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2025年2月23日 礼拝「人生の嵐の中で」 ルカ8:22~25

 私たちの国日本は、繰り返し自然災害に見舞われています。特に巨大地震に見舞われ、

それまで築き上げてきた町並みが破壊される報道に触れる時に、ことばにならないほどの

衝撃を受けます。でもどこか他人事のように思う自分がいます。去年の正月に能登半島で

大地震が起きました。その復興もままならない中で起きた大洪水による被害、そして今、

その被災地が大雪に覆われています。先週から今冬3度目の最強寒波が来ていて、雪国で

は大雪との戦いが続いています。

 1995年の阪神淡路大震災の時も、2011年の東日本大震災の時も、一週間弱、被災地を

訪れる機会が与えられました。阪神淡路の時は兵庫県の西宮市、東日本の時は宮城県石巻

市と限られた地域での、微々たるボランティアしかできませんでしたが、その破壊の甚大

さに直に触れましたが、それでも被災者の心のうちを知ることはできません。

 私たちは、揺れ動く地に立っている事実に目を背けてはなりません。石垣島に住んでい

ると、猛烈な巨大台風が直撃しない限りは、ほとんど自然災害にあうことはないと思われ

ます。石垣に移住して9年になりますが、平穏無事が当たり前になっています。

 被災者以外の多くの人々は、大震災を自分事として考えることは難しいでしょう。そし

て自分の周りは安全で、いつまでも変わらないと思いながら、物質的な祝福を求め、それ

に依存した生活を築こうとしています。しかし私たちは警告されています。南海トラフ大

地震のこと、首都直下地震や富士山大噴火によって首都圏インフラは破壊され、ライフラ

インはズタズタに寸断されること、それらの影響は、日本全国に及び、大混乱は想像もつ

かないことです。私たちに身近なところでは、沖縄大津波もいつかは分からないけれど、

時が来れば必ず見舞われ、壊滅的な大災害になると警告されています。

 自然災害だけではなく、様々な困難に私たちは見舞われます。病気になります。事故に

巻き込まれることもあります。経済的な破綻を来すかもしれません。様々な困難は避けら

れないと覚悟しておいた方が良いのです。人生を続ける中で、楽しいこと、嬉しいこと、

悲しいこと、辛いことなど、様々な体験をします。痛みを味わいます。どん底に落とされ

ることもあるでしょう。良いことも、悪いことも、いろいろな体験するのです。どのよう

な状況においても、心安らかに生きる。特に人生の嵐の中で、当事者として、冷静に、平

安の中で、一つ一つのことに、適切に対処する。これほどの幸いはありません。

 今日の聖書の箇所で、イエスの弟子たちは死の恐怖を味わいました。22節。主イエスは

弟子たちに、湖の向こう岸に渡ろうと促し、その要請に従ったことが、弟子たちをして、

死ぬほどの恐怖を味わうことになったのです。私たちも、イエス・キリストに従うことを

選んだ結果、とんでもない困難に見舞われることがあるかも知れません。神のことばに従

うことが、平穏無事で、この世的な意味での祝福を保証してはいないからです。ただしそ

の状況の中で、またその結果によって、私たちは、創造者である神の、主イエス・キリス

トの偉大さを、さらに深く味わうことができるということを覚えておきたいのです。

 弟子たちが死の恐怖に見舞われた場所はガリラヤ湖です。弟子たちの多くはガリラヤ湖

での漁師でした。つまり弟子たちにとってガリラヤ湖は、慣れ親しんだ場所です。ガリラ

ヤ湖は、南北に21キロ、東西に12キロほどの縦長の湖で、湖面は地中海よりも200m以上

低い、海面下にある暖かい場所です。周りを山々が囲んでいて、広大な高原から冷たい空

気が吹き下ろしてきます。その冷たい空気と、湖面からの暖かい空気とぶつかりあって、

突然の嵐になることは普通のことでした。元漁師の弟子たちはこれまでも、突然の嵐に何

度も襲われ、その都度、危険を切り抜けてきたはずです。

 23節。主イエスの促しで湖を渡っていた弟子たちを、突風が襲いました。イエスは疲れ

のためでしょうか、ぐっすりと眠っています。元漁師たちはいつものように、彼らの技量

で船を制御できると思い、取り組んだはずです。しかしこの時の嵐は彼らの能力をはるか

に超えていました。弟子たちが経験したこともないほどの嵐であり、今まで味わったこと

のない恐怖に落とされたということです。

 人間は、自分の能力で対処できる問題にぶつかるときには、恐れを感じることなく、冷

静に、適切に対応することができます。そして自信を深めていきます。困難な事態に対処

する能力を大きくして行くわけです。そしてどんな問題に対してもそれなりに対応できる

と自負するようになります。順風満帆と言える人生を送り、ちょっとしたことで挫折して

しまうのは、努力が足りないからだと見下し、豪語するのです。しかし自分の限界を超え

る困難にぶつかるとき、それまで味わったことのない恐怖に襲われ、挫折感を味わい、絶

望して、自分の命を絶つことを考えるまで追い詰められる人もいます。

 この時の弟子たちはまさにそのような状態でした。彼らはどうすることもできない恐怖

に落とされたのです。これまでの経験は全く役に立ちませんでした。彼らの能力では対処

できない大波に翻弄され、死の恐怖に包まれてしまったわけです。ただし彼らには、主イ

エスが共におられたという幸いがあり、主イエスに助けを求めることができました。

 24節。彼らは死んだように眠っているイエスを起こします。プライドも、恥ずかしいと

いう思いもかなぐり捨てて、私たちは死んでしまいますと助けを求めました。これが大事

