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2025年3月16日 礼拝「恵みによって義と認められる」ローマ3:19~24

  • hikaruumichurch
  • 3月16日
  • 読了時間: 9分

 ローマ人への手紙は、福音は何であるのかを説き明かすために書かれた手紙です。福音

とは御子イエスに関するもので、福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも信じるすべて

の人に救いをもたらす神の力であると宣言します。神の御子イエスを信じる人すべてに、

救いを得させるのです。福音は、主イエスの十字架による、罪の赦しと罪からの救いへの

招きです。その招きに応じる者を神は救うという喜びの良き知らせです。

 神にはえこひいきはありません。初めの契約では、神を信じたことの証として、神のこ

とばを生きることが、神の民となる条件でした。だから神のことばを退ける者は、神の民

とされたにもかかわらず、神の国から除外され、滅ぼされたのです。新しい契約では、神

の御子イエスを信じることが救いの条件です。十字架で差し出された罪の赦しを受け取る

ことで、救いに与ります。これが福音、良き知らせ、喜びの知らせです。

 しかし、福音はそのまま、さばきの宣告でもあります。主イエスを信じる者はすべて救

われます。主イエスを信じない者、十字架の死による罪の赦しを拒む者は、救われずに、

滅びることになります。私たちは福音を正しく理解することが大事です。

 19節。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られています。律法か

ら解放されない限り、人は律法に支配されるのです。律法とは取り決めです。神と神の民

イスラエルとの間の取り決め、契約が律法として定められました。私たちの国は法治国家

です。法が国を、国民を支配しています。国や自治体が定める様々な法律や条例によって

社会秩序が保たれており、法を犯すなら、違反者はその法によってさばかれるのです。

 創造者である神は、私たち人間を神のかたちとして、神の似姿に創造されました。その

特質の一つが、心に定められた道徳的規範です。だから基準の差はあっても、人はみな良

心を備えています。良心とは、道徳的な善悪をわきまえて区別し、正しく行動しようとす

る心の働きです。だから人は、定められた律法や数々の定め、法律、規則に照らして、自

分の言動を振り返り、それらを破るとき、罪責感を覚えるのです。

 正直に自分を見つめるなら、自分は、道徳的規範に反した言動をしていると認めざるを

得ません。だから、すべての口が塞がれて、全世界が神のさばきに服するのです。自分に

正直であるなら、言い訳はできないはずです。罪の事実を認めざるを得ません。

 文字として律法が定められたことで、神の基準がより明確に提示されました。その結果

すべての人は、ユダヤ人も、ユダヤ人でない人も、神の基準に背いていることが、より明

確にされたのです。律法によって人は、罪の現実を突きつけられています。

 20節。人はだれひとり、神の基準を満たすことはできません。律法を、神に満足してい

ただけるほどに行うことができないからです。律法によって示された神の基準を知れば知

るほど、その基準の崇高さを示され、罪の意識が生じるのです。これが神の民イスラエル

の歴史を通して示された、人の罪の現実です。神の民イスラエルは滅ぼされました。

 21節。しかし今、神の御子を信じる信仰による神の義が示されました。初めの契約、律

法とは関わりなく、つまり律法を守ることによってではなく、信仰によって神に義と認め

られる道が開かれたのです。「律法と預言者」とは旧約聖書全体のことです。旧約聖書を

通して証されてきたように、救い主、キリストが遣わされ、キリストを信じる信仰によっ

て神の義が示されたのです。神の義、すなわち、神が義であること、神が義とされること

が義であるということです。「義人は信仰によって生きる」との宣言は、旧約聖書で言わ

れていた神の招きです。預言者ハバククを通して、創造者である神は「正しい人はその信

仰によって生きる」と宣言されたのです。それが22節です。

 イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義ですと

あります。そこに差別はありません。ユダヤ人であっても、ユダヤ人でなくても、私たち

日本人も含めて、イエス・キリストを信じる信仰によって、すべての人を、差別なく、神

は義と認めてくださるのです。

 1章17節で「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませる」とあり

ましたが、神の御子主イエスが人として来られ、十字架で私たちの身代わりとして、罪の

処罰を受けたことで、主イエスを信じるすべての人に神の義が示されたのです。神が義と

されるのは、律法を行う者ではなく、神を信じる者です。そうして新しい契約では、創造

者である神が、人を義と認めるのは、神が人として遣わされた神の御子を救い主として信

じる者であり、主イエスを信じる者が、神を信じる者と認められたのです。さらに、主イ

エスの十字架によって差し出された罪の赦しを受け取る者を、神を信じる者とされたので

す。この福音が全人類に差し出されて、この福音を信じる者が、義と認められるのです。

 23節。すべての人は罪を犯しています。創造者である神を神と認めないことが根源的な

