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2025年8月24日 礼拝「神のことばの光に照らされて歩む幸い」詩篇119:105

  • hikaruumichurch
  • 8月24日
  • 読了時間: 10分

 おはようございます。皆さまは道路地図を見ることは好きでしょうか。地図を見るだけ

でめまいがするという人もいれば、地図を見るだけで日本旅行、世界旅行ができるという

人もいます。地図との関わり方においても、私たちは千差万別です。

 道路地図を見るのは、車を運転して目的地に行く場合が多いと思います。今はカーナビ

ゲーションを使う方が多くなっていて、その指示に従って目的地に行くことが当たり前に

なっていると思います。ただカーナビは最新のものを使わないと、痛い目にあうことがあ

ります。新しく作られた道に対応していないからです。随分前になりますが、冬の結婚式

に参列するために栃木県の田舎町の教会に、レンタカーを借りて向かいました。カーナビ

付きのレンタカーでしたが、念のため道路地図も携え、インターネットでその地域の道路

地図をもプリントして向かいました。私は地図で確認して運転するのが好きです。

 栃木県の田舎町に近づく頃、道路地図にある新しい道がカーナビには反映されていませ

んでした。そして、その新しい道の手前で曲がるようにと指示してきたのです。私はそれ

を無視して進みました。カーナビは沈黙し、画面表示は、道なき場所を矢印だけが進んで

いる状態でした。その後カーナビが認識できる道に入ると、案内を再開しましたが、設定

した住所の近くに来た時「目的地周辺です、案内を終了します」との音声と共に現在位置

を示すだけの画面となりました。もしナビがあるから安心だと思い、目的地周辺の道路地

図をプリントしていかなかったなら、夜の、しかも雪が降り始めた田舎の町で、途方に暮

れてしまったことでしょう。最終目的地まで案内してくれるナビでなければ、人を迷わせ

るだけです。責任も取りません。結果責任は自分が取ることになるのです。

 また東京の町田市にある病院を訪問した時のことです。午後3時頃まで用事があり、日

暮れ前に病院に着きました。入院中の方と話をして帰る時にはどっぷりと日が暮れていま

した。病院に向かうときは、しっかりと道路地図で場所を確認したので、迷うことなく病

院に着きました。病院から自宅のある府中市の方向はだいたい分かっていますので、地図

で確認することなく帰途につきました。ところが、病院と自宅の間に多摩ニュータウンと

いう広大な団地があり、団地の中の道路は立体交差もあって、複雑に入り組んでいて、団

地の中をさまよってしまいました。結構な距離を走ったところで、ようやく見慣れた道に

出ました。しかも驚くことに、自宅とは反対方向に向かっていたのです。道路地図を持っ

ていても、自分の記憶を過信して、地図で確かめなければ、間違った道を進むこともある

のです。自分の経験に頼り過ぎてはならないと思わされました。謙虚は大切です。

 目的地に着かないくらいの間違いなら、自分が困ったり、人に迷惑をかけたりするくら

いで済むでしょう。しかし人生の選択で間違いを選んでしまったなら、取り返しの付かな

い事態に陥ることがあります。悲惨や悲劇的な状況に迷い込むこともあります。私たちは

自分の人生を正しく導いてくれるしっかりとした道しるべを持つことが大事です。

 間違いのない人生を歩むことができなら、それは幸いだと言えます。そのように歩める

人は、本人も、人をも幸せにします。では、私たちが間違いのない人生を歩むための正し

い道しるべはどこにあるのでしょうか。私たちが拠り所とする基準が、時代や社会体制、

国や文化によって変わるものなら、それは正しい道しるべとはなり得ません。自分はこう

したいのだからこうすると主張しても、他の人もまた、自分はこうしたいからこうすると

主張します。互いの主張が違うなら、その異なる主張がぶつかり合い、そこに生じるのは

争いとなります。すべての人を幸福にする、ひっくり返らない基準が必要です。

 人によって変わる基準、国や文化、時代や社会体制によって変わる基準は、正しい道し

るべとはなり得ません。その人がどれほど信奉している価値基準であっても、他の人から

別の基準による意見を言われた時に、自分の基準を捨ててその人に合わせるか、自分の基

準に固執してその人と争うか、どちらかになります。どちらにしても状況によって変わる

基準であり、こんなはずではなかったと後悔する結果をも生じさせます。

 105節。この詩の作者は、自分の人生を振り返って、自分は確実な道を歩んできたと、

その幸いを喜びと感謝とともに長い詩に書き留めています。その喜びと感謝は、天地万物

を創造された神に向けて告白しています。私たちがまず確認したいことは、創造者である

神に対して、この詩の作者は、あなたと、とても親しげに呼びかけていることです。天地

万物を創造された、全知全能の神に対して、恐れて萎縮するのではなく、自分を愛し、自

分に目をかけてくださるお方として、あなたと、親しく呼びかけるのです。

 私たちも、このお方に対して、あなたと呼びかけることができます。自分は神に愛され

ているとの確信によって、私たちの父となられた神は、私を最善の道へ導いてくださると

の安心が与えられているので、そのように呼びかけることができるのです。

 あなたのみことばは、とあります。神の語りかけがあります。愛と恵みに富んでおられ

る私たちの父なる神は、沈黙し、監視し、重箱の隅をつつくように厳しく咎めて、罰する

お方ではありません。私たちに寄り添って、私たちを最善の道へ、最良の歩みができるよ

うに語りかけておられるのです。だからこの詩の作者は、冒頭において、幸いな人生への

招きをします。自分と同じ幸いを味わい、幸いな人生を歩むようにと招くのです。

 1節。幸いなことよと呼びかけます。真に幸いな歩みをする人たちが記されています。

全き道を行く人々です。全き道を行く人々とは、主のみおしえに歩む人々と言い換えられ

