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2025年3月2日 礼拝「死後の厳粛な断絶」 ルカ16:19~31

 今日の聖書箇所で、主イエスは二人の人物を登場させ、死と死後について語っておられ

ます。ふたりの人物とは、貧乏人のラザロ、そして名前が伏せられた金持ちです。名前を

伏せたのは配慮のためでしょうか。

主イエスがこの話を語られたきっかけが14~15節です。前回私たちは、主イエスが弟子

たちに語られた、不正な管理人のたとえを確認しました。その結論が13節です。あなたが

たは、神と富とに仕えることはできません。この話を聞いて、金を好むパリサイ人たちが

あざ笑っていたのです。彼らは律法に従って生きていると自負していました。そして金銭

的に豊かな生活をも続けており、実に、神にも富にも仕えることができると考えていたの

で、主イエスをあざ笑ったということです。

 しかし主イエスは、彼らに対する神の評価を宣言されました。人々の前で尊ばれるもの

は、神の前では忌み嫌われると。彼らは神にも仕えていると錯覚していたけれど、富に、

この世の価値観に仕えることで、神を軽んじ、憎んでいたので、神に忌み嫌われました。

 19節。ある金持ちの生活が語られます。神から多くの財産を委ねられていましたが、そ

れらをすべて自分の好き勝手に使って良いと勘違いしていたのです。神から委ねられて物

質的な祝福は、自分のためだけでなく、神のために、人のために用いることが律法で定め

られ、神に期待されていました。しかし彼は、人のことに関心を持つことなく、贅沢三昧

に暮らしていたのです。必要だからではなく、買えるので、高価な衣服をいくつも揃え、

食べ残すことも平気で豪華な食事をして、贅沢に遊び暮していたということです。

 20~21節。ある金持ちの門前に、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝てい

ました。彼の願いは、この金持ちからの憐れみによる施しでした。しかしこの金持ちは、

憐れみの心を全く示さずに、自分を喜ばすことにしか関心がなかったのです。

 22節。このふたりの地上生涯は不公平です。しかしこのふたりには、公平な死が待ち受

けていました。そして死後が描写されます。ラザロは身寄りもなかったでしょう。その亡

骸は町の外のゴミ捨て場に捨てられたと考えられます。金持ちも死にました。大々的な葬

儀が行われ、その亡骸は丁重に葬られたことでしょう。野垂れ死んだラザロは、悲しむ人

もないままこの世を去り、金持ちは多くの人々に見送られてこの世を去っていったと思わ

れます。死でも、葬りでも、雲泥の差があったのです。しかし死そのものは同じです。そ

して地上のものを何一つ持っていくことはできず、裸でこの世を去っていきました。

 23~24節。さて死後です。ある金持ちとラザロはどこにいるのでしょう。主イエスは死

後のふたりの状況を話されました。ラザロは神の使いたちに導かれて、先祖アブラハムの

ふところに、すなわちパラダイスに連れていかれ、そこで慰めを受けています。一方、こ

の金持ちは炎の中、よみ、ハデスで苦しんでいます。

 25節。ある金持ちとアブラハムとの会話から、この違いの理由を分かります。25節を

表面的に読むと、生前に良いものを受けていると死後苦しみを受け、生前悪いものを受け

ていると死後に慰めを受けるようになると誤解します。しかしそれは違います。

 この話の終わりの部分、また聖書全体からも分かることは、問題にされるのは、自分の

置かれた状況でどのように生きたかです。自分に委ねられた人生をどのように生かし、自

分が与えられた物質的な祝福をどのように用いたかが問われています。

 29節。モーセと預言者の言うことを聞く、すなわち旧約聖書、神のことばを聞いて、そ

れを行おうとしたのかが問われているのです。この金持ちも、彼の兄弟たちも、神のこと

ばを無視して生きていました。主なる神をあがめようとせず、神のことばを聞いて、神の

思いを自分の思いとして、神のことばを行おうとは、全く考えませんでした。創造者であ

る神が多くの物質的な富を預けていたのに、助けを必要としている人々の必要を満たすこ

とをせず、自分の楽しみだけに贅沢を続けたのです。ラザロに対しても無関心でした。こ

こに彼の罪が現れています。彼が死後、審きを受け、苦しんでいるのは、金持ちだったか

らではありません。神ご自身を、神のことばを、無視し続けた結果なのです。