ですね。私たちには変なプライドがあります。恥ずかしいという思いがあります。それら

が助けを求めることを躊躇させます。そして取り返しのつかない状況まで追いやってしま

うことになるのです。助けが必要なら助けを求めれば良いのです。苦しいなら苦しいと叫

べば良いのです。プライドも恥ずかしいという思いもかなぐり捨てて、助けてほしいと素

直に求めれば良いのです。そのとき助けが与えられます。

 主イエスは起き上がり、風と荒波とを叱りつけました。するとすぐに、風も波も治まっ

たのです。神のことばが発せられると、すべてはその権威に従わせられます。ここに神と

しての権威があります。すべてが神の権威に従うのです。

 25節。主イエスのちょっとがっかりしたことばと、弟子たちの驚きのことばが記されて

います。主イエスが弟子たちに期待されたのは、慌てふためかないことでした。主イエス

が弟子たちに求められたのは、主イエスご自身に対する信頼だったのです。弟子たちはイ

エスとともにいました。しかし自分たちの力でどうすることもできない嵐の中で、恐れお

ののき、慌てふためき、ともにいてくださるお方のゆえの安心を忘れてしまったのです。

 主イエスが弟子たちに語られたことばは、あなたがたの信仰はどこにあるのですか、で

した。これは何を意味しているのでしょう。もっと強い信仰で困難に立ち向かえという激

励でしょうか。どれほど恐ろしくても平静を保てる信心を持てという叱咤でしょうか。そ

うではありません。あなたがたは誰と一緒にいるのかという、弟子たちに与えられている

状態を確認させるためのことばなのです。弟子たちは今まで体験したこともない大嵐とい

う状況に目が奪われ、自分たちとともにいるお方が見えなくなりました。状況に目を奪わ

れると、その状況に翻弄されることになります。私たちにとって大切なことは、ともにい

てくださるお方に目を向けること、そしてそのお方に信頼して、すべてを任せるという信

仰を持つことなのです。強い信仰を持って事にあたるという信仰ではなく、自分とともに

おられるお方に全幅の信頼を寄せるという信仰が大切なのです。

 これまで弟子たちは、力あるわざを通して主イエスの神としての権威を見てきました。

病気を癒す権威を持っていること、悪霊を支配する権威を持っていること、罪を赦す権威

を持っていること、そして権威ある者として神のことばを語ってきたことです。今彼ら

は、主イエスの持つもう一つの権威を見たのです。それは自然界を支配する権威です。自

然界というよりも、被造世界と言った方が理解しやすいでしょう。被造世界、創造者であ

る神が造られた世界です。自然界とは人の手が加わっていない世界という意味ですが、天

地万物すべては創造者である神が造りました。だからすべて存在するものは、創造者であ

る神の支配下にあります。風も波も嵐も、被造世界のすべては創造者である神の御手の中

で保たれています。だからその権威に服従させられるのです。

 私たちが今日の箇所から学ぶことは、人生の嵐の中でこそ、主イエスに対する信頼を深

めるチャンスだということです。自然災害でも、社会的な困難でも、健康的な困難でも、

様々な人生の嵐に見舞われるときにも、いつも、創造者である神は、私たちとともにおら

れる事実を見失わないようにしましょう。平穏無事を願うのは当然ですし、願って良いの

です。ただしそこには、私たちの信仰を停滞させる罠が潜んでいます。平穏無事は主なる

神からの大きな恵みであり、祝福ですが、その恵みであり、祝福が、私たちが主なる神に

頼って生きることの必要を見失わせる落とし穴になるということです。私たちが平々凡々

に過ごせているなら、神への信仰が冷めていても、それなりの信仰生活ができていると錯

覚します。そしていつしか、自分の力で生きてしまうのです。

 私たちが人生の嵐にあうは時、主なる神がともにおられることを再確認するチャンスで

す。創造者である神の私たちへの語りかけは、わたしの目には、あなたは高価で尊い。わ

たしはあなたを愛している、です。主イエスは、私たちに罪の赦しを備えるために、十字

架で身代わりの処罰を受けてくださいました。私たちは十字架を仰ぐとき、いのちを捨て

るほどの愛で愛された主イエスの愛を確認するのです。私たちは主イエスの自分への愛を

忘れてはなりません。十字架で示された救いの恵みに慣れてはならないのです。

 人生には嵐が起こります。その人生の嵐の中で、主イエスをさらに深く味わうことがで

きます。危機的な状況に陥ったなら、その状況に目を奪われて慌てふためくのではなく、

そこに救い主、主イエスがともにおられることを確認するのです。そこで味わっている感

情を、苦しみも、痛みも、悲しみも、そのまま主イエスにぶつけて、助けを求めるのです。

主イエスに対する信頼がぐらついたとしても、主イエスは私たちの助けに応えてくださる

お方です。主イエスは、神としての権威で、適切な助けを与えてくださるのです。

 人生の嵐、危機的な状況も、創造者である神が目的をもって、私たちに備えます。それ

らは、私たちが耐えられる範囲の試練です。すべてを支配しておられる全能の神は、耐え

られる範囲の試練と同時、脱出の道も備えておられるのです。そうして嵐を静められた後

で、私たちの望む結果へと導いてくださるのです。だから詩篇の作者は歌いました。今週

のみことばで招かれています。私たちも心から、告白しましょう。

 主に感謝せよ。その恵みのゆえに。人の子らへの奇しいみわざのゆえに。


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