2025年10月5日 礼拝「主の帰りを待つ」ルカ19:11~27
- hikaruumichurch
- 10月5日
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更新日:10月6日
ルカが独自の視点で書き記した、主イエスの十字架への道の確認も、23回目になりまし
た。エリコの町で、取税人のかしらザアカイを救いに招いた出来事を見聞きしていた人々
を前にして、主イエスは一つのたとえを話されました。今日私たちは、このたとえを通し
て語られた、主の帰りを待つ私たちの姿勢について確認します。
新しい世紀が始まって25年になりました。世紀末が近づくと、世の終末について過剰に
騒がれ、終末ブームが起こります。そして何事もなく過ぎると、週末ブームは霧が晴れる
かのようになくなり、終末に対して無関心になります。私たちキリスト信仰者は、社会に
煽られることなく、いつも、主の再臨と終末に備えていることが大事です。世の人々が終
末を煽ったとしても乗せられることなく、終末に関心がなくなったとしても、主イエスの
再臨を常に待ち望むのです。この世の終末は今日かもしれません。私たちはいつ主が再臨
されても良い、罪からの救いが完成した、終末の時代を生きています。
時間に支配されない、時間を超越しておられる創造者である神の御前では、一日は千年
のようであり、千年は一日のようであるとあります。主イエスの十字架と復活による救い
が完成した今、神の定めた時に主イエスは再臨し、この世は終末を迎えます。今ある天も
地もすべてが消え去り、神の義の宿る新しい天と新しい地が再創造されるのです。
今日のたとえには、主人の帰りを待つしもべたちの姿が語られています。そして私たち
は、このたとえから、主イエスの再臨を待つキリスト信仰者はどのように主イエスをお迎
えすべきかを確認するのです。キリスト信仰者は、主イエスよ来てくださいとの信仰姿勢
を身に付けて、主イエスの再臨を待ち望む者なのです。
11節。人々の心に、いよいよイエスがメシヤとして宣言する時が来たという期待が広が
りました。神の国がすぐに現れるとは、絶対的な王権を担い、イスラエルをローマの支配
から解放して、イスラエル王国を復興させると期待したということです。
その人々の期待とは違う、神のご計画を知らせるために、主イエスはたとえを話された
のです。12節。キリストは、真の意味での王権を授与される必要があります。王の王、主
の主として君臨される方は、まず十字架の死で罪の赦しを備えることが、神の計画です。
神の国の実現は、十字架での死と復活の後に起こることなのです。
このたとえには二つのことが含まれています。一つは、主イエスが王になるのを好まな
い人々について、二つ目は、主イエスが王権を受けて戻ってくるのを待つ人々についてで
す。主イエスを憎む人々については14節と27節です。この人々は、自分たちの、この世で
の権利が奪われることになるので、主イエスがメシヤとして君臨することを望みません。
彼らは、神を第一にするのではなく、自分のことを優先するのであって、そのためには神
に敵対することになっても仕方がないと考えています。しかし神中心ではなく、自分中心
の人々の最後は滅びです。自分でそれを選び取った結果だからです。
主人の帰りを待つしもべたちのたとえから、私たちキリスト信仰者は主イエスの再臨を
どのように待つかを学びましょう。13節。10人のしもべは、主イエスの再臨を待つ人たち
です。しもべは主人から1ミナを預かりました。1ミナとは100日分の労働賃金です。結
構な大金ですね。皆さまが100日分にあたる労賃を預かり、それを活用しなさいと言われ
たとするなら、どのように活用するでしょうか。
しもべがどのように行動するかは、主人をどのように思っているかで変わります。主人
を軽んじているか。主人を重んじているか。主人は失敗することを厳しく咎めるか、失敗
など気にしないお方か。など、主人をどう思っているかで、その後の行動は変わってきま
す。私たちは、主イエスはどのようなお方と考えているでしょうか。
主人が帰って来ました。しもべたちはそれぞれ報告しました。16節、18節、20~21節
に、3人の報告が記されています。預けられたミナを使うなら、それぞれの能力に応じて
利益が生み出されます。ここで問われているのは、ミナを用いようとしたか、用いなかっ