 ラザロが慰めを受けたのも、貧乏人だったからではありません。彼は極貧の中でも、そ

こに、ともにおられる神を仰ぎ、神に信頼して生きていました。なぜ自分が貧しさの中に

置かれているのか、その理由は分からなくても、貧困と病苦が、ラザロを創造者である神

から遠ざけることはなかったのです。ラザロは、自分は、この世では旅人であり寄留者で

あると認め、天の御国を自分の故郷として憧れていたので、この世で受ける苦しみ、悩み

が、ラザロから神への信仰を失わせることはなかったということです。

 さて主イエスが語られたある金持ちとラザロを通して、私たちは3つのことを確認しま

す。第一に、肉体の死後も人は存在し続けまです。人は霊的な存在ですから、肉体が朽ち

果てても、私という人格は存在し続けるのです。そして死後、人は慰めを受けるか、苦し

みに会うか、そのどちらかだです。死後、この二つに分かれるのです。

 第二のことは26節。死後の二つの領域は完全に隔絶されており、交流することはできま

せん。完全な断絶です。死後の状態を変えることはできません。死者供養をどれほど熱心

にしても、それは無意味です。セカンドチャンスは残されていません。

 第三のことは31節。死後は、地上での生き方で決まります。創造者である神を自分の神

とあがめ、神に聞いて生きようとしたのか、それとも、結局は自分の考えを神のことばよ

り優先して、自分中心に生きようとしたのか、その選択が死後のあり方を決めるというこ

とです。死んだ後に、どれほど後悔しても、変える機会は与えられません。

 聖書は招きます。あなたの創造者を覚えよと。人は神のかたちとして、神の似姿に造ら

れました。創造者である神に聞いて生きる者として造られたのです。しかし人は、神に聞

くことを拒みました。これが聖書の指摘する罪です。

 私たちもかつては、創造者である神を知らず、知ろうとせず、神に聞いて生きようとは

しませんでした。主イエスを信じる前の私たちはみな、罪人であり、様々な罪のゆえに滅

びに向かっていたのです。この金持ちと同じだったということです。

 しかし創造者である神は、罪人である私たちが滅びることをかわいそうに思い、救いの

道を備えてくださいました。罪の赦しを備えて、私たちを招いてくださったのです。その

ために御子イエスを罪のないお方として、人として地上に誕生させ、地上生涯を歩ませま

した。罪を全く犯すことなく、父なる神のみこころを行い、その上で、十字架で処刑され

たのです。私たち全人類のあらゆる罪をすべて、神の御子イエスに負わせて、私たちの代

わりに、罪の処罰を行ったのです。これが主イエスの十字架刑です。この罪の赦しへの招

きに応じること、悔い改めて、神に聞いて生きようと一歩踏み出すことが救いです。

 キリスト信仰者は、神の招きに応じて、罪の赦しを受けるために、主イエス・キリスト

を信じた者たちです。あの十字架は、私のためであると受け入れ、主イエスを自分の救い

主と信じ、自分の主と仰いだ者たちです。この救いへの招きは、私たちの地上生涯だけに

与えられている神のあわれみのみわざです。死の間際まで招かれているのです。しかし地

上生涯が終わったなら、その機会は完全に閉ざされます。

 人間には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっています。主イエスの十

字架刑の時、ふたりの犯罪人が一緒に処刑されました。その一人は死の間際に、主イエス

を神と認め、自分の救いを求めました。彼が犯した地上でのすべての罪は、主イエスの十

字架刑で赦され、あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいると言われたのです。

 私たちの周りにいる、まだ主イエスを信じることのできていない人々のために、救いを

求めて執り成し祈り続け、十字架による罪の赦しと罪からの救いの福音を、証することが

大事です。救いは主のものです。聖霊が罪を教え、救いを知らせ、主イエスを信じる信仰

を与えます。私たちができることは、執り成し祈ること、自分の救いを証することです。

彼らが、神のことばを聞き、創造者である神を信じ、主イエスの十字架で差し出された罪

の赦しを受け取り、救いに与れるよう、祈り続け、証し続けましょう。死の間際まで神の

招きはあるのですから、私たちも忍耐し、諦めることなく、祈り続け、証し続けましょう。


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