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2025年9月28日 礼拝「罪責感から解放される幸い」詩篇51:1~4

  • hikaruumichurch
  • 9月28日
  • 読了時間: 9分

 私たちは日々の歩みの中で、何らかの罪を犯してしまいます。私たち人間は、神のかた

ちに造られているので、だれもが心に神の基準を持っており、善悪の判断ができます。そ

れが良心となっていて、何らかの間違いや罪を犯したときは、多少なりとも罪責感を覚え

るのです。平気で罪を犯しているように見える人でも、心の疼きを覚えているはずです。

人はみな、罪を犯したという自覚があり、罪責感を引きずっているはずです。

 ただし罪を犯したと自覚した時に、どのような態度をとるかによって、その後の歩みは

全く違ってきます。罪を罪として自覚し、真の悔い改めに進み、神からの赦しを受けるの

か、さらに罪を重ね続けて、最終的に神に罰せられるかです。

 この詩の作者ダビデは、罪を指摘されたとき、素直に罪を認め、悔い改めました。ダビ

デは創造者である神の御前での罪を深く自覚し、神のあわれみを求めたのです。

 51篇には表題にあります。ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもと

に来たときにとあります。バテ・シェバは人妻でした。ダビデはこの時、姦淫の罪を犯し

たのです。ダビデほど神を恐れ、神の信頼を得ている人格者はいません。そのようなダビ

デでさえ、明らかに罪と分かる姦淫の誘惑に引き込まれたのですから、私たちは主なる神

を強く意識している必要があります。そうでなければ、私たちも、罪の巧妙な誘惑を退け

ることできず、罪に引き込まれるのです。

 この出来事は今日の交読箇所に記されています。サムエル記Ⅱ11章です。ダビデほどの

人物が、姦淫の罪に引き込まれていった経緯です。王国は確立しました。戦力的にも圧倒

的な強さを誇っていて、ダビデが戦いの先頭に立つ必要はなくなっています。そしてダビ

デは王です。絶対的な権力を持っており、何をしても許される存在です。次第にダビデは

高慢になっていき、心が神を恐れ、神を信頼することから離れて行きました。

 1~2節。部下は戦場で戦っているのに、ダビデは夕暮れに起き出すとあるように、生

活習慣は乱れていました。生活の乱れは霊的な乱れに直結します。様々な問題や課題が解

決されるにしたがって、主なる神に必死にすがることはなくなります。いつしかみことば

を読まなくなり、祈りも疎かになり、主の御前での敬虔さが失われ、主との霊的な交わり

がなくなり、霊的にも生活が乱れていたのです。私たちも気をつけましょう。このような

兆候が現れたなら、それは危険信号です。ダビデほどの信仰の人、神を恐れ、神をあがめ

て聞き従っていた人物でも、誘惑に引き込まれるのです。

 この姦淫によってバテ・シェバは身ごもります。それでダビデは、姦淫の罪をごまかす

ために、その夫ウリヤを戦場で戦死させ、未亡人となったバテ・シェバを妻に迎えます。

一つの罪をごまかすためには、新たな罪を犯かさなければならなくなるのです。私たちは

罪をごまかしてはなりません。罪に罪を重ねてはならないのです。

 人はごまかせても、神はごまかせません。主なる神は預言者ナタンを遣わし、ダビデの

罪を指摘しました。ダビデは絶大な権力を有する王となっています。しかしダビデは、王

の権威で預言者を退けることはしませんでした。ダビデは自分の罪を認め、主の御前にへ

りくだって、罪を悔い改めたのです。ここにダビデの幸いがあります。罪を罪として認め

る者だけが、真の悔い改めに導かれ、罪の赦しを受けます。そこからやり直しの人生が始

まり、主に仕える新しい喜びと感謝に満たされていきます。

 詩篇32篇でダビデは告白しました。私が黙っていたとき 私の骨は疲れきり 私は一日

中うめきました。昼も夜も 御手が私の上に重くのしかかり 骨の髄さえ 夏の日照りで

乾ききったからです。私は自分の罪をあなたに知らせ 自分の咎を隠しませんでした。 

私は言いました。「私の背きを主に告白しよう」と。 するとあなたは 私の罪のとがめ

を 赦してくださいました。 私たちもダビデと同じ体験をすることができます。

 私たちは罪責感を覚えます。心が疼きます。そのような時は、創造者である神が、私た

ちに罪を知らせていると覚えましょう。そして、自分の罪を隠してはなりません。赦しを

備えて待っておられる神に、自分の罪を告白し、赦しを求めることが大事です。主なる神

は、罪を赦そうとして、私たちが悔い改めることを待っておられます。

 詩篇51篇1節。ダビデは、自分の罪を自覚して、神にあわれみを求めます。主のあわれ

みにすがる以外に、罪の赦しは得られないからです。2節。罪の赦しは、罪からのきよめ

の願いともなります。ダビデは、私の背きをぬぐい去ってくださいと祈りました。姦淫も

殺人も人に対する罪ですが、それは神への背信行為なのです。この事実を私たちも自覚し

ておく必要があります。罪はすべて、神への背信行為であるということです。

 4節。私たちは自分の罪をどのように考えているでしょうか。私たちはともすると、こ

れは自分自身への罪、これは人への罪、これは神への罪と、罪の種類や程度を分け、これ

