2025年1月26日 礼拝「神のことばに素直に応じるとき」列王記Ⅱ5:8~14
- hikaruumichurch
- 1月26日
- 読了時間: 10分
私たちは、神のことばは生きていて、力がある、との聖書の宣言を知っています。創造
者である神は全能の神であり、その大能の力で私たちを生かす方であることも知っていま
す。神は生きていて、力がある方であるから、神のことばは生きていて、私たちを生かす
力があるのです。この知識は、実際に味わうのでなければ、何の役にも立ちません。
今日私たちは、神の民として選ばれたユダヤ人ではない、アラム人ナアマンが、神のこ
とばに従った結果、神のことばの力、神ご自身の力を体験した出来事を確認します。そう
して私たちも、神のことばの力を体験的に知るために、神のことばに従い、神の大能の力
を体験的に味わい知る信仰者となるよう、霊的成長を遂げたいのです。
1節で、ナアマンの人となりが分かります。人格的にすぐれ、戦いでも大勝利を収める
勇士、有能な軍の長、人々からの信望も篤いナアマンは、肉体に大きな問題を抱えていま
した。不治の病である、ツァラアトに冒されていたのです。ツァラアトは、旧約聖書のレ
ビ記13~14章などで規定されています。ツァラアトは衣服にも、家の壁にも患部として発
症します。詳細の分からない病気で、宗教的に汚れとして扱われます。新改訳聖書のあと
がきでツァラアトと訳したことについて解説がありますので、ご参照ください。
ツァラアトに冒されているという現実が、すべての称賛を打ち消してあまりある苦悩と
絶望のどん底にナアマンを突き落としたのです。そのナアマンに希望が与えられます。
3節。一人の若い娘の証言です。イスラエルのサマリヤにいる預言者ならば、ツァラア
トを治すことができると伝えられたのです。ナアマンは希望に燃えました。
5節。ナアマンの意気込みが伝わります。銀を約340kg、金を約70kg、そして晴れ着10
着と膨大な土産の品を携えて出かけました。病気を絶対に治してもらいたいとの強い願い
と期待の大きさが感じられます。そして預言者エリシャの家に着きました。
9~10節。預言者エリシャの対応です。アラムでは一目も二目も置かれる軍の長で数々
の功績を残しています。そのようなナアマンが、病気を癒してもらうために、最大限の丁
重さで、自分を低めて、出かけてきたのです。それなのに、預言者は自分は出てこずに、
使いの者に伝言させたのです。ヨルダン川に七回、身を浸して洗えと。ナアマンは、これ
ほど無礼な対応を受けたことはなかったのではないかと思われます。
11節。ナアマンは怒りました。激怒するのは当然です。期待は完全に裏切られました。
希望は失望に終わり、怒りに満たされたのです。ナアマンには、自分なりの思い、考えが
あります。自分は有能だと自負し、自分のしてきたことに自信を持っている人ほど、自分
の考えや基準に固執し、人に押しつけます。自分の考えと合わなければ、端から否定し、
退けます。私たちも気をつけましょう。自分の基準や成功体験に固執してはなりません。
12節。自分たちの優位性に固執する結果、憤って帰途についたのです。なぜエリシャは
このような対応をしたのでしょうか。ここに私たちも知らなければならない道理がありま
す。預言者は神のことばを預かって語るのが職務です。自分の思いや考えを語るのではあ
りません。神のことばを語り、神のことばに従うようにと招くのです。自分が癒やしのわ
ざの主体者ではありません。自分は神のみわざの器に過ぎないということです。
エリシャの無礼とも言える対応は、神である主が病気を治すお方であると示すことにあ
ります。癒しは、神のことばを神のことばとして受け入れ、従うことで得られるのです。
だからエリシャはナアマンの前に出ませんでした。神のことばを伝えたのです。その神で
ある主のことばにどう応じるか、それを決めるのはナアマンです。神のことばだからと素
直に従うのか、それとも自分の基準に合わないから拒むのか、二者択一です。
13節。ナアマンが幸いであったのは、すばらしい部下がいたことでした。また耳を傾け
る度量を持っていたことです。良い部下を持つことも、ナアマンの人となりのなせる結果
です。完全に怒った主人に、率直に進言できる部下を持てたことが幸いでした。
ここに、私たちが陥りやすい誤りが指摘されています。無理難題が課せれると、それを
行うなら、それ相応の御利益が得られると考えるのは当然です。多額のお布施をしたなら
それだけの見返りがあると思います。難行苦行をするなら、それに見合った彼岸に達する
ことができると考えます。そのようにして、無理難題に応じようとするのです。それをす
ることができるという肉の頑張り、自尊心がくすぐられて、実行します。
しもべたちはナアマンに、あの預言者が、難しいことをあなたに命じたとしたら、あな
たはきっとそれをなさったのではありませんか、と語りました。ナアマンほどの人物は、
難しいことを要求されればされるほど、一所懸命になって、それに応えようとし、そして
ある程度のことはできてしまうのです。しかしそれは、神の恵みに与ることにはなりませ
ん。それは恵みではなく、それを行った者が当然受けとる報い、報酬です。
14節。ナアマンはしもべたちの進言によって、冷静さを取り戻しました。聞く耳を持つ
者の幸いです。そして預言者が語った人間のことばにではなく、預言者を通して語られた
神のことばに従うのです。ダメ元で良いのです。やってみなければ結果は出ません。神が
語られたことは必ず実現します。主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は幸
いですと、エリサベツはマリアに語りました。まさに、その通りです。
信じるとは信頼することです。主によって語られたことが馬鹿げているように感じられ
