2025年9月14日 礼拝「ずっと私の羊飼いであられた神」 創世記 48:15~16
- hikaruumichurch
- 9月14日
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今年も、敬老の日に合わせて、敬老祝福礼拝を主なる神にお献げします。私たちは、敬
老の日だからということではなく、聖書の教えに従って、いつも年配者を敬うことが大事
です。主なる神が、今は年配者である方々を、若い時に用いてくださって、築き上げられ
た社会の恩恵を、私たちは受け継いでいるゆえにも、敬うということです。
今日私たちは、ヤコブが「今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神」と告白
した、その地上生涯を確認して、私たちもヤコブと同じ告白を、心から告白したいと願う
のです。今日、もしかすると地上生涯を終えるかもしれません。その時、自分はどのよう
なことばを発するでしょうか。また、どのようなことばを発したいと思うでしょうか。
ヤコブは「今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神よ」と呼びかけた上で、
子どもたちへの祝福を祈りました。ヤコブの生涯は、騙したり、騙されたりの生涯で、傷
つけたり、傷つけられたりもしました。しかし、そのような騙し合いの人間関係、傷つけ
合う生涯と関係なく、主なる神の自分に対する関わり方は、羊飼いのようであったと回顧
するのです。自分は羊飼いに聞かないでさまよっていたけれど、主なる神は羊飼いである
ことを止めることなく、導き続けてくださったと。
ヤコブの生涯を振り返ります。創世記25章23節。主なる神は、双子の弟として生まれる
ヤコブを用いると、母リベカに伝えました。夫婦で共有されたはずです。34節。兄エサウ
は、長子の権利を侮ったとあります。神からの祝福を軽蔑したということです。27~28
節。この家庭には親の偏愛もありました。父親は兄エサウを愛し、母親は弟のヤコブを愛
したのです。親の自己中心的な偏愛が、この家庭に悲劇を生じさせることになります。
その悲劇は27章に記されています。主なる神の計画は告げられていました。信仰による
祝福の継承者はヤコブです。兄のエサウは、主なる神を軽んじ、自分の欲求を満たす人物
になっています。26章34~35節にあるとおりです。それにも関わらず、父イサクはエサウ
に神からの祝福を与えようとしたのです。神の民としての霊的祝福、信仰継承者としての
祝福をエサウに継がせようとしました。27章1~4節。ここに、神に従うよりも、自分の
好みを、自分の欲求を優先させる人間の罪があります。神のみこころが何であるかを知っ
ているのに、自分の思いで行動する、これが罪であり、的外れの道を進ませるのです。そ
の結果、兄弟間に憎しみを引き起こすことになりました。
母リベカも同じです。27章5~6節。夫イサクの行動を知ったリベカは、人間的な策略
で神の計画を実現しようとします。神の明確な約束があるのに、自分が愛しているヤコブ
にではなく、エサウに神の祝福を継がせるのは許せないと考え、夫を騙すことで、神から
の祝福をヤコブに継がせようとしました。夫婦間に信頼関係がなくなっています。何より
もリベカには、神の主権的な介入を待つという、神への信頼がなくなっている姿を見るの
です。ヤコブは神の民としての祝福を受け継ぎはしました。しかしこの出来事を通して母
リベカは、愛してやまない息子ヤコブと分かれることになり、そのまま死別します。人間
的な知恵で事を行った結果は、取り返しのつかない代償を引き起こすのです。
イサクは、自分の好みで神の定めを曲げようとし、リベカは、神の定めを人間的な力で
実現しようとした結果、エサウは弟ヤコブに対して激しい殺意を抱き、その機会を探り始
めたのです。41節。それを知ったリベカは、ヤコブを実家に逃がすことにします。
28章からは、ヤコブの逃亡記録です。この家族の自己中心から生じた悲劇的な状況にも
関わらず、神はご自分の計画を実行に移されるお方です。母の故郷に逃げ延びようとして
いるヤコブに対して、主なる神が夢の中で語りかけます。10~15節。ヤコブやその両親が
いかに間違いを犯したとしても、その間違いに対する刈り取りは当然させますが、それは
それとして、神はご自身の真実にかけて、約束されたことを実行されるのです。
13~14節。神ご自身がヤコブの傍らに立ち、ヤコブを神の民として整えること、その
子孫を神の祝福の基として用いると約束されました。15節。神が共にいてくださり、いつ
も守りの手を伸べていてくださること、決して捨てることがなく、導き続け、必ず連れ戻
すとの保証を与えるのです。
これらの約束がヤコブに与えられたのは、ヤコブがそれにふさわしい存在だからではあ
りません。ヤコブが神の民として、神の役に立つ生き方をしていたからでもありません。
この時点まで、ヤコブは神を知ってはいても、このお方を自分の神としてあがめ、神とと
もに歩むという思いはありませんでした。ヤコブは、自分の知恵を悪用し、自分のことば
の巧みさで、いかに人を騙して自分が得するかを、いつも考えるような人物だったので
す。そのようなヤコブを、神は見捨てることも、見限ることもしないで、なおご自分の計