くらいなら目くじらを立てられることなどないと、罪を軽視していないでしょうか。もし

そうであるなら、それは大きな間違いです。罪はすべて、どんな罪も、軽微なものであっ

ても、神への背きであり、神に対して罪を犯しているのです。私たちは罪に対してもっと

敏感になり、罪からのきよめを追い求める必要があります。

 5節。自分が罪を犯したことを、母親のせいにしているのではありません。自分は生ま

れながらに罪人であるという、罪の性質を直視したことばです。だから霊的な生活が乱

れ、主の助けと守りを求めないなら、すぐにでも罪の誘惑に引き込まれてしまう自分の弱

さの現実を見て、罪の性質そのものからの救いを求めているのです。6節にある、心のう

ちの真実とは、人からは見えないとしても、自分に対して、人に対して、なによりも神に

対して真実でありたいと願う心です。主はそのような心を喜んでくださるのです。

 7節。ヒソプはきよめの儀式に用いるものです。主がきよめてくださるのでなければ、

私たちは罪からきよくされることはできません。そしてそれは、私たちが真剣に求めるこ

とで可能となるのです。罪が赦され、罪から解放されたとき、つまり神との平和が与えら

れたとき、私たちは主なる神の御前で、心から喜び楽しむことができます。8~9節。

 10節。ダビデは、きよい心を造ってくださいと願い求めました。私たちが願うべき求め

がここにあります。大事なのは新しい創造ですと、パウロはガラテヤ人への手紙に書き送

り、エレミヤは、人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたいと糾弾していま

す。罪に陥った私たちの心は、どうしようもないほどに悪くなっていて、どんなに直そう

と努力しても、自分の頑張りではどうにもなりません。神に造り変えていただく、新しい

創造が必須です。だから創造者である神に助けを求める必要があります。

 神は私たちを新しい創造へと招いておられます。罪の赦しを備えて、悔い改めへと招き

続けておられます。そのために、私たちに罪の赦しを備えるために、神の御子キリストを

人として地上に遣わし、私たちの罪をすべて、その身に負わせて、私たちの代わりに、十

字架で罪の処罰を終わらせました。全人類のすべての罪に対する処罰は、十字架によって

完了したのです。この十字架で処刑されたイエスを救い主と信じて、あの十字架は私の罪

に赦しを備えるための身代わりの処罰であったと受け入れ、罪の赦しを求めて、悔い改め

るなら、私たちは救われます。主イエスの十字架の死によって、すべての人に、罪の赦し

と罪からの救いは差し出されているのです。

 今週のみことばは「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですか

ら、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」とあります。私た

ちが、きよい心を造ってほしいと神に求めるなら、神はそのようにしてくださいます。神

に自分を差し出して、醜い、汚い心、脆く、弱い心を、きよい心に造り変えていただくこ

とができるのです。みことばの明確な約束があります。罪に気づいたなら、その罪を告白

し、赦していただく。すると今まで罪や不義と思っていなかったことが、実は罪である、

不義であると気づかされ、さらに赦しを求めて告白します。そのようにして、すべての不

義からきよめられていくのです。

 きれいな水が入っているコップに、泥水を一滴入れるなら、そこに泥水が入ったことが

分かります。しばらくすると、泥水が入ったことは分からなくなります。気づいた時点で

その泥を取り除かなければ、いつしかコップ全体が泥水となるのです。逆も言えます。泥

水の入っているコップにきれいな水を一滴入れるなら、一瞬ではあっても、その周りはき

れいになります。その繰り返しの中で、コップの水はきれいにされていきます。

 私たちの心も同様です。罪を告白するなら、その罪は赦され、きよくされます。そのき

よさに触れた部分で、新たに罪であると気づかされ、その罪を告白し、悔い改めへと招か

れます。その部分も、きよくされます。この繰り返しの中で、時間はかかったとしても、

すべての不義からきよくされていくのです。神が私たちにきよい心を造り、揺るがない

霊、誘惑に負けることのない霊を、新しくしてくださるのです。

 私たちは、自分には罪の性質があることを正直に認めましょう。様々な誘惑に引き込ま

れて、罪に陥る弱さを抱えていることも認めましょう。罪に気づいたなら、素直に認め、

すぐに悔い改めて、赦しを求めることが大事です。

 17節。神が喜んで受け入れてくださるいけにえは、砕かれた霊、打たれ、砕かれた心で

す。へりくだって、自分の弱さや脆さ、醜さを正直に認めて、神に助けを求めることを、

神は喜んでくださるのです。赦しを備え、心をきよくしてくださる神のあわれみ、恵みに

すがることが大事です。神は赦しの神、恵み豊かな神です。心に疼きを覚え、罪責感に苛

まれているなら、その解放を求めて、主イエスの十字架によって差し出されている罪の赦

しを受け取れば良いのです。罪が赦され、罪責感から解放され、心は喜びと感謝に満たさ

れます。

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