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2025年8月31日 礼拝「恵みは満ちあふれる」ローマ5:12~21

  • hikaruumichurch
  • 8月31日
  • 読了時間: 9分

 1節でパウロは、私たちは信仰によって義と認められたという事実を確認させます。信

仰によって救われる。これがキリスト信仰の救いの根幹です。義と認められるとは、救い

の別の表現で、無罪の宣告を受けることです。罪を犯したけれども、その刑の執行は終

わったとして釈放され、無罪が宣告されるのです。刑の執行が終わったので、神との敵対

関係にあった私たち罪人は、神と和解し、神との平和を持っています。

 この救いために、神の御子キリストは人となられ、私たち全人類の罪をその身に負って

十字架で身代わりの処罰を受けました。神は十字架によって、全人類の罪に対する処罰を

終えたことで、赦しを備えて、私たちを救いへと招いておられます。

 11節。主イエスを救い主と信じて、十字架の身代わりの死を自分のためであると受け入

れた私たちは、神と和解させていただいたので、神を恐れる者ではなく、神を喜ぶ者と変

えられました。私たちが、イエス・キリストを主とあがめる者となったからです。

 今日の箇所でパウロは、一人の人アダムと一人の人イエス・キリストを対比させます。

全人類に罪と死が広がった経緯と、恵みといのちが賜物として与えられたこととを、並行

させて、繰り返して書き記すことで説明しています。

 12節。一人の人アダムによって罪が世界に入り、罪によって死が入ったと説明されてい

ます。アダムの罪とは、神の命令に背いたことです。神が天地万物を創造し、そのクライ

マックスとして人間を創造された世界には、罪はありませんでした。人は神のことばを聞

いて、それに自分を合わせて生きていたのです。神のことばを基準にして生きる。これが

人の、造られた本来のあるべき姿でした。エデンの園の中央にはいのちの木があり、いの

ちの木から実を取って自由に食べることができたので、死はなかったのです。

 創世記2章16~17節。創造者である神が人に与えた許可と禁止命令です。許可は、エ

デンの園にある木の実は、どれでも思いのまま食べて良いという大盤振る舞いですが、一

つだけ禁止命令があり、園の中央にある善悪の知識の木からは食べてはならないというこ

とです。その命令に背いたときには、あなたは必ず死ぬとの警告をも与えていました。

 しかしアダムは神の命令に背いて、善悪の知識の木から実を取って食べたのです。これ

まで神の基準を自分の基準としてきたアダムが、神の基準を退けて、自分の欲求を優先し

た最初の反逆行為でした。創造者である神を自分の神としないことを、神のことばを退け

ることで明らかにしたのです。創造者である神を自分の主としないことが罪です。

 人は、この罪の性質を受け継ぎました。罪の性質はアダムから子に、子から孫にと引き

継がれたのです。人は、神を自分の主として聞き従うのか、自分の欲求に従うのかの鬩ぎ

合いの中で生きることになり、多くの場合に、自分の欲求に従うことを選び取る者となっ

たのです。罪を犯すなら、その報いは死であり、すべての人は、罪を犯す当然の結果とし

て死ぬ者となりました。死はすべての人に広がったのです。

 13節。明らかに罪であると思える行為であっても、それを取り締まる法律がなければ、

罪に問うことはできません。ですから私たちは、社会に秩序を保つために、いろいろな規

定や規則、法律を定めるのです。そのようにして犯罪を抑止してきました。創造者である

神もユダヤ社会に対して、モーセを通して律法を定めました。しかし律法が定められる以

前から、死はすべての人を支配しました。罪とは断定されなくても、明らかに罪を犯して

いたからです。創造者である神を自分の神としないことそれ自体が罪であり、神の基準に

背く様々な罪を犯していたので、その報いとして死ぬ者となったのです。

 14節。アダムは来たるべき方のひな形とありますが、一人の人イエス・キリストの象徴

として対比されます。アダムの違反によってすべての人に死が広がったのですが、イエ

ス・キリストの恵みと義の賜物によって、すべての人にいのちがもたらされたのです。

 15節。恵みの賜物は違反の場合とは違うとあります。違反は罪とされ、その当然の報い

として死が宣告されます。罪を犯した者は死を逃れることができません。罪の報酬は死だ

からです。恵みの賜物とは、神の一方的な恵みによって差し出されたいのちです。賜物は

プレゼント、ギフトですから、与える側の温情による行為です。そしてそのプレゼントを

受け取るか、受け取らないかは、差し出された側が決めるのです。

 一人の人アダムの違反によって罪が入り、全人類が罪を犯す者となりました。その当然

の報いとして、死がすべての人に広がったのです。そのような私たち罪人に対して、神の

恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによって、いのちが差し出されました。この賜

物は、それを受け取るすべての人に与えられるのです。恵みは多くの人に満ちあふれるの

ですとあるとおりです。

 16節。賜物は罪を犯した結果とは違います。一人の人アダムが罪を犯した、その当然の

結果、報酬として死が定められました。罪を犯した結果は報酬であり、必ず受け取らなけ

ればなりません。これが恵みの賜物と違反の結果との違いです。さばきは、一つの違反か

ら不義に定められます。どれほど多くの善を行っていたとしても、一つの違反が不義に定