ています。それは2節。主のさとしを守る人であり、心を尽くして主を求める人です。

 天地万物の創造者である神、まことの神が真理であり、絶対的な基準を指し示しておら

れます。前提や条件が変わっても、変わらずに通用する基準、真理を私たちに示し、最善

へと導いてくださいます。だから3節。神に聞いて生きる者は、不正を行わず、主の道を

歩みます。この人々は主の道という全き道、決して変わることのない真理の道を生きよう

とし、心を尽くして主のみ教えを歩もうとするので、不正を行わず、真理を歩むので、幸

いであると言われます。自分も幸いな人生を歩み、人々をも幸いに招くのです。

 10~11節。詩の作者は、心を尽くして神を求めました。神の語りかけから迷いでない

ためであり、だからこそ、神のことばを心に蓄えるのです。神の語りかけから迷い出るこ

と、神のことばとは違う道を選ぶことが不幸を生みます。そのような歩みを、聖書は罪で

あるとします。罪とは的外れの状態です。詩の作者は、罪を意識し、自覚するので、神の

ことばを心に蓄え、神のことばを行う歩みをし続けました。

 105節。この詩の作者にとって、神のことばは、人生を歩むともしび、道の光でした。

ともしびに照らされ、その光で一歩一歩を確認しながら歩んできたので、自分の人生に間

違いはなかったと告白するのです。サーチライトではありません。サーチライトは遠くま

で照らし出します。ともしびは違います。サーチライトの光は、遠くを見せますが、足下

を照らすことはしません。遠くまで見えているので、どんどんと先を進みますが、足下に

潜む危険に注意を怠らせることがあり、その危険に適切な対処ができなくなることがあり

ます。これは危機的な状況をはらんでいると言えます。

 ともしびでは遠くまで見えません。しかし足下を照らすには十分です。一歩一歩を確認

しながら進むことを得させます。神のことばはともしびです。神に、神のことばに聞きな

がらの一歩一歩は、間違いのない歩みへと導き、真に幸いな人生を歩ませます。私たちが

先のことを予測して、実施計画を綿密に立てたとしても、その計画の通りに歩める保証は

ありません。その時まで、今の状態が続いているとは限らないですし、何らかのトラブル

に巻き込まれているかもしれません。結果予測そのものが的外れということもあります。

予測通りの結果に辿り着く保証はなにもないのです。

 私たちは先を見通せていると思えても、絶対に大丈夫だと高慢になってはなりません。

旧約聖書の知恵の書、箴言には「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」と

あります。へりくだって神のことばに聞き従い、こんなはずではなかったという結果を招

くことのないようにしたいのです。一歩一歩の確実な歩みの積み重ねが、本当に幸いな人

生であったと振り返ることを得させるのです。

 礼拝招詞で「心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべて

おいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる」と知恵の書から招きのこと

ばが読まれました。みことばの光の中を、一歩一歩進んでいく幸いに招かれています。

 自分を信じて生きることはかっこ良いですよね。自分を信じられないのは、負けを認め

たかのように思います。ただ私たちは、正直に自分を省みることが必要です。自分の判断

を信じて、その結果良かったと思えることも多々ありますが、こんなはずではなかったと

いう結果も多かったと思います。しかもそれは大事にならなかったでしょうか。

 主なる神は私たちを愛しておられます。一人ひとりを、私を、あなたを愛して、最善で

最良の道へと招き続けておられます。その大きな愛は、主イエスの十字架によって明らか

に示されました。神の私への愛は、私のためにいのちを捨てるほどの大きな愛です。私た

ちは多くの間違いや様々の罪を犯してきました。罪を犯した者は、その罪に対する公正な

罰を受けるのが当然です。しかし主なる神は、私たちを愛するがゆえに、その犯した罪を

罰することを先延ばしにされ、赦しを備えて、私たちを救いに招いてくださったのです。

それが主イエスの十字架です。私たちが受けなければならない罪の罰を、主イエスが代わ

りに十字架で受けてくださいました。ここに私たちへの神の愛が示されています。主イエ

スはいのちを捨てるほどの愛で私たちを愛し、私たちを罪からの救いに招いてくださった

のです。私たちはみな、主イエスに愛されています。

 主イエスの十字架で示された神の愛の中で、私たちは、主なる神が最善で、最良の人生

へと私たちを導いてくださると確認できます。私たちがすることは、一歩一歩、みことば

の光に照らされながら、足下を確認して、進んでいくだけです。そこに惑わしはないか、

岐路に立った時、どちらに進めばよいのか、神の導きを確認しながら進むのです。どちら

が主に喜ばれるか、どちらが主は良しとされるか、どちらが主に受け入れられるかを考え

て、正しい道を進むことで、間違いを犯す危険から守られるのです。

 みことばの光は遠くまで見通すことはできません。しかし足下ははっきりと見えます。

だから一歩一歩確認しながら進むことができます。そのようにして歩む人生は、岩の上に

自分の家を建てた賢い人に例えられています。マタイの福音書7章24~25節。振り返って

みると、自分のために用意された恵みと祝福に、まっすぐと歩んできたことを確認するの

です。これほど幸いで、喜ばしい人生はありません。これが神に聞く者に約束されている

人生です。私たちはしっかりとした土台の上に、主イエスとそのことば、神のことばとい

う絶対的な基準の上に自分の人生を建てあげ、どのような嵐に巻き込まれたとしても、決

して揺り動かされない、倒されない生涯を歩むことが約束されています。

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