2025年1月19日 礼拝「心の割礼を求める」 ローマ2:17~29
- hikaruumichurch
- 1月19日
- 読了時間: 10分
11節でパウロは、神にはえこひいきがないとしました。ユダヤ人だから、神の恵みに与
れ、ユダヤ人ではないから、神の恵みに与れないとの区別はありません。創造者である神
は私たち人間を、ご自分のかたちとして、ご自分の似姿に造られたのであり、すべての人
に変わりなく、わたしの目にはあなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛していると招き
続けておられます。神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおら
れるのですが、罪を認めず、頑なに悔い改めを拒む者を処罰する義の神でもあります。
さて、今日の箇所、17節。あなたが自らユダヤ人と称し、と語りかけますから、ここで
パウロは、ローマにあるキリスト教会の中にいる、ユダヤ人キリスト信仰者に焦点を合わ
せて書き送っていることが分かります。そうしてパウロは、ユダヤ人キリスト者の問題を
引き合いにして、すべてのキリスト信仰者にも考えさせようとするのです。
17~20節。ユダヤ人キリスト者が誇りにしていることを確認させます。彼らは律法を頼
みとし、神を誇り、みこころを知り、律法から教えられて、大切なことをわきまえ、律法
のうちに具体的に示された知識と真理を持っていて、目の見えない人の案内人、闇の中に
いる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自負していたのです。
多くのユダヤ人たちは、自分は神に選ばれた特別な民であるとして、ユダヤ人であるこ
とそれ自体を誇りとしていました、そうして、ユダヤ人ではない人たちを、ユダヤ人では
ないということのゆえに、見下していたのです。ユダヤ人たちには律法が与えられ、神の
基準を知っています。神のみこころが何であるかを知り、律法から教えられて、大切なこ
とをわきまえていると思っています。彼らは神の律法を与えられ、教えられているので、
知識としては知っています。しかしそれらが実生活に活かされていないとパウロは指摘す
るのです。彼らのユダヤ人としての知識は、実生活に何の益も及ぼしていませんでした。
21~23節。他人を教えることはできます。教えとして伝えることはできるのです。しか
し当の本人は学びません。学ぼうとしないのです。盗むなと説きます。しかし自分は盗ん
でいることに気がついていません。神のことばを神のことばとして聞かないで、人のこと
ばとして聞き、自分なりの基準で受けとめ、分かったつもりとなっている。だから盗むな
と人に説いても、自分は盗んでいても、盗んでいると自覚していないことがるのです。人
のものを借りたままになっている。これは人のものを盗んでいることです。約束の時間を
守らずに、人を待たせるのに平気である。その人の時間を盗んでいることです。その他、
いろいろと探っていくと、人のものを盗んでいることがあるのではないでしょうか。自分
の都合を優先することで、他者に損失を与えていることもあるのです。
パウロは、律法を誇りとするあなたは、律法に違反することで、神を侮っているのです
と指摘しますが、これらはユダ人であることを誇りとし、律法を誇り、神の民であること
を誇りとしながら、律法に違反し、神を侮っているユダヤ人を断罪するとともに、すべて
のキリスト信仰者にも、同じことを行っているのではないかと問いかけているのです。
初代教会の時代、ユダヤ人キリスト信仰者の中には、なおもユダヤ人であることを誇り
とする人々がいました。そうしてユダヤ人ではない異邦人に対して、主イエスを信じるだ
けでは救いは完全でなく、ユダヤ人のようになる必要があると主張したのです。そのよう
なユダヤ人キリスト信仰者に対して、ユダヤ人であることそれ自体に誇りとするものは何
も無いことを、パウロは確認させようとしたのです。
24節。旧約の神の民イスラエルの言動が、すべての民の祝福となるのではなく、神の御
名は汚されているとの預言者のことばを引用して、パウロはユダヤ人が神の民として選ば
れた目的は何かを問いかけます。そうしてユダヤ人たちが、本来の神の民としての存在意
義から遠く離れたのかを確認させるのです。24節の引用は、預言者エゼキエルが、捕囚と
して連れて行かれたバビロンの地で、神の民イスラエルに告げたことばです。
25節。ユダヤ人にとって神の律法を行うことが、神の民となる契約の条件でした。そう
して神の律法を行う信仰の応答として、割礼が定められたのです。大事なのは割礼を受け
たことではなく、神の律法を行っていることです。割礼を受けて神との契約を結び、神の
民となったのは、神の律法を行い、神の民として証をし、全世界に神の御名があがめられ
るためであったのに、彼らの言動によって、神の御名は異邦人の間で汚されました。
パウロは、律法を行うなら、割礼には価値がありますと述べます。しかし神の民イスラ
エルは律法の違反者になったので、彼らの割礼に価値はなく、無割礼と言われたのです。
26節。ですからとパウロは続けます。割礼を受けているか、受けていないかという、外
面的なしるしが重要ではなく、律法の規定を守る、言い換えるなら、神のことばを行って
いるか、行っていないかの、信仰の実質が重要だと言うのです。神のことばを守る、つま
り創造者である神を信じているにふさわしく、神ご自身をあがめ、従っているなら、その
人が無割礼であったとしても、割礼を受けている、神の民であると見なされるのです。
27節。パウロはユダヤ人キリスト信仰者たちの、ユダヤ人であることを誇りとする姿勢
を誤りとするために、割礼と律法を取り上げました。そうして割礼の有無は、神に受け入