るかもしれません。とても信じられないと思うこともあります。しかしそれを語られたお
方は創造者であり、全能の神だから、その通りになると思い直し、神のことばにかけてみ
るのです。ナアマンは部下の進言を受けて、ダメ元でヨルダン川に行き、からだを浸しま
した。6度までは、何も変わりませんでした。皆さまは、何度まで繰り返すでしょうか。
どこで止めてしまうでしょうか。ナアマンは最後まで、預言者によって語られた神のこと
ばにかけました。真実な神は、約束を違える方ではありません。約束は必ず守り、実行な
さるのです。神のことばに自分を合わせた結果は、神の約束の通り、現実になるのです。
ナアマンが7度身を浸した時、幼子の身体のようになり、完全に癒されました。
私たちも、ナアマンの信仰姿勢を学びましょう。私たちも主イエスのもとに、神のもと
に来ました。そこで差し出される招きのことばが、自分の考えや願っていることと違うと
しても、退けてはなりません。神のことばは、ダメ元でやってみる価値があります。ダメ
元であったとしても、神のことばに応じるなら、そのことばの通りに実現するのです。
ナアマンは、ツァラアトという不治の病の癒しを通して、生けるまことの神を見出しま
した。15節。イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知り、17節。主
以外のほかの神々にいけにえを献げませんと告白したのです。預言者を通して語られた、
神のことばに自分を合わせて従って結果、生きて働かれる神の御力を体験的に知ったから
です。まことの神が分かると、それまで神としてきたものは代用品であったと悟ります。
そして本物が分かった時点で、代用品は不要となるのです。
病気の癒しはすばらしい恵みの体験です。しかしまた病気になります。問題が解決され
ることも嬉しい出来事です。しかし別の問題が起こります。地上生涯が続く限り、私たち
は繰り返し病気になり、様々な問題にぶつかるのです。罪が蔓延している社会ですから、
肉体的にも、精神的にも、経済的にも、社会的にも、様々な深刻な病気や解決不能と思わ
れる問題に襲われることがあり、その直中で、心配や不安に心が乱されます。しかし創造
者である神とともに歩んでいるなら、どのような状況に置かれたとしても、そこに主なる
神はおられ、事を最善へと導いてくださっていると確認できるのです。
私たちにとって、人間の力では決して解決することのできない問題は、罪とその結果と
しての死です。死はすべての人に公平に臨みます。地上生涯がどうであったか、成功した
か失敗に終わったか、に関わりなく、すべての人に終わりが来るのです。この死に対して
解決が得られているなら幸いです。死の恐怖は取り除けられているでしょうか。
罪の報酬は死ですと、聖書は宣告します。死をもたらしたのは罪です。そして罪とは、
創造者である神と無関係に生きる、そのあり方であり、それは的はずれの状態だと聖書は
指摘するのです。自分では計画を綿密に立てて事を始めたのに、こんなはずではなかった
となるのは、的を外しているからです。創造者である神の絶対的な基準ではなく、この世
や、人々が作り上げた相対的な基準で考え、計画し、実行するので、条件や前提など状況
が変われば、計画の通りに事が進まないのは当然です。さらに人は罪人となったので、
様々な具体的な罪を犯しています。罪とその結果としての死に解決を得ているなら、私た
ちの地上生涯は、置かれた状況に関わりなく希望と平安に満たされるのです。
キリスト教会は、イエス・キリストとその十字架の死、そして復活を伝えています。今
から2000年ほど前ローマ帝国で、イエス・キリストは重罪人が処刑される極刑、十字架
刑で処刑されました。この十字架刑は、全人類に罪の赦しを備えるための身代わりの処罰
でした。罪の報酬は死ですと、公正な義の神は、その大小に関わりなく、どんな罪も見過
ごしにはせず、必ず罰します。しかし愛である神は、様々な罪を犯している私たち罪人を
愛して、罪からの救いを備えてくださったのです。それが主イエス・キリストの十字架で
の処罰です。全人類が犯した、あなたが、私が犯したあらゆる罪のすべてを、イエス・キ
リストに負わせて、十字架刑で代わりに処罰して、全人類に、私たち一人一人に、私に、
あなたに、罪の赦しを備えてくださったのです。
この十字架で死なれたイエス・キリストを自分の救い主と信じ、十字架の身代わりの処
罰は自分のためであったと信じるなら、あなたは罪の赦しを受けます。赦しとは、なかっ
たことにする、罪を犯さなかったと見なすということです。神に義と認められる、すなわ
ち神が、無罪の宣告をするのです。罪の報酬は死です。しかしと神のことばは続きます。
しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちですと。自分は罪人
であると認め、罪を悔い改めて、十字架による罪の赦しを受け取るとき、主キリスト・イ
エスにある永遠のいのちをも受け取ることになるのです。
永遠のいのちを受け取った者は、死は永遠への門口となったので、死の恐怖から解放さ
れ、希望が与えられます。地上生涯が続く限り、様々な問題は繰り返し起こります。しか
しその問題をも、全能の神が解決へと導いてくださいます。神のことばは生きていて、力
があります。それは神が全能の神だからです。その大能の力を味わえるのは、神のことば
に素直に応じる者だけです。ダメ元で、良いのです。神のことばに自分を合わせて、一歩
踏み出すことが大事です。
罪と死に解決が与えられたなら、その他の問題は大したことではなくなります。そうは
思わないでしょうか。罪と死から救ってくださった神は、すべての問題からも救ってくだ
さいます。主イエスを信じ、神のことばに自分を合わせ、主なる神とともに歩む。私たち
は神と神のことばのいのち、力を味わう歩みをするだけです。




コメント