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2025年3月23日 礼拝「失われた人、見出された人」ルカ 19:1~10

  • hikaruumichurch
  • 3月23日
  • 読了時間: 10分

 今日私たちは、こども賛美で「きみは愛されるために生まれた」を歌います。この賛美

で語りかけられている「きみ」は、すべての人です。すべての人ですから、極悪非道な犯

罪人も、自分は誰にも愛されていないと思い込んでいる人も、もちろんあなたも、愛され

るために生まれた、と語りけられています。創造者である神はあなたを愛しているので、

あなたを救うために、神の御子イエスを地上に遣わし、十字架で死なせました。

 今日の聖書箇所にザアカイという名の人物が登場します。ザアカイは人々から嫌われ、

疎まれていました。それは彼自身が蒔いた種の刈り取りであったのです。そうしてザアカ

イは、自分は誰にも愛されていないと感じていたし、多くの人々も、このザアカイと親し

い関係になるような人はまともではないと見なしていました。しかしその、人々に嫌われ

ているザアカイに、主イエスは語りかけたのです。

 2節。ザアカイは取税人のかしらで、金持ちでした。取税人とは、税金の取り立てをす

る人ですから、人々から嫌われる立場の人だと想像できます。今から2000年ほど前、イ

スラエルはローマ帝国の支配下にありました。そしてローマは、人頭税や通行税などの税

金を取り立てるために徴税請負人が立てたのです。徴税請負人や、その下で実際に集金す

る人々が取税人です。ローマ政府は税金の査定をするだけで、取税人の取り立てには、口

出ししませんでした。ですから取税人は相当の利幅をとって税金を集めて、その差額で私

腹を肥やすことができたのです。そして私腹を肥やすために取税人となり、私腹を肥やす

ことで金持ちになる取税人が多くいました。ザアカイもその一人です。

 ザアカイは不正で得た富を上手に使い、エリコ地区のかなり多くの徴税権、税金を徴収

する権利を買い取り、多くの取税人を使う徴税請負人、取税人のかしらになったのです。

彼はしたたかにふるまって、成功を収めました。しかし取税人となって金儲けをするとい

うことは、同胞に憎まれ、非難されることになります。それなりの権力があるので、面と

向かって非難されることはないけれど、同胞から、汚れた者、強奪者、罪人として扱われ、

心を許して話しあえる相手はいなくなり、同胞との親密な関係という大切なものを失った

のです。ザアカイは金持ちになったけれど、孤独をも引き寄せました。

 1節。イエスと弟子たちの一行がエリコの町を歩いてきました。民衆がそれを取り巻

き、群となって進んでいたのです。

 3節。ザアカイもイエスを見たいと思って駆けつけました。しかし背が低くいザアカイ

は見ることができませんでした。どうにかして前に出ようとするけれど、意地悪されたの

か、群衆に遮られてしまいます。そこで4節。先回りをして、いちじく桑の木に登ってイ

エスを見ようとしたということです。

 私たちが、自分は孤独だなとしみじみと感じるのは、自分は受け入れられていないと思

う時です。私たちは人格を持っています。人格を持っているので、他の人との人格的な深

い関わりを必要としています。だから一見、多くの友人がいるように見え、和気藹々とつ

き合っていても、それが表面的なつきあいであるなら、心は満たされず、孤独を感じるの

です。逆に、誰かひとりでも、自分をよく知っていて、ありのままの自分を受け入れてく

れる相手がいるなら、どのような状況に置かれても、孤独を感じることはありません。

 私たちは心の奥底で、自分を理解してほしい、ありのままの自分を受け入れてほしい、

自分に関心を持ってほしいと願っています。ただそのことに気がつかないほど、忙しく動

き回っていることもあるでしょう。あるいは表面的な付き合いで、自分は理解され、受け

入れられていると錯覚していることもあります。そしてふと、自分は、結局理解されてい

なかった、ありのままの自分として受け入れられていなかった、表面的な自分ではなく、

本当の自分を何も分かってもらえなかったと気づいた時、自分を取り巻く状況は何も変

わっていないのに、突然、孤独感に陥ることもあるのです。

 ザアカイが、自分は孤独だ、孤独だ、と悲嘆に暮れていたとは思えません。しかしその

生涯は、孤独そのものであったと言えます。表面的に関わる人はあっても、彼自身に関心

を持ち、彼自身を理解し、彼をそのまま受け入れ、愛してくれる人はだれもいなかったの

です。ザアカイもまた、自分の回りにいる人を、心を開いて迎えることができませんでし

た。自分に近づいてくるのはみんな、どうせ金目当てだろうとしか考えられなくなってい

たと想像できます。

 皆さまはいかがでしょう。人格的な、深い交流はあるでしょうか。あなたをよく知り、

その上で受け入れ、愛してくれる存在を持っているでしょうか。

 ナザレのイエスがエリコに来たと聞いたザアカイは、イエスを見てみたいと思ったので

す。取税人をも、人々から罪人だと見下されている者をも分け隔てなく関わっているイエ

ス、弟子の中には取税人だった者もいます。いろいろなうわさを聞くイエスとはどういう

人物なのだろうかと、興味津々で、とにかく見てみたいという思いで出かけたのだと想像

できます。私たちも様々な思いや動機で教会に来ました。しかしそれは重要ではありませ

ん。今ここにいる、そして神のことばに触れている、イエスはどなたで、自分とどう関わ

ろうとしておられるのかを知る機会を持っている、その事実が重要です。

 ザアカイは単に好奇心を持っただけだったかもしれません。しかし、もしザアカイが、

この時イエスを見たいと思わなかったなら、彼は今後一切、主イエスとの人格的な関わり

