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2025年2月9日 礼拝「キリストが賜物を分ける」 エペソ4:7~12

 キリストは教会のかしらであり、教会はキリストのからだである。これが聖書の宣言で

す。1章22~23節。創造者である神は、私たちキリスト信仰者を、この世から取り出し、

全く新しい共同体の一員として集められました。その新しい共同体が、キリストをかしら

とするキリストのからだであり、それが教会です。かしらであるキリストの下にキリスト

信仰者は集められ、一人ひとりがキリストのからだである教会の一員とされたのです。こ

の関係を、キリスト信仰者は同意するのです。

 前回私たちは、キリスト信仰者は、教会にある御霊による一致を熱心に保ちなさいと命

じられていることを確認しました。教会にある一致、キリスト信仰者が熱心に保つ御霊に

よる一致は、4章4~6節に列挙された7つの「一つ」に基づいています。召しの望み、

からだ、御霊、主、信仰、バプテスマ、父なる神は一つであることに同意する一致であり、

これら以外の違いは、互いに認め合い、受け入れ合うことが求められています。逆に言う

なら、この7つの「一つ」に同意できない者たちと一致してはならないということです。

 7節。しかし、です。キリストをかしらとするキリストのからだである教会は一つです

が、キリストのからだの各器官を構成するキリスト信仰者たちは多種多様です。かしらで

あるキリストが一人ひとりに、賜物の量りにしたがって恵みを与えられたからです。私た

ちのからだには多種多様な器官があって、それらが有機的に関わり合って、バランスのと

れた歩みをしているように、キリストのからだを構成する多種多様なキリスト信仰者が有

機的に関わり合って、教会は様々な神の働きに用いられるのです。

 創造者である神が私たち一人ひとりを固有な存在として千差万別に造られたので、キリ

スト信仰者も千差万別です。一人ひとりはそれぞれに、特有の持ち味を備えているキリス

ト信仰者ですから、互いに違っているのが前提です。その互いの違いが認められ、受け入

れられ、活かされていくときに、キリストのからだである神の教会は豊かな多様性を備え

ることになり、神の栄光を豊かに現す教会として整えられ、用いられていきます。多種多

様なキリスト信仰者が結び合わされ、組み合わされて構成される神の教会の醍醐味です。

 さて2章1~3節。私たちは、自分の背きと罪との中に死んでいた者、と言われていま

す。罪に支配され、罪の奴隷とされていたと言われたのです。自分では正しいと分かって

いても、その正しさを行えない自分がいました。自分では悪いと分かっていても、その悪

を行う自分がいました。止めなければならないと思い、決断はしても、また行ってしまう

自分がいたのです。まさに罪に支配され、罪の奴隷状態です。そのような私たち、罪の影

響を引きずっている私たちが、罪から離れることを得させたのは、救い主主イエスととも

に歩み続けたいと願ったからです。その状態を維持させるのは、キリストを自分のかしら

として仰ぎ、主のしもべとして従う一歩一歩を歩み続ける以外にはないのです。

 4章9~10節。主イエスが教会のかしら、私たちキリスト信仰者のかしらとなるための

みわざです。キリストは高い所に上られました。1章20~22節と同じです。死者の中から

復活し、父なる神の右の座に着座されたキリストはいっさいのものの上に主権者として君

臨しておられます。この事実を私たちが認めるか認めないかに関わらず、キリストはいっ

さいのものの上に立つかしらとなり、神はこのお方を教会のかしらとしてお与えになった

のです。そして23節で、キリストと教会の関係が記されました。

 4章9節。キリストは天よりも高く上られる前に、低い所、地上に降りました。これは

神であるお方が、肉体を取って人となられたこと、しかも人の世界の最も低い立場に自分

を置かれたということです。キリストは自分を遜らせ、最も卑しい状態にまで自分を低め

てくださって、私たちの罪の贖いとなられたのです。ピリピ2:6~11に、キリストの遜

りとその後の高挙について記されています。

 6~8節。神そのものであるお方、キリストが神のあり方、霊であることを捨てて、肉

体を取られ、私たちと同じ人間となり、この地上に生まれました。クリスマスです。この

地上の最も低い立場にまで自分を低め、仕える者の姿を取られたのです。そして私たちを

罪と滅びから救うために、神の救いの計画、十字架の死にまでも従われました。私たちは

真の謙遜をキリスト・イエスに見、そして主イエスから真の謙遜を倣うのです。ペテロは

勧めました。神の力強い御手の下にへりくだりなさいと。そうすると神は、ちょうど良い

時に、へりくだる者を高く上げてくださるのです。それが9~11節です。キリストは、す

べてのものの主権者となられました。父なる神が主イエスを高くしたのです。

 エペソ人への手紙4章8節。彼、キリストは多くの捕虜を連れて行きました。悪魔、サ

