2025年10月26日 礼拝「真の自由を得るために」ヨハネ8:31~36
- hikaruumichurch
- 3 日前
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自由に生きられるというのは、とても魅力的です。さて、自由とは何でしょうか。自分
の思いのまま、何をしても良い、何でも許されることが自由でしょうか。自分さえ良けれ
ば、他人がどうなっても構わないという言動は、真の自由と言えるのでしょうか。今日の
箇所で主イエスは、真理はあなたがたを自由にしますと言われました。私たちは、この主
イエスのことばを通して、真の自由とは何かを考えます。皆さまは、今自由でしょうか。
自由とは解放です。束縛や強制や義務からの解放です。なにものにも束縛されず、だれ
からも強制されないで、自分の善悪の基準に従って生きられることです。自分の意志で決
断したことを行うにあたって、妨げのないことです。束縛されたり、強制されて、何かを
するのではなく、自発的に、自分で決めた通りを行えること、それが自由です。
今、私たちが生きている日本の社会は、基本的に自由が保障されています。基本的人権
が擁護され、一人の独立した人間としての自由が保障されています。今私たちは、どんな
ことを考えても良いですし、それを自由に発言することができます。どのような宗教を信
じても構いません。思想・信条の自由があり、信教の自由があり、良心の自由、結社の自
由など、様々な自由が、憲法上で保障されています。
ところで、自由と放縦は違います。放縦、つまり、勝手気侭に、我侭に振る舞うことは
自由とは違うということです。しかし往々にして、自由と放縦とをはき違えていることは
ないでしょうか。自分の自由を主張するということは、他者の自由をも尊重するというこ
とです。束縛されない、強制されないことは、束縛しない、強制しないということでもあ
るのです。それをわきまえていなければなりません。他者を無視してまで、自分の好き勝
手を押しつける人は、肉の欲求に従わせられている、罪の奴隷状態です。
さて、自由は解放である、強制されない、束縛されないこと、と確認した上で、今日の
聖書の箇所を見ていきます。主イエスは、自分は自由だと思っている人々に対して、あな
たがたは自由になれると招きました。これはどういうことでしょうか。私たちも、自分で
は自由だと思っているかもしれません。そしてそのような私たちに対しても、主イエスは
真の自由が必要だと招くのです。つまり主イエスは、私たちは束縛されている、強制され
ている、支配されていると言われたのです。
私たちは、このイエスのこの宣言に対して、どのような感想を持つでしょうか。ここに
登場しているユダヤ人のように、私たちはだれの奴隷になったこともありません。あなた
はどうして、あなたがたは自由になると言われるのですかと言うでしょうか。
私たちは今日、主イエスとユダヤ人たちの会話を確認しています。この会話を通して知
らされることは、私たちが自分で、自由だと思っていることと、主イエスが私たちに必要
だとして、与えようとしている自由は違うということです。そして自分では自由だと思っ
ている人々の多くは、主イエスが与えようとしておられる自由はいらないと考えます。そ
して本当は、自分は束縛されているのに、その事実に気づかないで、主イエスが与えよう
としている、その束縛からの解放を不要だとして、拒んでしまうのです。
佐古純一郎は次のように述べました。「人は誰しも自由を求めてやまないであろう。し
かし、この『自由』という言葉ほど、やっかいな言葉はないので、自由主義などという『自
由』が、けっきょくは、人をまことに不自由なところに追い込むということもありうるの
である。・・私が自由に生きるということは、自己中心の根源である『自分』というもの
からどのように『自由』になるかということだと考える。自我からの解放といってもいい
だろう。・・」この佐古氏のことばは考えさせられます。自由に生きるということは、自
己中心の根源である『自分』から自由になることであり、自我からの解放がなければ、真
の自由に生きることはできないというのです。そしてこの「自我からの解放」は、主イエ
スに言わせるなら、「罪からの解放」となります。
34節。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です、と主イエスは言われました。これは
衝撃的な宣言です。しかし何とも真実を突いたことばです。自分も含めて、本当に多くの
人が、自分は自由だと言いながら、いろいろな場面で罪を犯し、罪の奴隷となっているの
です。また様々な事柄に縛られていないでしょうか。人のことばや目が気になって、した
くないこともさせられていることもあります。それも奴隷状態であるということです。
また自分の、どうしようもない悪癖や悪い習慣に悩んでいないでしょうか。自分ではや
めたいと願っているのに、してはならないと分かっているのに、ついつい行っている、や
められない悪癖があるなら、それも奴隷状態であるのです。自分の内側から生じてくる肉
的な欲求を正しく管理できなくて、ギャンブルや酒などに依存したり、性的な快楽や興奮
を求めて不道徳を続けたりしているなら、肉の欲求の奴隷状態です。
逆に、すべきこと、しなければならないことなのに、それができない、それをする時間
はあるのに、しないで済ませているなら、それもまた奴隷状態です。自分の肉の欲求から
解放されていないのです。したくないという感情に支配され、意思によって決断しても、
できなくされています。これが「罪の奴隷」である現実の姿です。人々の目や肉の欲求か
ら解放されているのではなく、それらに隷属させられているということです。