画のために用いてくださるのは、ご自分が語った約束に対する真実さのためです。16節。
この夢を通して、ヤコブは初めて神を、自分の神とあがめて生きる姿勢を身に付けること
になります。20~22節。なおもヤコブは、自分にとっての損得で神ご自身との関わりを考
えようとしています。ただヤコブは、アブラハムの神、イサクの神に敵対してはならない
と考えていました。
29章からは、母リベカの兄、叔父のラバンに騙されることを通して神の御前での真の謙
遜を身に付けていくヤコブが記されています。今まで自分が得するためなら、平気で人を
騙してきたヤコブは、叔父のラバンに好いようにあしらわれて、20年もの歳月をただ働き
同然のように働かされ、利用されるのです。その苦難の中で、ヤコブは神を仰ぐこと、神
に助けを求めること、神に信頼して歩むことの大切さを身につけていくのです。この期間
を神が許可されたのは、ヤコブのこれまでの悪行に対する罰ではなくて、ヤコブが真に神
の民として祝福されるにふさわしく整えられるための訓練でした。
主なる神は私たち罪人をその罪のゆえに見捨てることも、見限ることもなさいません。
私たちをあわれみ、私たちが真に神を自分の神としてあがめ、神に信頼して歩むことがで
きるように招き続けてくださるお方です。私たちが神から離れることを選ぶことがあって
も、神が私たちを見限ることはありません。私たちをあわれみ、招き続けてくださるので
す。私たちは決して神から離れることのないように心しましょう。
この20年の歳月の後、ヤコブは神の約束の通りに故郷に戻り、神の守りの中でその生涯
を重ねていきます。息子たちに騙され、愛するヨセフを失うという大きな悲しみをも、神
の主権的な介入によって、大きな喜びに変えられました。そして今、エジプトで、愛する
ヨセフの保護の下で、生涯の終わりを迎えようとしています。そして自分の全生涯を振り
返るときに、ヤコブは心からの感謝を込めて「今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであ
られた神」と告白したのです。
私たちもヤコブと同じように告白しましょう。私たちもこの世を去る時が来ます。その
時「今日のこの日まで、すっと私の羊飼いであられた神」と告白する信仰者でありたいの
です。神は私たちの弱さをご存じです。私たちの欠けを知っておられます。様々な失敗を
繰り返すことがあります。だからといって私たちを見限ることはなさいません。なお私た
ちをご自分の真実さで導き、養い、整える関わりを持ち続けてくださいます。ある時は懲
らしめ、ある時は訓練し、ある時は慰め、励まして、導き続けてくださるのです。羊飼い
がその羊を養い、間違いを犯さないように杖や鞭を用いて導くように、神は私たちを正し
い道に歩ませるために、絶えず関わりを持ち続けてくださるのです。
テモテへの手紙第二2章13節に「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実であ
る。ご自分を否むことができないからである」とあります。これは私の好きなことばの一
つです。私たちの不真実に関わりなく、キリストはご自分の真実をもって、約束を実現さ
れます。羊飼いである神は私たち一人ひとりを導いてくださいます。私たちはこのような
お方を、自分の神として信じる恵みを与えられたのですから、このお方を自分の羊飼いと
して仰ぎ、このお方に生涯、信頼して歩む心を堅くしましょう。
「主は私の羊飼い」と大胆に告白しましょう。主イエスも「わたしは良い牧者です。良
い牧者は羊のためにいのちを捨てます」と言われました。そのことば通り、主イエスは、
私たちを罪と滅びから救い出すために、私たちに罪の赦しを備えるために、十字架で自分
のいのちを捨ててくださったのです。いのちを捨てるほどの愛で愛された私たちは、主イ
エスを自分の羊飼いとして仰ぎ、信頼して、従い続ければ良いのです。
ペテロはその手紙に「あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のた
ましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った」と書き送りました。私たちは迷い出
ることがあります。しかし私の羊飼いであられる神は、なお私たちを捜し続けて、そして
私たちが助けを求めるなら、いつでも助けを与え、回復してくださるのです。罪を罪とし
て認め、悔い改めるなら、どんな間違いや罪もすべて赦してくださいます。そのために御
子主イエスは、十字架で死なれたのです。
このような素晴らしい信仰を与えられている私たちは、このお方から決して離れること
なく歩もうではありませんか。そして自分の生涯の終わりに、感謝と喜びを込めて、私た
ちも「今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神」と告白しましょう。
年輩の皆さまが、今も、これからも、主の恵みと祝福に支えられながら、地上生涯を全
うされますようにと、祈るものです。羊飼いである神が守ってくださいます。




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