2025年2月2日 礼拝「世の富にも忠実であれ」ルカ16:1~13
- hikaruumichurch
- 2月2日
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十字架で死ぬためにエルサレムに向かっている主イエスを、ルカが独自の視点で記録し
ている箇所を読み進めて16回目となりました。今日の箇所に記されている、主イエスが語
られたたとえは、一見、主イエスは不正を推奨しているのかと見誤る箇所です。しかし不
正を推奨しているのではないことはもちろんのこと、世の富に対しても、私たちキリスト
信仰者がどのように向き合うべきかを教えておられます。確認していきましょう。
私たちが主イエスのたとえから学ぶ時の大切な点は、主題は何かを押さえることです。
登場人物やたとえで用いられているすべてに意味づけしようとすると、その主題、つまり
何のために語られたかという目的がぼやけてしまいます。ですから事細かに、これは何が
例えられているかなど、無理に当てはめてはなりません。
今日の箇所で、主イエスは、この世の富を悪賢く使うことを推奨していると受け取るな
ら、それは本末転倒です。聖書の基準は変わりません。申命記25章15~16節で神は言わ
れました。「あなたには、完全で正しい重り石と、完全で正しい升がなければならない。
あなたの神、主があなたに与えようとしておられるその土地で、あなたの日々が長く続く
ようにためである。こう言うのは、このようなことをして不正を行う者すべてを、あなた
の神、主が忌み嫌われるからである。」神は、不正を行う者を、忌み嫌われるのです。
このたとえの結論は13節です。私たちは、富に仕えてはならず、神に仕えるようにと招
かれています。不正をしてでも、この世の富を活用すべきだと受け取るなら、神を軽んじ
ることになります。私たちは、神と富とに仕えることはできません。この世の富を活用す
るのも、主なる神のご主権の下で、主が良しとされる用い方、主が喜ばれ、主に受け入れ
られる、正しい用い方をするための賢さが求められます。知恵を神に求めましょう。
1節。このたとえの対象は弟子たちです。つまり私たちキリスト信仰者に向けて語られ
ているのです。ある金持ちの財産を、管理人が無駄遣いしていました。
2節。主人は管理人に、会計の報告をするようにと命じ、その上で解雇することにした
のです。3~4節。この管理人のことばです。彼は考えます。どうしたら自分を迎えてく
れる人を作ることができるかと。そうして彼は5~7節の行動を起こすのです。
この管理人の行動は、神の律法を知らないなら、当然、主人の財産の不正使用、特別背
任であり、処罰されます。しかし8節。主人は、この管理人の行動をほめました。処罰す
る気配は全くありません。なぜでしょう。
油はオリーブ油と考えられます。オリーブも、小麦も、農産物ですから、収穫量は天候
に左右されます。それで当時は、貸主は借主に対して、利息をつけて貸していました。し
かし神が定めた律法では、同胞には利息を取って貸すことが禁じられています。しかしこ
の金持ちは相当の利幅を取って貸していたのです。申命記23章19節で、次のように定めら
れています。「金銭の利息であれ食物の利息であれ、すべて利息をつけて貸すことのでき
るものの利息を、あなたの同胞から取ってはならない」と。異国人からは利息を取っても
良いけれど、同国民から利息を取ることは禁じられていたのです。
この金持ちが定めていた利息は、油には100%、小麦には25%でした。ここでは油と小
麦が代表として話されましたが、この管理人は同様の提言をいろいろな債務者にしたと考
えられます。油の利息が100%なので、百を五十と書き換えさせ、小麦の利息は25%なの
で、八十に書き換えさせたのです。つまり利息をなしにしたということです。この管理人
は、律法の規定にしたがって行ったので、その賢さをほめたのです。無駄遣いは不正なの
で解雇されるのは当然ですが、証文の書き換えは律法の規定に基づいており、神の前に正
しい行為であるということです。この管理人は、債務者に恩を売ることで、自分を迎え入
れてくれる人を作ろうとしました。そのやり方を主人は賢いと評価されたのです。
9節のことばは、10~13節がなければ、私たちを誤解させ、この世で悪賢く行動する
ようにと誤った認識を持たせます。主イエスは弟子たちに、つまり私たちキリスト信仰者