れられているか、受け入れられていないかとは、無関係としたのです。これは長年、彼ら
ユダヤ人たちが拠り所としてきた、神の民であるという根拠を完全に否定したのです。
からだは無割礼でも、律法を守り行っている人、異邦人が、律法の文字と割礼がありな
がらも、律法に違反するあなた、ユダヤ人であると自負している者を、さばくことになる
と言いきることで、パウロは、だれが真に、神の民とされるのかと問うのです。
28節。同じことを言い換えます。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、とあります。
ここでのユダヤ人とは、真に神の民である者たちの意味です。外見上の割礼が割礼ではな
いと、パウロは見えるかたちは、その本質を現しているとは限らないと言うのです。
29節。パウロはユダヤ人キリスト信仰者に、神の民として選ばれたことそれ自体を誇り
とするのではなく、神の民としてふさわしく歩もうとすることが重要であること、からだ
の割礼を誇りとするのではなく、心の割礼こそが重要であると伝えます。御霊による心の
割礼こそが、神が神の民に授けようとしておられる真の割礼なのです。
旧約の神の民イスラエルは、創造者である神が差し出された契約の条件に従うことを表
明して、神の民とされました。しかし私たちが、旧約聖書で確認させられるイスラエルの
歩みは、神の民としてふさわしくはなかったのです。契約を守られる神は、契約に違反す
るイスラエルを忍耐強く導き、守り、支え、罪を指摘し、悔い改めに招き続けましたが、
神の民イスラエルはことごとく神に背き続けたのです。しかしあわれみ深い神は、残りの
民を残され、彼らを通して、神の御子キリストをこの世に送ってくださいました。
神の民イスラエルの国家は滅ぼされましたが、心に割礼を受けた人々を残され、彼らユ
ダヤ人キリスト信仰者を通して、主イエスを信じる信仰を、全世界に広めさせ、御霊によ
る心の割礼を受ける人々を起こし続けて、現代に至っています。
今日の礼拝招詞は申命記のことばを読みました。交読はエレミヤ書から、今週のみこと
ばはエゼキエル書から選んでいます。これらを通しても、旧約の時代から、主なる神は神
の民として選ばれた者たちに、繰り返し、からだの割礼を通して、心の割礼をこそが必要
であると伝え続けていることが分かります。
ローマにあるキリスト教会には、ユダヤ人キリスト信仰者たちと異邦人キリスト信仰者
たちが混在していました。そうしてユダヤ人キリスト信仰者の中には、なおもユダヤ人で
あることそれ自体を誇りとし、異邦人キリスト信仰者たちに、主イエスを信じる信仰だけ
では不十分であり、ユダヤ人のようになることが必要であると説き、律法を守る生き方を
主張し、割礼を受けることを強いていたのです。そのようなローマの教会に対して、パウ
ロは福音とは何かを説き聞かせる必要があり、この手紙を書き送りました。
そのためにユダヤ人であることそれ自体に、何の価値も、誇りもないことを確認させる
必要があったのです。外見がユダヤ人のようにしても、御霊による心の割礼を受けていな
ければ、神の民としてふさわしく生きることを得させません。そうして神の民としてふさ
わしく生きようとしない者たちを、主なる神は退けるのです。
現代、私たちは主イエス・キリストを信じる信仰によって、神の子どもとされる特別な
権利が与えられます。主なる神と神の民の全く新しい契約の条件は、主イエスを信じる信
仰です。主イエスが十字架で、罪ための身代わりの処罰を受けてくださった。その身代わ
りの死は私のためであったと受け入れることで、罪が赦され、罪から救われることを信じ
る信仰が、神の民とされる条件です。そうして新しい契約で神の民とされた者たちは、神
の子どもとされ、創造者である神を父なる神と親しく呼ぶことのできる者とされました。
私たちが今、洗礼を受けることも、割礼と同じことです。洗礼を受けることそれ自体に
救いの保障はありません。主イエスを信じる信仰が救いの条件であり、その信仰の表明と
して洗礼、バプテスマを受けるのだからです。これを間違ってはなりません。
時々教会に洗礼を受けさせてほしいと申し出る人が来ます。その人たちの多くは、洗礼
を受けることが救いの条件と考えています。しかし洗礼に魔術的な力があり、私たちの罪
を赦し、罪から救うことをしません。罪の赦し、罪からの救いは、主イエスを信じる信仰
による神のみわざです。罪は創造者である神と無関係に生きること、そのあり方そのもの
であり、このあり方を改め、創造者である神を自分の神として生きる、造られた本来の生
き方に戻ることが救いです。それを可能にするのは、主イエスを信じる信仰です。そうし
て主イエスを信じたことを客観的に表明するために洗礼、バプテスマを受けるのです。
罪の赦しを受け、罪から救われた者は、神とともに生きる者となったのであり、日々の
実生活において神とともに生きることを願い、みこころを思い、主のみ思いを自分の思い
として、神の基準を生きたいと願うことになります。そうして主イエスを信じる者の心に
遣わされている聖霊の助けを求めて、一歩一歩神のことばに自分を合わせ、神に聞いて生
きることを欲するのです。そのような者、御霊による心の割礼を受けた者への称賛は、人
からではなく、神から来るとパウロは言います。
私たちキリスト信仰者は、御霊による心の割礼を求めて、日々みことばに養われ、聖霊
の助けを求めながら、神のことばを生きる歩みを続けましょう。罪が赦され、罪から救わ
れたのだから、自己中心という罪のあり方を捨てて、神を中心とする、救われた本来の生
き方、神とともに生きる歩みを続けるのです。御霊による心の割礼に焦点を合わせて、自
分を吟味し、救いの恵みを味わい、救いの喜びを生きる私たちとされましょう。




コメント