を持つことはできませんでした。というのは、主イエスはこの後十字架につけられ、死ぬ

からです。私たちも今ここにいるということ、神の前に出ているという、その事実を大切

にしたいのです。この時にしか得られない、神の恵みがあります。

 ザアカイは背が低いため何も見えませんでした。それでしかたなく、前方の木に登るこ

とにしたのです。背が低いザアカイでも登れる木、しかも自分の身を隠すことができる、

その絶好の木がいちじく桑の木でした。この木は、低い部分から枝が伸び、しかも葉が生

い茂るので、背の低いザアカイでも登りやすく、身を隠せる絶好の木です。

 いちじく桑の葉の茂みに隠れながら、イエスとその一行が通り過ぎるのを見ていたザア

カイに信じられないことが起こりました。5節。自分の名前が呼ばれたのです。自分のこ

となど知っているはずがないのに、「ザアカイ」と呼びかけられました。これには本当に

驚いたことでしょう。と同時に、心から嬉しかったと思います。一目だけでも見られれば

よいと思っていたのに、その人から名前を呼ばれました。自分は知られている。これほど

嬉しいことはありません。しかも続いて、耳を疑うような語りかけを聞いたのです。「わ

たしは今日、あなたの家に泊まることにしている」と。自分とは無縁で、自分なんか相手

にしてもらえないと思っていたイエスが泊まると言う。彼は初めて、自分を知ってくださ

る方、今の自分をそのまま受け入れてくださる方がいるということを知ったのです。

 その感激、その喜びが6節です。知られている、受け入れられている、関心を持たれて

いると知ることは、私たちを根底から変え、心からの喜びに満たします。愛されている、

受け入れられている、理解されている事実を知るのは何とすばらしいことでしょうか。ザ

アカイは大喜びでイエスを迎えました。そしてザアカイはこの時、自分は、実は孤独だっ

たということを知ったのではないでしょうか。いくらお金がたまっても、どんなに地位が

上がっても、決して満たされなかった彼の心が、ただイエスに愛されていた、イエスとの

人格的な深い交わりができた、そのままの自分が受け入れられているということを知った

時に、溢れ出る喜びに満たされたのです。

 ザアカイの家でどのような会話がなされたのか、聖書は何も記していません。食事をす

るという親密な交わりがなされ、ザアカイは、自分が愛され、受け入れられ、関心を持た

れていることを確認したのでしょう。ただ主イエスと一緒に過ごすという、そのことがど

れほど心を憩わせ、安らかにするかを味わい知ったのではないでしょうか。取税人である

ことを非難されることなく、そのままで愛されるというのは初めての体験でした。

 そしてザアカイの関心ごとが変わりました。彼の価値観が変えられたのです。今までの

関心ごとは金でした。金を蓄えるためには、人が傷つき、倒れても、そんなことはどうで

もよかったのです。自分さえ良ければ、金さえ貯まれば、それで良かったのです。そこに

満足を求めていたからです。しかし主イエスに愛され、受け入れられていると知った時、

お金で得られない、しかももっと大切で、満足できる生き方を見い出したのです。

 8節。今まで集めることだけを考えていた者が、分け与えることを申し出たのです。主

イエスは何も言いませんでした。しかしザアカイは押し出されるように、自発的に施すこ

とを申し出たのです。神に愛されていることを知り、その愛の中に生きる時、人は満足し

ます。心は感謝に溢れ、喜びに満たされます。自分さえ良ければという生き方をやめ、自

分にできることは何かを考え、行動します。ザアカイは自分にできること、まず財産の半

分を貧しい人に施すことを考え、これまで自分が傷つけ、悲しませた人々に償いをする思

いを持ったのです。ザアカイはイエスに愛されたことで満足しました。心を満たす何かを

求める者ではなく、自分にできることを喜んでする者へと変えられたのです。

 主イエスが愛したのは、ザアカイが良い人だったからではありません。彼が施しや償い

を申し出たので、愛されたのでもないのです。イエスが愛されたのは、自分のことしか考

えず、不正をしてでも金儲けをしようとしていた、そのザアカイでした。7節で非難され

ているように、主イエスは、人々から、罪人だと非難され、排除されてきたザアカイを愛

し、ザアカイを受け入れ、ザアカイの心に入ってくださったのです。

 この同じ愛が、あなたにも向けられています。あなたを愛し、あなたを救うために、イ

エス・キリストは十字架で死なれました。あなたが今、どのような状態にあるかは関係あ

りません。主イエスはありのままのあなたを愛し、そのままを受け入れ、あなたを救うた

めに十字架で死なれました。あなたを愛して、罪を赦すために、身代わりとなって十字架

に死に、あなたの代わりに罪の処罰を受けたのです。主イエスは、自分勝手に生きてきた

あなたを愛しておられます。十字架でいのちを捨てるほどの愛で愛しているのです。

 あなたのすることは、ザアカイに倣うことです。素直に主イエスの愛を受け取ればよい

のです。自分のすべてを知り、そのままで受け入れ、理解し、愛してくださる主イエスを

心にお迎えするだけです。その時、喜びに満たされます。感謝が溢れてきます。心が満た

されるのです。そして、不平や不満から解放されます。また悪いことをやめたいと思うよ

うになります。神の前での正しい生き方をしたいと考え始めるのです。これが救いです。

 何かを要求することではなく、自分にできることを考え、それを喜んで行う者に変えら

れます。主イエスの愛で心が満たされ続けます。主イエスが与える救いを、その愛を、自

分のものとして受け取ることで、喜びが得られ、感謝に溢れるのです。主イエスが変えて

くださいます。主イエスは、失われた者を捜して救うために来られたのです。

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