2025年1月12日 礼拝「教会の一致を保つ」 エペソ4:1~6
- hikaruumichurch
- 1月12日
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私たちは2025年、第2主日の礼拝で、エペソ人への手紙4章以降から、教会に焦点を
当てて、神のことばを確認したいと考えています。教会とは、キリストをかしらとするキ
リストのからだのことであり、公同の教会と地域教会、目に見えない本質的な教会と目に
見える具体的な各教会の両方を念頭において、確認したいのです。
1節。召されたあなたがたはと、私たちキリスト信仰者の何であるかが明記されていま
す。私たちキリスト信仰者は神に召された者たちです。神が目的をもって召されたので、
主イエス・キリストを信じる信仰が与えられ、罪の赦しを受け、神の子どもとされました。
そうして私たちは、キリストのからだを構成する各器官として召されたのです。神の教
会はキリストのからだであり、キリスト信仰者は、このからだを構成する各器官です。つ
まりキリスト信仰者であるなら、神の教会の一員です。神の教会と無関係であるなら、そ
れはキリスト信仰者であることを自己否定していることになります。私たちは主イエスを
信じて、神の子どもとされたのなら、目に見えない公同の教会に属し、また具体的なキリ
スト信仰者同士の交わりがある地域教会に属する者として召されたのです。パウロはキリ
スト信仰者に対して、召されたその召しにふさわしく歩みなさいと勧めています。
キリストのからだである神の教会は一つです。そして主なる神は、主イエスを信じる信
仰を私たちに与えて、私たちをキリストのからだである神の教会の一員として召されたの
です。召し集められた私たちは、それぞれに個性があり、多様な持ち味を備えています。
その多様性は、一つのからだとして結び合わされるためにあります。16節。
私たちに与えられているそれぞれの違い、多様性は、一つからだとして愛のうちに建て
られるためにあるのですが、気をつけていないと、それぞれの違いは、一つであることを
乱し、一つである本質的なあり方を破壊することへと向かわせもします。
だから2~3節。私たちの心を一つであることに向かわせるように命じます。そしてこ
れは、神の召しにふさわしく歩む第一のことです。召された者としてのふさわしい歩みの
第一は、一致を保つことです。歩めと命じられているのですから、一致を保つことをただ
単に願うということではなく、教会が一致を保つために、自分は何をすべきか、自分は何
ができるか、してはならないことは何かを考えて、熱心に教会の一致を保つのです。
一致を創り出すのではありません。保つのです。保つとは、すでに与えられているもの
を保持することです。手にしているものをなくさない。これが保つということです。命じ
られていることは、御霊による一致を熱心に保つことです。キリストのからだである神の
教会が持っている御霊による一致を熱心に保つこと、これが、召された私たちが、その召
しにふさわしく歩むことなのだと同意して、信仰の歩みを進めましょう。
2~3節。御霊の一致を熱心に保つための具体的な信仰の歩みとして、互いに耐え忍べ
と命じます。互いに自己主張し合うなら、一致は崩れます。教会には多種多様な人々が集
められていますから、自分の思いや考え、意見が通らないこともあります。不平や不満を
持つこともあるでしょう。気に障ることを言われたり、傷つけられることもあります。そ
れらを互いに耐え忍ぶのです。仕方なく我慢するのではありません。からだ全体の成長を
望み見て、主のみわざを期待して待ち望むゆえに、互いに耐え忍ぶのです。
そのために、まず謙遜と柔和の限りを尽くせとあります。主の御前での謙遜、へりくだ
ることを身につけることが大事です。自分には誇るところがあると思い、自分がほめられ
ることを求めるのではなく、へりくだるのです。自分を誇りたい、認められたいと思って
いるなら、人が自分をほめることをせず、自分に感謝もしないならば、私たちは苛立ち、
不平不満を抱き、心が離れていき、一つ思いは崩されてしまいます。主の御前で、自分に
は価値がなく、誇りとすべきところは何もないと自認するなら、人の目も、人の評価も気
にしなくなります。互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさいと、ローマ人への手
紙で勧められますが、このことに心から同意することが大事です。
柔和をも身につけます。柔和とは、穏やかな優しい心で人に接することです。柔和は
弱々しさではありません。主イエスは、わたしは心が柔和でへりくだっているから、あな
たがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさいと招きました。私たちは主イエ
スの謙遜と柔和さゆえに、主イエスから学ぶことができるのです。真の柔和は、神にすべ
てを委ねているので、事態が悪くなっても、そのままを受け入れる、良い意味での開き直
りを身につけた優しさと言えます。主イエスに倣う霊的品性の一つです。
続いて、寛容を示す、です。寛容とは大ぶろしきと表現されます。どんなことをも包み
込む大きな心です。主の御前で罪でないことには、もっと無頓着で良いということです。
罪であるならば、指摘することが大事です。罪を指摘するのは赦しのためであり、悔い改
めへと招くためです。罪でなければ、頓着しないで良いのです。私たちはともすると、ほ
んの些細な事柄を過大に問題にすることがあります。頓着しなくて良いことで一致が崩さ
れるなら、それこそ本末転倒です。互いに耐え忍ぶために、御霊の実である寛容という霊
的品性を身につけていくことが大事です。
互いに耐え忍ぶために最も必要なのは、愛です。主イエスに愛された愛で、主イエスに