められ、死が宣告されるのです。死はすべての人に広がりました。その死ぬべき者たちに

恵みの賜物が差し出されています。恵みの場合は、多くの違反が、あらゆる違反が、義と

認められるのです。神の一方的な恵みの賜物です。

 17節。一人の人アダムの違反によって、死がすべての人を支配するようになりました。

それに対して、一人の人イエス・キリストの恵みと義の賜物は、すべての人にあふれるば

かりに注がれています。主イエスの十字架の死に至るまでの神への従順が義とされ、その

義の行為によって差し出されたいのちという賜物を受け取った人は、いのちにあって神に

支配されることになります。

 神の御子キリストは、父なる神の救いの計画の実現のために、肉体を取って人となら

れ、地上生涯のすべてを、神のみこころに従って歩むことで、神の義とは何であるかを表

されました。そして全地上生涯を通して、完全な従順を貫かれたことのゆえに義とされ、

十字架による罪の赦しと罪からの救いを実現させたので、いのちの賜物が全人類に差し出

されたのです。私たちはこの賜物を受け取れば良いということです。

 18節。繰り返しての説明が続きます。一人の人アダムの違反によってすべての人が不義

に定められ、すべての人が罪のゆえに死ぬ者となりました。そのすべての人に対して、一

人の人イエス・キリストの義の賜物によって、義と認められる道が開かれ、すべての人が

いのちを受け取る対象とされたのです。だれでも主イエスを信じる信仰によって、十字架

の身代わりの死を自分のためであると受け入れるなら、義と認められ、いのちが与えられ

るのです。

 19節。一人の人アダムの不従順によって多くの人、正確にはすべての人が罪人とされま

した。罪の性質を受け継いでいるので、すべての人が罪を犯しているからです。罪人とさ

れているすべての人に対して、義人とされる道が備えられています。一人の人イエス・キ

リストの従順によって、多くの人、正確には、信じるすべての人が義人とされるのです。

 パウロはこのように、表現を変えながら、一人の人アダムの、神に対する違反と、一人

の人イエス・キリストの、神に対する従順、十字架の死に至るまで神に聞き従った義の行

為を対比させて、死の支配と、いのちの支配を、繰り返して説明してきました。

 恵みの賜物は、信仰によって神に義と認められ、いのちを受けることであり、その先例

としてアブラハムが取り上げられました。それが4章に記されていました。アブラハムは

神の恵みを信じて、神のことばに聞き従う信仰によって義と認められ、祝福を受け継ぐ者

とされたのです。私たちもアブラハムに倣うことで、信仰によって義と認められます。

 一人の人アダムの違反によって、すべての人に死が及んだのは、すべての人が罪の性質

を受け継いだ結果、罪を犯したからです。アダムの違反、神の命令を知っていながら、そ

れに背くことは悪いことだと分かっているのに、自分の欲求を優先させて、神に背くとい

う性質は、親から子へ受け継がれ、子から孫へと受け継がれ、そうして全人類に受け継が

れました。そうして、すべての人が罪を犯したので、すべての人が罪の当然の結果として

死ぬ者となっています。

 それに対して、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物、いのちはす

べての人に差し出されています。アブラハムが神を信じる信仰によって、神に義と認めら

れるのと同様に、私たちは主イエスを信じる信仰によって、神に義と認められるのです。

神への私たちの信仰は、神が差し出された十字架による罪の赦しを自分のためであったと

信じる信仰によって明らかにされるのです。恵みによる賜物は、主イエスを信じて、十字

架による罪の赦しを受け取るすべての人、多くの人に満ち溢れるのです。

 20節。神が律法を定めたことで、神が違反とすることは何であるかが明らかにされまし

た。その結果、人の違反行為が増し加わったのです。律法が定められるまでは、罪と認識

されなかったことが、律法が定められたことによって、罪であると認識されるようになり

ました。自分に数多くの罪があると認識し、自覚した者が、その罪を悔い改めて、罪の赦

しを求めるときに、神はそのどんな罪をも赦してくださるのです。まさに、罪の増し加わ

るところに、恵みも満ちあふれるとあるとおりです。どれほど多くの罪を犯していても、

どれほど極悪非道な罪であったとしても、罪と認め、罪を悔い改め、赦しを求める者に対

して、恵みは満ちあふれるのです。

 21節。罪が全人類を支配しています。罪によって死は全人類に広がっています。神が宣

告された、あなたは必ず死ぬとの宣告が、全人類にとって現実となっています。罪と死に

支配されている全人類に、恵みは満ちあふれています。恵みは義によって支配します。主

イエスを信じる信仰が神に義と認められます。この義によって恵みが私たちを支配して、

主イエス・キリストにより永遠のいのちに導いてくださるのです。創造者である神の一方

的な恵みと、主イエス・キリストの十字架での身代わりの死、罪が処罰されていることに、

ただただ感謝するのみです。

 罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれましたの宣言に、心から感謝しましょう。

自分の罪がどれほど多くても、どれほど酷いものであったとしても、そのすべてを赦す神

の恵みは豊かに注がれているのです。素直に自分に罪のあることを認め、悔い改めて、赦

しを受け取ることが大事です。

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