2025年9月21日 礼拝「罪に対して死んだ私たち」ローマ6:1~11
- hikaruumichurch
- 9月21日
- 読了時間: 8分
私たちが救われるのは、主イエス・キリストを信じる信仰によります。どんな良い行い
もすぐれた業績も、私たちを罪から救うことはできません。そして、主イエスを信じて救
われた私たちは、罪に対して死んだ者たちです。救いは信仰によって与えられます。そし
て救われた私たちが、救いにふさわしく生きられるのも、信仰によるのです。
主イエスを信じて救われた私たちについて、聖書は何と言っているでしょう。今日私た
ちは、神のことばから、神が示しているキリスト信仰者の霊的状態を確認します。そして
その霊的な事実を実生活に当てはめて、信仰によって歩むのです。
5章20節で、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれましたとあります。律法が定
められ、何が罪であるかが具体的に示されたことで、罪の認識が明確にされました。その
結果、罪の赦しを求める人々が起こされたのです。そして罪の呵責が強くされ、その罪に
赦しを求めることになります。その者に、神の恵みは満ちあふれるのです。
1節。パウロは、屁理屈を言う人を想定して、問答をします。恵みが増し加わるのだか
ら、罪にとどまっていても良いのではないかと言う人に答えるためです。私たちは罪にと
どまるべきでしょうかと問いかけました。
2節。パウロは、決してそんなことはありませんと断言して、答えます。罪の赦しを受
けた者は、罪に対して死んだ者だからです。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも
罪のうちに生きていられるでしょうか。生きてはいられないのです。
3節。罪に対して死んだ私たちですから、なおも罪のうちに生きていることはあり得な
いのです。そうして私たちが受けたバプテスマとは何かを説明します。これからバプテス
マを受けようとする人も、バプテスマの意味を知っておくことが大事です。
バプテスマは、キリスト・イエスにつくバプテスマです。キリスト・イエスにつくバプ
テスマとは、キリスト・イエスのなかに入るバプテスマです。キリスト・イエスと一体に
なることを意味します。主イエスにあって、主イエスとともに、十字架で死に、復活した
ことの表明としてのバプテスマです。
だからパウロは、キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死に
あずかるバプテスマを受けたと断言するのです。みなです。全員です。父・子・聖霊の御
名によってバプテスマを受けた者は、誰一人例外なく、その死にあずかったのです。
4節。キリストとともに死んで、葬られました。葬られたということは、その死は確実
となったことです。仮死状態で生き返ったのではありません。確実に死んだのです。これ
が私たちが受けるバプテスマの意味です。パウロがここで使っている動詞はすべて過去形
です。過去に起こった事実を述べる過去形です。すなわちバプテスマを受けた者はみな、
すでに死んで葬られました。もう一度言います。バプテスマを受けたのなら、私たちはキ
リストの中に入ったのであって、キリストと同じ状態になったということです。主イエス
を信じて、父・子・聖霊の名によってバプテスマを受けるのは、罪を心から悔いて、罪か
ら離れることを決断した表明であり、罪に対して死んだとの認識の表明です。
5節。・・なっている。6節。罪のからだが滅ぼされた。罪の奴隷ではなくなった。7
節。死んだ者は、罪から解放されている。これが私たちキリスト信仰者の状態です。私た
ちは2度と罪のうちに生きていられる状態ではなくなったのです。
もう一度4節。それはとあります。結果であり、目的が書かれています。私たちがキリ
ストとともに死んだのは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたよ
うに、私たちも、私たちもです。私たちも、新しいいのちに歩むためです。
新しいいのちに歩むとあります。これはいのちの新しさの中で歩むと直訳できます。全
く新しいいのちです。単に死んで、生き返ることとは違います。ラザロは死んで葬られ、
四日後に主イエスによってよみがえらされました。そのいのちは、元の体に戻る復活で、
寿命とともに死ぬいのちでした。その復活とは全く違ういのちです。
主イエスは十字架で死なれました。そして3日目に復活しました。そのいのちは、それ
までのいのちとは全く異なる、新しいいのちでした。死に影響されない、決して死ぬこと
のないいのちを持つ栄光のからだに復活された、そのいのちです。質的に違う、全く新し
いいのち、私たちが今生きているいのちとは完全に異なるいのちです。そして私たちも、
キリストにあって、全く新しい歩みをする者とされるのです。復活は、一度死ななければ
起き得ない事柄です。まず死んで、初めて復活の恵みを受けることができるのです。
キリストは肉体を十字架につけて、血を流し、肉を裂かれて死にました。そして新しい
からだをもって復活されました。私たちは、このキリストの死と復活と同じ体験を、この
肉体にあって霊的に体験するのです。これは、神がなしてくださる恵みのみわざを、信仰