罪であると聖書は指摘します。私たちが罪人であると言われるのは、生まれたときから、

神を知らず、知ろうとしない存在だからです。皆さまは、生まれたときから、創造者であ

る神を自分の神と意識していたでしょうか。誰かに教えられて私たちは、創造者である神

の存在を知らされ、その上で、自分の神とあがめる決断をしました。すべての人は罪人な

ので、地上生涯を歩む中で、様々な具体的な罪を犯しているのです。

 罪の数々が1章29節からに列挙されています。あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、

ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれている。悪口を言い、人を中傷し、神を憎み、

人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知

らずで、無慈悲です。このように列挙されると、自分には全く覚えがないと言い切れる人

は誰もいないのではないでしょうか。程度の差はあれ、何かしらの罪を犯してきたし、今

も引きずったままかもしれません。自分は罪を犯してきたと認めざるを得ないのです。

 すべての人は罪を犯したので、神の栄光を受けることができない。この厳粛な宣言を無

視してはなりません。罪人である。これが私たちの出発点です。つまり罪が赦され、救い

に与るのでなければ、すべての人は滅びに向かっているのです。創造者である神は義の神

です。どんな些細な罪も見過ごしにされることをせず、必ず罰します。しかし義の神は、

愛の愛です。私たち罪人を限りない愛で愛して、罪を赦し、受け入れようとしておられま

す。この神を的確に表す有名な聖書のことばがあります。

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じ

る者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。神は、御子を信

じる者を滅びから救い出し、永遠のいのちをお与えになるのです。神の愛です。しかし神

は、御子を信じない者をすべて、滅びるままに捨て置かれます。神の義です。

 罪人であり、滅びに向かっているすべての人に、神の義が差し出されています。ここに

差別はありません。神にはえこひいきはないからです。ユダヤ人であっても、ユダヤ人で

なくても、すべての人は罪を犯しており、その罪のゆえに滅びに向かっています。私たち

の地上生涯は、滅びに向かっている私たちのための執行猶予期間であり、創造者である神

を信じ、神が差し出された、神に義と認められる招きに応じるための期間でもあります。

 24節。すべての罪人に、神の恵みが注がれています。神の恵みとは、受けるに価しない

者に与えられる神の厚意です。創造者である神は、元々滅ぼされるのが当然であった私た

ち罪人を救おうとされるのですから、これは恵み以外の何ものでもないのです。

 この神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められる

道が差し出されました。これはまさに、一方的な、先行的な神の恵みです。創造者である

神は、神の御子を人として、地上に遣わされました。これは御子イエスの恵みとも言えま

す。神のあり方を捨て、私たちと同じ肉体を取り、人となって、地上に生まれてください

ました。霊の存在ではなくなり、時間と空間の影響を受ける存在となられたのです。あら

ゆるところに同時におられる、遍在という神としての特質を捨てられました。しかも十字

架で死ぬために、罪の贖いの代価となるために、この世に来られたのです。

 贖いとは、代価を払って買い戻すことです。私たちは神のものであったのに、罪のゆえ

に神のものではなくなりました。その私たちを、再びご自分のものとするために、贖いを

したのです。その代価は、キリスト・イエスの十字架で流された血です。罪の贖いは血に

よるというのが、旧約聖書から続く神の救いの方法です。罪の赦しには動物の血が流され

ることが必須でした。しかし動物の血は、全人類のすべての罪を赦すための贖いの代価に

はなりませんでした。そうして神は、神の御子の血を、贖いの代価とされたのです。

 キリスト・イエスの十字架の処刑は終わりました。神の恵み、主イエスの恵みによるこ

とです。全人類の罪の贖いは完了したのです。その贖い、罪の赦しを受け取るか、拒むか

は、私たち人間が決めることです。受け取る者は、御子を信じる者です。拒む者は御子を

信じない者です。信じることに代価は必要ありません。価なしに義と認められるとあると

おりです。神が義であり、神は、神の御子イエスを信じる者を義と認める方なのです。

 福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力

です、とあるとおりです。神が恵みによって、キリスト・イエスの十字架による、罪の赦

しと罪からの救いを差しだしてくださいました。神が私たちを救います。私たちを信仰に

招き、信仰に応じる者を救われるのです。義と認めるとは、無罪の宣告をすることです。

私たちは数々の罪を犯しており、そのゆえにさばきを受け、罰せられて当然なのですが、

それらの罪は全くない、罪を全く犯していないと見なしてくださるのです。主イエスの十

字架の贖いを受け入れる者に、キリスト・イエスを信じる信仰のゆえに、無罪の判決が言

い渡されました。まさしく神の恵みです。感謝を新たにしましょう。

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