たかです。10ミナを儲けたしもべと、5ミナを儲けたしもべの報告が記されていますが、
2ミナから10ミナまでの報告がなされたと想像できます。
その報告に対する主人のことばが、17節と19節です。5ミナを儲けたしもべは、主人
を悲しませたと考えてはなろません。よくやった、良いしもべだという、主人の労いのこ
とばは、2ミナ儲けたしもべから10ミナ儲けたしもべ、すべてのしもべに対して、等しく
語られた、喜びのことばであって、それが省略されているだけです。それは、その能力に
応じた新しい任務を委ねていることから分かります。
私たちは確認しましょう。私たちには明らかに能力の差があることです。主なる神が私
たちに、賜物の測りにしたがって恵みを与えられました。だから同じことを、同じ条件で
なしたなら、結果は明らかに違うのです。しかし私たちの主は、結果で評価をされない方
です。私たちは結果や成果で比較して、優越感に浸ったり、劣等感に陥ったりしますが、
主は結果ではなく、私たちの動機や経過に注目するのです。
私たちが委ねられたものを、どれだけ忠実に、誠実に用いようとしたのか、私たちの主
の関心はそこにあります。人と比較して、人よりも多く結果を出すことができるから、少
しくらい怠けても良いと考えるなら、それは主に対する不忠実となります。またどんなに
頑張っても少ししか成果が出せないので、どうせ自分なんかと、できることさえしなくな
るなら、それも主に対する不忠実となるのです。
一人一人に与えられている賜物、能力は違います。ですから、同じ条件でも成果に差が
あるのは当然です。しかし主は、どれだけ成果を出したかに関心はありません。賜物を用
いることそれ自体を喜ばれ、その能力に見合った成果を生み出すことができます。
20~21節。悪いしもべのことばです。本当に、このように思っていたのだとすなら、彼
はがむしゃらに働いて、たとえ商売に失敗しても、その努力を認めてもらえたでしょう。
あるいは主人が答えているように、銀行に預けることで、自分は商売が不安だったので、
利子をお渡しすることにしましたと報告すべきでした。しかし彼は何もしませんでした。
このしもべは、主人を軽んじていたのです。主人に喜んでもらいたいという思いはあり
ませんでした。だから主人のための労力など使いたくなかったのです。そして、主人を酷
評することで、自己正当化しました。彼にとって主人は、自分の益のための存在であり、
自分が得をするなら努力しても、報われないと思うなら、労力を惜しんだのです。
良いしもべたちは、まず感謝しました。大金が委ねられたことを感謝して、主人に喜ん
でもらいたいと考えました。1ミナをどう活用しようかと考え、そして儲けました。それ
を喜んだのです。主人のために儲けることができたという喜びです。
悪いしもべは、預けられた1ミナで儲けたとしても、すべては主人のものとなり、結局
はただ働きだと考えたので、労力を惜しみました。1ミナを預けられたことが嫌だったの
です。そして言い訳を考えて、その場を過ぎ去らせようとしました。
私たちの、主に対する思いはどうでしょうか。委ねられたものを、心から感謝し、喜ん
で用いようとしているでしょうか。それとも、主のために労することには消極的でしょう
か。十字架で、いのちを捨てるほどの愛で愛され、救いを与えられた私たちです。私たち
は、主に委ねられた賜物、能力を、主のために活用しましょう。
私たちに委ねられた1ミナは時間と言えます。一日24時間、一年365日、同じ時間が委
ねられています。能力は違うので、同じ時間を用いても、働きの実は違います。主は私た
ちの働きの成果ではなく、どのように歩もうとしているかを評価されるのです。
主イエスは王の王、主の主として戻って来られます。私たちは心から主のおいでを待ち
望む思いで迎えましょう。自分に与えられているもの、才能も、金銭も、その他のすべて
を用いて、時間を活用しながら、地上での信仰生活を、主にあって、主のために、主とと
もに歩む、主よ、来てくださいと告白しつつ、日々待ち望むのです。26節。自分にあるも
のを活用するなら、さらに与えられます。活用しないなら、取り上げられます。
今週のみことば 私たちは、主の再臨と、新しい天と地の再創造を待ち望んでいます。




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