愛されている神の家族を、主にある兄姉を愛するなら、互いに耐え忍べます。私たちには
主イエスが愛された愛はありませんでした。しかしキリストの十字架によって、私たちは
主イエスに愛され、本当の愛を体験的に知りました。そして御霊の助けを受けて、人を主
イエスの愛で愛する者となりました。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもっ
て互いに耐え忍ぶ、これが一致を保つための、内面的な備えです。御霊が結ばせてくださ
る霊的品性です。これらの素晴らしい霊的品性を身につけることを追い求めるのです。
その上で3節です。私たちキリスト信仰者は平和の絆で結ばれています。2章14節に、
キリストこそ私たちの平和です、とあります。キリストを信じて、神との平和を与えられ
た者たちは、互いの間にも平和があります。私たちには、キリストにあって平和が与えら
れているのです。この平和の絆をしっかりと結び合わせる。これが一致を保つ秘訣です。
私たちが熱心に保つようにと命じられている一致は、御霊の一致です。キリストを信じ
た者の内には聖霊がおられ、その聖霊が与えておられる一致を保つのです。一致を作り出
そうとしてはなりません。一致を保つのです。一致を作り出そうとして、神のことばの基
準を捨ててはなりません。キリスト信仰の基本教理を曲げなければ一致できない相手とま
で一致しようとしてはならないのです。
私たちキリスト信仰者は、キリストのからだを構成する各器官として、神の教会を構成
する各部分として、召し集められました。そして教会にある御霊の一致は、4~6節に記
されている七つの「一つ」を基盤にしています。これら七つの「一つ」を共有することで
一致は保たれます。望み、からだ、御霊、主、信仰、バプテスマ、父なる神です。
4節。私たちキリスト信仰者が召された、その召しの望みが一つであったのと同じよう
にとあります。1章18節では、神の召しにより与えられる望みとあり、それは、聖徒たち
が受け継ぐものと言い換えられ、それがどれほど栄光に富んだものかと言われています。
1章14節には、聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証ですとあります。私たちに与え
られている望みは、肉体の死が終わりではない死後の望みであり、永遠を天の御国で生き
るという望みです。それは淡い憧れではありません。神のことばに裏打ちされた明確な約
束に基づく希望です。キリスト信仰者にとって、肉体の死は天の御国への通過点です。だ
から死を恐れません。天の御国で永遠を生きるという同じ望みを共有するのです。
望みは一つです。同じように、からだは一つ、御霊は一つです。神の教会は、キリスト
をかしらとするキリストのからだであり、キリスト信仰者はキリストのからだを構成する
各器官です。キリスト信仰者各人には聖霊なる神がその心に遣わされています。同じ御霊
が一人ひとりに宿っておられます。からだには様々な器官がありますが、各器官が有機的
に関わり合って、一つのからだとして機能しているように、神の教会はキリストのからだ
であり、同じ御霊がキリスト信仰者一人一人の心に住んでおられ、各人を調和させ、一致
を与え、一つのからだとして生きた歩みをなさせるのです。
5節。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。私たちはみな、キリストを自
分の主と仰いでいます。同じお方を主と崇めて、主のことばを聞いて、それを生きようと
しているお互いです。信仰も一つです。十字架で処刑されたナザレのイエスを生ける神の
御子キリストですと信じる信仰です。主イエスの十字架による罪の赦しと罪からの救いを
信じる信仰です。そしてバプテスマも一つです。主イエスを信じた、その信仰の告白を公
に表明して水のバプテスマを受けます。父と子と聖霊の御名によって、キリスト・イエスに
つくバプテスマを受けるのです。私たちは個別にバプテスマを受けますが、その一人ひと
りがかしらであるキリストに結びつけられるのです。
6節。私たちは天地万物を創造され、そのすべてを治めておられ、すべての存在に許可
を与え、すべてのいのちあるものを生かしておられる、生けるまことの唯一の神を、愛す
るお父様をお呼びしています。同じひとりのお方を私たちの父なる神と仰ぐ、神の家族と
された私たちです。このように確認してくると、私たちの間に一致がなくなることの方が
不思議です。しかし現実には、教会にある御霊の一致を乱そうとする動きがあり、一致を
失わせようとする働きかけが起こります。そのような動きや働きかけに対しても、ここに
列挙されている七つの「一つ」をしっかりと保つことが大事なのです。
神に召された私たちは、神と無関係な世俗の様々な共同体から、キリストのからだであ
る神の教会という、全く新しい共同体に召されました。神の教会にある御霊の一致を熱心
に保つことが、召されたその召しにふさわしく歩むことです。そのために、謙遜と柔和の
限りを尽くす。寛容を示す。愛をもって互いに耐え忍ぶ。平和の絆で結ばれる。これらを
聖霊の助けを求めて、神の家族とされたお互いの中で、具現化していくことが大事です。
そのようになれたらいいなというような淡い願いで終わらせてはなりません。一つのか
らだを構成する各器官として、互いの間で実践していくのです。うまくいかないこともあ
ります。こんなはずではなかったと思う時もあります。挫折しながらも霊的に克服して、
一歩一歩信仰の歩みを積み重ねていくことが大事です。召された者として、教会の一致を
保つための努力をしましょう。御霊の一致を熱心に保つための一歩一歩を踏み出し続ける
私たちとされましょう。




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