タンの支配下にあった私たちは、今、キリスト、主イエスの捕虜とされています。捕虜な

ど嫌だと思います。しかし私たちを捕虜とされた新しい主人が、愛に満ち、恵みに溢れ、

いつくしみに富んでおられるなら、その方の捕虜であること、その方の奴隷として留まる

ことを、心から喜ぶのではないでしょうか。十字架でいのちを捨てるほどの愛で愛されて

いることを、私たちキリスト信仰者は体験的に知っています。

 パウロは4章1節で、主の囚人である私は、と主の囚人、捕虜とされたことを心から喜

び、それを誇りとしています。罪の奴隷状態にあった私たち罪人は、暗やみの圧政の下に

隷属させられていました。しかし今は、愛する御子のご支配の中に移されたのです。パウ

ロがコロサイ人への手紙1章に書き送ったとおりです。暗やみの圧政の下に置かれるの

と、愛する御子のご支配の中に移されるのと、どちらを望むでしょうか。

 2章2~3節で指摘されたように、主イエスを信じる前の私たちは、この世の流れに従

い、空中の権威を持つ支配者、悪魔と悪霊に従わせられていました。私たちは、何かの奴

隷、何かに隷属させられる存在なのです。主イエスを自分の主人にするのでなければ、暗

やみの圧政の下に隷属されられるということです。

 ですから私たちは、主イエスを自分の主として崇め、主に聞き従って生きる者とされた

ことを喜びとし、誇りとしましょう。私たちが主とすべきお方はただ一人、教会のかしら

となられた主イエスだけです。そして私たち一人ひとりは、キリストの賜物の量りにした

がって恵みを与えられました。教会のかしらであるキリストが、キリストのからだを構成

するために召し集め、からだの各器官とされた私たち一人ひとりに賜物の量りにしたがっ

て恵みを与えられたのです。神である主からの一方的な恵みです。

 私たちは、自分にできること、自分が持っているものは、かしらであるキリストの恵み

であると自覚して、それを感謝し、喜んで、かしらであるキリストのために活用します。

他の人と比較して、優越感に浸ったり、劣等感に苛まれたりしてはなりません。私の弱さ

はみなさんの強さに助けられるためにあり、私の欠けは、みなさんの豊かさで補われるた

めにあります。自分にできることを、からだのために活用し、自分が持っているもので、

からだの欠けを補うのです。からだのために与えられた恵みであり、賜物です。

 かしらであるキリストがその主権によって、ご自分のからだを構成する各器官、神の教

会を建て上げるための各部分、私たちキリスト信仰者一人ひとりに、賜物の量りにした

がって恵みを与えられました。まずこの事実を確認し、同意して、互いに愛し合い、仕え

合い、補い合い、生かし合い、助け合いましょう。私たちは千差万別であり、その持ち味、

賜物は多種多様です。それを生かし合って、キリストのからだを建てあげるのが、召され

た私たちが、その召しにふさわしく歩むことです。

 11節。この段落では、特にみことばに仕える働き、賜物を取り上げています。現在の教

会にも存在する伝道者、牧師また教師と言われる働き人は、キリストご自身が分け与えら

れた賜物の一つであり、みことばを語らせるために立てられた働き人です。

 その直接の目的が12節です。この12節は、牧師にとって、自分に都合の良いように使え

る箇所の一つでもあります。11~12節全体の主語は、キリストご自身が、です。伝道者た

ちが聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせるのではありません。キリストご自身が聖徒たち

を整えて奉仕の働きをさせるのであって、そのために神のことばを神のことばとして伝え

るのがみことばに仕える奉仕者たちなのです。これをはき違えて、牧師や伝道者が、独自

の教会を建て上げるために、聖徒たちを整えて、奉仕の働きをさせようとすることで、キ

リストのからだではなく、その牧師の教会を建て上げるという間違いを犯すのです。

 キリストがご自分のからだである教会を、みことばによって健全に成長させ、愛のうち

に建てるために、みことばの奉仕者を立てました。だから教会は、みことばに仕える働き

人のために祈り支える必要があります。神のことばが神のことばとして語られるように執

り成し祈り支えるのです。神のことばが神のことばとして語られることなしに、教会がキ

リストのからだとしてふさわしい、健全な成長を遂げることはないからです。

 16節が、建て上げられていく教会の姿です。キリストによって、からだ全体は、あらゆ

る節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働

くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。どうか私のために、私が

神のことばを神のことばとしてまっすぐ取り次げるよう、祈り支えてください。


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