に命じておられます。不正の富で、自分のために友を作りなさいと。
11節で、不正の富に対比されて、まことの富が語られます。神から委ねられたと自覚す
る富をまことの富、神から委ねられたとは認めず、自分の力で手にしたと考えている富を
不正の富とすることができます。不正の富は、この世の富と言い換えられます。私たちキ
リスト信仰者はこの世の富、神を知らず、神を認めない人々が作り出す社会の富の中で生
きています。そのこの世の富に対しても忠実であることが求められるのです。
この不正な管理人の無駄遣いが発覚して、解雇されることは当然です。しかし彼は、主
人の商取引において、神の律法に則って不正をせずに、主人の富を活用して、自分を迎え
てくれる友を作ろうとしました。その賢さがほめられたのです。私たちキリスト信仰者に
も、この世の子らのような賢さを身に付けるように招かれています。主イエスは別の箇所
で、蛇のように聡く、鳩のように素直でありなさいと命じていますが、この世の人々に引
けを取らない、神に受け入れられる、真の賢さを身に付けることが大事です。
キリスト信仰者は、この世での不正は許されていません。この世の富を不正に使う悪賢
さは禁じられているのです。肝に銘じておきましょう。その上で9節以降を見ます。
9節。不正の富で、自分のために友を作れとあります。この人たちは、私たちを永遠の
住まいに迎えてくれるのですから、キリスト信仰者と言えます。つまり私たちに、主イエ
スが期待しておられるのは、この世の富を正しく、賢く用いて、キリスト信仰の友を作る
ことです。すでにキリスト信仰者である友を作ることと同時に、今はまだキリスト信仰者
ではない人たちが、キリスト信仰者となるためにも使うということです。この世の富がな
くなったときとは、物質的な富を失ったときであり、この世を去るときとも言えます。私
たちはこの世の富に未練を残すのではなく、永遠の住まいへと向かっているのです。
10節。みなさまの日々の営みにおいて、忠実に行おうとしていること、忠実には行って
いないことがあるでしょうか。その違いは何でしょう。人の目を気にしていて、人からの
評価を得ようとしているなら、人に見られていないこと、人からの評価が期待できないこ
と、人の評価はどうでもよいことに対しては、忠実でなくてもよいとするでしょうか。
主イエスは私たちを招きます。最も小さなこと、取るに足りない、誰にも見られていな
い、誰からも評価されないと思えることに対しても、忠実であれと。それは主なる神が見
ておられ、主なる神が評価されるからです。最も小さなことに不忠実な人は、大きなこと
にも不忠実です。最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実です。私たちは何を
するにも、主に対してするように、心を込めて、忠実に、誠実に行うことが大切です。
11節。この世の富についても同じで、主に委ねられたものですから、忠実に、誠実に、
主に喜ばれるにふさわしく、正しく活用することが大事です。そういう人に、主はまこと
の富、さらに多くの、主が委ねてくださる富を任されるのです。
12節。11節の言い換えです。不正の富、この世の富が、他人のもの、まことの富が、キ
リスト信仰者である私たち自身のものと言い換えられています。主なる神が私たちに、私
たち自身のものとして、まことの富を任せてくださると言うのです。楽しみですね。
13節。私たちは二人の主人に仕えることはできません。神にも、富にも、同時に仕える
ことはできないのです。富に仕える、富を重んじる、この世を重んじるなら、神を軽んじ
ることになります。富を愛する、この世を愛するなら、神を憎むことになります。主イエ
スを信じて、主なる神を自分の神とした私たちは、この世のものではなくなったのですか
ら、神を愛し、神を重んじるキリスト信仰者であると自覚し、そう生きるのです。
このたとえの不正な管理人が、後に行ったこと、この世の富を、神の基準で正しく用い
ることで、主人にほめられたように、私たちもこの世の富を、神の前に正しく用いて、主
なる神にほめられたいのです。いつも、神に仕える、神を愛することを意識する歩みを進
めましょう。




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