31節。主イエスが語っておられるのは、ご自分の話を聞いて、ご自分を信じた人たちで
す。このことから私たちは、主イエスを信じることと、主イエスの弟子になることの違い
を知らされます。主イエスを信じたユダヤ人の多くは、自分の都合に合わせて、主イエス
の教えを取捨選択していました。それは、旧約の律法を守り行うことでも、自分の都合に
合わせて取捨選択していたことと同じです。偽善的で、表面的な信じ方です。
しかし主イエスは、自分の弟子となるのでなければ、その信仰に意味はないと語られた
のです。わたしのことばにとどまるならとは、自分の都合で主イエスの教えを取捨選択す
るのではなく、主イエスに全幅の信頼を寄せ、主イエスの教えのすべてに従おうとするこ
とが、主イエスの本当の弟子になるのだと招いたのです。
主イエスから学び、主イエスの弟子となることで、真理を知ることになります。主イエ
スは、わたしが道であり、真理であり、いのちなのですと宣言されました。主イエスが真
理です。またパウロもエペソ人への手紙に書き記しました。真理はイエスにあるのです。
真理を知るためには、主イエスを知ることが必要不可欠です。主イエスを知るために、
主イエスの弟子となり、主イエスから学ぶことが必要不可欠です。真理は私たちを、真の
自由へと導き入れます。主イエスが、私たちを自由にするので、私たちは本当に自由にな
るのです。36節です。主イエスが私たちを自由にするとはどういうことでしょうか。
34節。皆さまは、自分は罪の奴隷であると認めるでしょうか。私たちは誰も、罪を犯し
たいとは思っていません。極悪非道な犯罪者になった人々も、生まれつき罪を犯すことを
好んでいたのではないはずです。私たちは法に触れる罪を犯していないとしても、道徳的
な罪や、心の中で罪を犯してはいないでしょうか。主イエスに言わせれば、そのような者
は罪の奴隷です。そのような私たちを、神の御子、イエス・キリストは自由にします。私
たちは罪から解放され、本当の自由になるのです。36節。
神の御子、イエス・キリストは私たちのために何をなさったのでしょう。神の御子は私
たちを愛し、私たちに罪の赦しを備えるために、私たちと同じ人間となられました。神の
あり方を捨てて、肉体を取り、この世に来られたのです。それは、私たちの代わりに十字
架で、罪の処罰を受けるためです。これは歴史的な事実です。神の御子、イエス・キリス
トは、ローマ帝国の手によって、十字架刑で処刑され、殺されました。
本来なら、罪を犯した私たちが、その罪に応じて処罰されるはずなのに、神の御子は、
私たちの代わりに罰を受けて、罪に赦しを備え、罪から救ってくださったのです。神の御
子が私たちを自由にしてくださいます。罪からの救いを自分のものとして受け取るために
は、主イエスの十字架は、私の罪を赦すための身代わりであったと受け入れ、主イエスを
自分の救い主と信じることです。主イエスは神の大能の力で私たちを自由にします。
私たちは、主イエスの十字架を仰ぐ時、主イエスに、いのちを捨てるほどの愛で愛され
ていると確認できます。だから私たちは、自分も主イエスを心から愛したいと願い、主イ
エスを愛するがゆえに、心から喜んで主イエスに聞き従いたいと思うのです。喜んでなす
べきことをなす、これが自由です。主イエスの愛が自由に生きることを得させるのです。
私たち人間は、神のかたちとして、神の似姿に造られているので、心に神の基準が植え
付けられています。その良心に従って、何が正しいか、何が悪いかが判断できます。主イ
エスが私たちを自由にし、自由に生きるいのちに生かしてくださるので、主イエスの助け
を受けながら、良心に従い、神の基準に基づいて、正しいことをしたいと願い、それをし
ようとし、悪いことをやめたいと願い、それをやめようとします。主イエスに助けを求め
て、する自由、しない自由を生きるのです。主イエスが私たちを自由にします。私たちは
主イエスにあって、自由を生きるいのちを歩むことができるのです。
31~32節。主イエスを信じる仕方が重要です。イエス・キリストを信じていても、その
信仰が、自分の生活に良い影響を及ぼさない、何の助けにも、何の力にもなっていないと
いうこともあるのです。私たちは主イエスを信じて、主イエスにとどまり、主イエスのこ
とばにとどまることが、本当に主イエスの弟子となる道です。
主イエスの弟子とは、主イエスから学ぶ者です。人間の教師に学ぶのではなく、主イエ
スから学ぶことが大事です。人間の教師は、主イエスから学ぶように、人々に神のことば
を語る者たちであって、決して自分の弟子にしてはならないのです。私たちは、主イエス
の弟子となることを追い求め、主イエスの弟子であるとき、私たちは真理を知り、真理が
私たちを自由にします。主イエスご自身が真理です。神のことばが真理です。主イエスに
とどまり、主イエスのことばにとどまるとき、真理によって生きる者となります。真理が
分かった者は、真理以外のものに惑わされることはありません。真理そのものであられる
キリストが、神の御子が、私たちを自由にします。
私たちがすべきことは、主イエス・キリストを信じることです。あなたを愛して、あな
たの罪を赦すために、十字架で身代わりの処罰を受けた神の御子、主イエス・キリストを
信じるのです。そして主イエスから聞き、そのことばにとどまる、主イエスから学び、そ
のことばを生きる、主イエスの弟子になるのです。真理である主イエスは私たちを自由に
します。真の自由を生きたいのなら、主イエスを自分の救い主と信じ、自分の主として歩
むことです。
主イエスが私たちを自由にします。主イエスが、私を、あなたを自由にします。私たち
は本当に自由になります。




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