によって受け入れる行為です。私たちはなおも、罪の影響の残るからだにありながら、罪
のからだに死んで、キリストにある新しいいのちに生きる者とされたという、霊的事実を
受け入れるのです。これは信仰によって受け入れる霊的な事柄です。霊的な事柄ですが、
実生活の中で体験していて、信仰によって具体化されていくのです。
全能の神は、その大能の力によって、私たちのうちに、この素晴らしいみわざをなして
くださっています。5節。キリストの復活とも同じようになるからです。8節。キリスト
ともに生きることにもなる。11節。自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きて
いる者だと、認めなさい。
私たちは主イエスを信じました。主イエスの十字架は、私の罪を赦すための身代わりの
処罰であることを受け入れました。神のことばを信じ、信仰によって、キリスト・イエス
につくバプテスマを受けました。救いの恵みにあずかったのです。その霊的事実を、パウ
ロは認めなさいと命じます。自分は罪に対して死んだ者であり、新しいいのちに生きてい
る者です。そしてこれは信仰によって生きる者だけが、この霊的な事実を実生活での出来
事として受け止めることになるのです。バプテスマとは、この霊的事実の象徴です。私た
ちはバプテスマによって、キリストとともに死にました。そしてキリストとともに死んだ
ので、キリストとともによみがえり、全く新しいいのちに歩んでいるのです。
パウロはコリント人へ手紙第2で宣言しました。だれでもキリストのうちにあるなら、
その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりまし
たと。私たちは新しくされました。全く新しいいのちに生きているのです。
私たちキリスト信仰者は罪に対して死にました。罪とは、神よりも、自分を優先するこ
とです。神のことばよりも、自分の判断を優先して、神のことばを退けること、神を退け
ることです。自分を主とするために、神を主とすることを拒むのです。最初の人アダムが
神のことばを退けて、善悪の知識の木から実を取って食べた時から、私たちは自分を神よ
りも優先する罪の性質を抱える者となりました。頭では神に従うことが良いと分かってい
ても、自分の欲求に従って、神のことばを退けるのです。まさに罪の奴隷状態です。
新しいいのちに歩むとは、創造者である神を優先して生きるいのちに歩むことです。造
られた本来のあり方に戻ること、罪から解放されることです。新しいいのちが与えられた
私たちは、キリストとともに歩むことで、新しいいのちを歩むことができるのです。
マタイの福音書11章29節。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたも
わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ま
すと、主イエスは私たちを招きました。主イエスから学び、主イエスと一体となって歩む
ために、主イエスのくびきを負う必要があります。主イエスはへりくだっているので、私
たちが求めなければ、学べません。キリストともにあることで、自動的に学べるのではあ
りません。また私たちには、神の賜物として、聖霊が与えられています。キリスト信仰者
の心に住んでおられる助け主の聖霊です。助け主ですから、強制して、私たちを導くこと
はなさいません。私たちが自発的に、自分から聖霊に助けを求めて、みことばに教えられ
ることが必要です。助け主は、私たちが助けを求めることを待っておられ、助けを求める
なら、喜んで私たちを教え、導いてくださるのです。
6節。私たちは知っていますとパウロは言います。キリスト信仰者は知っています。頭
では分かっています。知識として知っているのです。私たちが主イエスを信じたというこ
とは、自分も、キリストともに十字架につけられたのであって、自分を神よりも優先する
古い人は死んだのです。これが霊的な神の御前での事実です。古い人、罪に従っていた自
己中心の自分は、キリストとともに十字架につけられて死にました。罪のからだが滅ぼさ
れて、罪の奴隷ではなくなったのです。死は解放です。罪から解放され、罪に従わせられ
なくなりました。そしてキリストとともにに生きる者となりました。神のみわざです。
9節。私たちは知っていますとパウロは繰り返します。キリストは十字架で死んだ後、
三日目に死者の中から復活されました。死に支配されないからで復活されたのです。私た
ちも、キリストともに、死に支配されないからで復活します。神の約束です。私たちの肉
体は朽ち果てます。しかし私たちは死に支配されないいのちに生きています。私たちキリ
スト信仰者は、罪に対して死んだのです。
11節。私たちは認めましょう。自分はキリスト・イエスにあって、罪に対して死んだ者
であり、神に対して生きている者です。神よりも自分を優先している罪に気づいたなら、
その度に、罪に対して死んだ自分であると確認して、神に従う決断をして、再度歩み出す
のです。一歩踏み出すとき、助け主の聖霊が助けてくださいます。




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