2025年9月7日 礼拝「十字架と復活の予告」ルカ18:31~34
- hikaruumichurch
- 9月7日
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医者であり歴史家であるルカが独自の視点で書き記した主イエスの十字架への道、エル
サレムへの最後の旅も大詰めになってきました。今日の箇所は、エルサレムに平和の君と
して入城する前に、弟子たちに、エルサレムで待ち受けている苦難と復活の最終予告、十
字架での死と復活の、3度目の予告をされた箇所です。
主イエスがローマ帝国の極刑である十字架刑で処刑されたことは歴史的な事実です。そ
の経緯については、いろいろな解釈をする人がいます。その最も顕著は解釈は、十字架刑
での処刑は、イエス本人にとって不本意な出来事であったとの考え方です。ナザレのイエ
スは志し半ばで、不幸にも殺されたと考えるのです。ナザレのイエスは、貧困や病気に苦
しむ人々、社会的に虐げられている人々を、その苦境から救おうとして、人々を愛し、人々
に仕え、その必要を満たし続ける、本当に賞賛に値する生き方をしていたけれど、当時の
政治的、宗教的な権力につぶされて、非業の死を遂げたのだと言うのです。人々はナザレ
のイエスを三大聖人の一人と認めます。それら多くの人々にとって、イエス・キリストは
悲劇的な死を遂げた聖人でしかないということです。
私たちキリスト信仰者は全く違う解釈をします。聖書に記された主イエスの生涯を基盤
にするからです。聖書は、イエス・キリストの十字架での死を、神が計画された、罪人を
救うための計画の実現とします。今日の箇所に、そのことが明確に記されています。主イ
エスは弟子たちに、自分が受ける苦難と死、そして復活を予告しました。しかもその予告
は具体的であり、またそれは旧約聖書で預言されていたことだと言うのです。
31節。主イエスは12弟子に明言します。これから、殺されるためにエルサレムに行く。
それは旧約聖書に記されているように、神が預言者を通して告げておられた救いの計画で
あって、そのすべてが実現するためだと、神のことばに目を向けさせたのです。
32節。人の子とは、主イエスが自分について語るときに使う表現です。旧約聖書で預言
者ダニエルは、神がやがて遣わすメシヤ、救い主についての神のことばを語るとき、人の
子のような方と、その預言をしていました。神の御子であり、神ご自身である方が、人と
なって地上に来られました。主イエスは、預言者ダニエルの預言をご自分に使うことで、
自分こそ、神が約束された救い主、メシヤであることを宣言していたのです。
人の子は異邦人に引き渡されます。別の予告では、まず祭司長、律法学者など、ユダヤ
教指導者に引き渡され、彼らが異邦人に引き渡すと語っておられます。異邦人とはユダヤ
人以外を指していて、この文脈ではローマ人となります。
主イエスの身近な者がユダヤ教指導者に主イエスを引き渡します。私たちはそれが、12
弟子の一人、イスカリオテのユダであったことを知っています。そして宗教指導者たちは
主イエスを、神を冒瀆する者として死刑の判決を下し、ローマ総督ピラトに対して、ロー
マ帝国への反逆という罪状で訴えました。総督ピラトは、主イエスは無罪であると訴えた
けれど、ユダヤ人たちの「十字架につけろ」の要求に屈します。ローマ兵たちは主イエス
を嘲り、辱め、唾をかけたのです。32節で予告されたことが実行されました。
33節。人の子は鞭で打たれたあと、十字架刑に処せられ、殺されます。ここまでは、自
分が置かれている状況を冷静に整理しているなら、それなりに予測ができます。そしてそ
の通りに事が進むことは何も不思議なことではありません。先が読めるなら、このように
扱われることを予告するのに、超自然的な力は要りません。
しかし、その次の予告は、だれもが言えることではありません。決して言えないことを
主イエスは予告されたのです。「しかし、人の子は三日目によみがえります」。殺される
ことは予測できます。ローマ帝国の手で殺されることも予測できます。しかし復活の予告
は誰にもできません。その予告ができ、予告の通りに復活するなら、その事実こそ、主イ
エスはメシヤ、キリスト、神ご自身であることを立証することになるのです。
そして私たちは歴史を知っています。ナザレのイエスはローマ帝国の手によって、極刑
