父なる神がほめたたえられることになります。

 自分がしていること、しようとしていること、これから計画すること、それらを主の御

前で吟味しましょう。それは主に喜ばれるか、主に受け入れられる:か、主が良しとされ

るかを見極め、その通りであるなら、大胆に進めていくのです。しかしそうでないなら、

潔く止めるべきです。それらを捨てなければなりません。

 主イエスが十字架に死なれたのは、私たちを、暗闇のわざを引きずって歩む者でなく、

光として輝かせるためです。主にあって光となったのだから、光の子どもとして、光の子

どもらしく歩むのです。何が主に喜ばれることかを吟味して、主に喜ばれること、主が良

しとされること、主に受け入れられることを選び取って歩みましょう。

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