である十字架刑に処せられ、殺されました。処刑された犯罪人の遺体は、通常ゴミ捨て場
に捨てられますが、主イエスの遺体は、アリマタヤのヨセフが自分のために用意していた
真新しい墓に納められました。その墓の入口は大きな石でふさがれ、ローマ帝国の権威で
石は封印され、遺体が盗まれないように番兵が寝ずの番をしました。しかし三日目に墓は
空になりました。その後、主イエスのからだを誰も見つけることができずに、今日を迎え
ています。ここまでは歴史的な事実です。これを否定することはできません。
なぜ主イエスの遺体が納められた墓が、三日目に空になったのか。主イエスのからだは
どこに消えたのか、それを説明する大きな二つの説があります。一つは、主イエスが予告
し、聖書が報告しているのが、三日目のよみがえりです。そして40日の間、主イエスは繰
り返して、弟子たちにご自分の復活のからだを示し、復活の事実を確認させました。そし
て40日目に、主イエスは弟子たちが見ている中を、天に上って行かれたのです。だから主
イエスのからだは、地上、どこにもありません。
もう一つは、番兵が寝ている間に、弟子たちが来て、墓からイエスの遺体を盗み出した
という説です。これは、番兵たちがユダヤ教指導者たちに買収されて言い広めた作り話で
あると聖書に記されており、多くのユダヤ人は、この作り話を信じています。
しかしこれは冷静に考えるなら、あり得ないことです。番兵は寝ずの番をするのが役目
です。本当に寝てしまったなら、厳罰に処せられます。彼らが嘘をつけたのは、祭司長た
ちがローマ総督を説得すると保証したからです。もし弟子たちが盗み、イエスの遺体を隠
したとするなら、ユダヤ当局でも、ローマ当局でも、弟子たちを捕まえ、拷問をして白状
させることはできるはずです。しかし彼らは何もしませんでした。
その後弟子たちへの迫害が激しくなりますが、それはイエスの遺体を見つけるためでは
なく、イエスの十字架と復活の福音を語らせないためです。しかし弟子たちは、財産を没
収され、国を追われても、殺されても、福音を伝え続けました。復活の希望があり、主イ
エスを信じる以外に救いはないので、それを伝えたのです。自分たちが作り出した嘘のた
めに、数多くのキリスト信仰者がいのちを捨てることなどあり得ません。
これらを冷静に考えるなら、主イエスの復活は事実であるとすることが合理的です。弟
子たちが盗んだという説は、作り話であると考えられます。復活が事実とするなら、それ
を予告できる主イエスは神ご自身であるとなります。そうすると、十字架の死は、志半ば
で殺され、非業の死を遂げたのではなく、神が立てられた救いの計画、罪人をその罪から
救い出すための、身代わりの処罰であるとなるのです。私たちが救われるのは、主イエス
の十字架によって差し出された罪の赦しを受け取る以外にはないのです。
旧約聖書で預言されているとおりに、ご自分が予告したとおりに、主イエスはローマ帝
国の手によって十字架刑に処せられ、殺されました。これは私たちの罪に赦しを与えるた
めの身代わりの処罰です。本来なら、罪を犯した私たちが、罪の罰を受けなければならな
いのですが、私たちを愛しておられる神は、私たちの代わりに、罪のない、罪を全く犯し
ていない御子キリスト、主イエスに私たちの罪を負わせて、罪の処罰をされたのです。
私たちは再度確認しましょう。私たちが救われるのは、主イエスを信じる信仰によって
のみです。私たちに罪の赦しを備えるために、神の御子、主イエスは人となられ、神の救
いの計画を実現するために、十字架で身代わりの処罰を受けてくださいました。そしてそ
れが政治的な謀略によって行われたのではなく、神の計画であることを実証するために、
主イエスご自身が十字架の死と三日目の復活を予告し、その通りに事が進んだことで、ご
自分が神ご自身であること、十字架を信じる信仰によって、罪が赦され、罪から救われる
ことを実証されたのです。
私たちは信じたいから信じるのではありません。十字架の意味と復活は事実であると受
け入れて、主イエスを救い主と信じる信仰によって救われたのです。主イエスを信じる以
外に罪の赦しはありません。罪からの救いはないのです。私たちは神の約束の通りに、永
遠のいのちが与えられ、復活のからだに変えられて、永遠を生きるのです。




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