2025年1月5日 礼拝「義務的ではなく愛のゆえに」ルカ15:25~32
- hikaruumichurch
- 1月5日
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今日私たちが開いている聖書箇所は、皆さまもよく知っている放蕩息子のたとえの後半
部分です。放蕩息子は弟息子のことで、兄息子はずっと父親に仕えていました。今日私た
ちは兄息子と父親との関係を確認して、主イエスが語られた真理を自分のものとします。
この15章には、迷い出た羊を捜す羊飼い、なくした銀貨を捜す婦人、そして息子を愛し
続け、待ち続けている父親の3つの、主イエスのたとえが記されています。
主イエスがこれらのたとえを話された背景が1~2節です。パリサイ人や律法学者たち
が、取税人たちや罪人たちが話を聞こうとして主イエスの近くに来たのを見て文句を言っ
たのです。罪人たちが主イエスから神のことばを聞き、神を自分の神として生きようとす
ることを喜ぶのではなく、彼らと付き合う主イエスを問題にしたということです。
しかし7節。神のみこころ、御思いが分かります。罪人が悔い改めることを、どれほど
神が喜ばれるかです。7節の罪人は、主イエスの話を聞こうとして集まっている取税人や
罪人たち、正しい人は、悔い改める必要がないと自負している人々、パリサイ人や律法学
者たちです。自分は罪人で、悔い改める必要があると考えている者を、主イエスは捜して
救い出します。罪人が悔い改め、救われるなら、大きな喜びが天にあるのです。
11節。息子がふたりいる父親のたとえです。父親の息子たちへの関わり方は父なる神の
私たちへの関わり方です。弟息子は自分の間違いに気づき、悔い改めて父に赦しを求め、
父の元に返ってきた取税人や罪人たちであり、兄息子はパリサイ人や律法学者たち、自分
は正しいと自負する者たちです。この弟息子は、まことの神を知ろうとせずに、まことの
神から離れ、自由に生きていると思っているけれど、実態は罪の奴隷状態に置かれ、自分
の肉の欲に従って歩んでいる、すべての罪人がたとえられています。
ふたりの息子たちは親の保護の下、親の愛と親の富に支えられながら、成長しました。
しかし父親に愛されているとの思いはなかったようです。弟息子を簡単に見ます。親から
離れ、自分の力での成功を考えました。父親のそばにいることは不自由だと感じ、自分の
思い通りの人生を築きたいと考えたのです。そうして父親がまだ生きているのに、自分が
受けるべき遺産の分与を求め、現金化して、遠い国へと旅立ちました。12~13節。
世の人々は巧妙です。様々な誘惑にさらされ、大金を使い果たしました。さらに飢饉と
なり、身を寄せた人の所で、豚の世話をするという、ユダヤ人としては屈辱的な境遇に置
かれたのです。まさにどん底に落ちました。そこで我に返ったのが幸いでした。自分はど
こで間違ったのかを思い、自分の罪を認め、家に帰ることにしたのです。自己正当化して
いる限り、自分のことも、周りのことも、真実は見えません。自分でなんとかできると考
えている限りは、人のせいや社会のせいにして、間違いを繰り返すのです。
弟息子は家に立ち返る決心をしました。自分の間違い、犯した罪を認め、息子としては
戻れないと考えます。これは当然でしょう。親の存在を否定して、財産を譲り受け、その
すべてをなくしたのです。とても赦されるはずはありません。それでも父親の元に帰る決
心をしました。しもべとして生きる方が良いと考えたのです。この考えは大切です。
さて、父親は20節です。弟息子は自分の家に近づきました。しかし家まではまだ遠かっ
たのに、父親は弟息子を見つけます。父親は毎日、弟息子の帰りを待っていて、いつ帰っ
てきても、自分の息子として迎えようと心に決めていたことが分かります。
これが父なる神の私たちへの関わり方です。神を無視し、自分勝手に生きてきた私たち
でした。神に聴くことをせず、自分の基準で正しいと判断して生きることが、自由で、幸
福だと考えていた私たちです。しかし私たちは様々な罪に悩み、自責の念に苛まれ、自分
の悪い部分を直そうと決心はするけれど、間違いや罪を繰り返していたのです。
そのような私たちを、父なる神はなお愛し、自分から戻ってくるのを待っておられるの
です。21~22節。弟息子は、雇い人の一人にしてくださいと言うつもりだったのに、父親
は自分の子として扱うのです。24節。父なる神は、私たちが自分の間違いを認め、悔い改
めて神に立ち返るとき、私たちの数々の罪を不問にして、愛する子として喜び迎えてくだ
さるのです。そして大きな喜びが天にあり、御使いたちの前には喜びがあるのです。
さて今日の箇所、兄息子を見ます。25~26節。家の様子がいつもと違うので、しもべに
聞きます。27~28節。みなさまはこの兄息子をどう思うでしょう。理由は29節です。兄
息子が気分を害し、怒るのは当然です。彼は一所懸命に、親の顔色を見ながら、気に入ら
れるように頑張ってきた。友達と楽しむために、子やぎ一匹ももらえなかった。我慢して
きたのに、散々遊びほうけて、財産を食い潰して、その上で帰ってきた弟息子の帰りを喜
んでお祝いをする。こんな不条理を、えこひいきを認めるわけにはいかない。怒り心頭に
発するのは当然ではないでしょうか。みなさまはどう思いますか。
しかし兄息子は父親を誤解していました。彼の間違った思い込みによる自己規制をして
いたのです。この父親は大盤振る舞いで、子どもの自由意思を最大限に尊重する人物であ
ることは、弟息子の生前財産分与の要求に応じたことで明らかでした。しかし兄息子は、
父は弟びいきだと妬ましく思い、自分は愛されていない、大切にされていないと誤解し、
かといって父親から離れる勇気もないので、父親の顔色を窺い、罰せられないようにと気
を遣い、罰せられないように父親の戒めを行っていたのです。
兄息子は父親の自分への愛が分かっていませんでした。だから父の愛に応えて、喜んで
仕えるのではなくて、落ち度がないように、父親を怒らせないようにと、びくびくしなが
ら仕えていたのです。父親が許可してくれないので友達と楽しむこともできないと勝手に
思い込み、喜びと感謝のない、義務的で、自己規制の生活を送っていたということです。
主イエスは、パリサイ人や律法学者たちを、兄息子にたとえました。彼らは主なる神の
自分への愛を知りませんでした。だから神の愛に応えて、喜びと感謝から神に仕えること
ではなく、戒めを破った時の神に罰せられることを恐れて、義務的に戒めを守っていたの
です。だから律法を守れない人たちを見下し、さばきました。そして取税人や罪人たちに
教えておられる主イエスに文句を言ったのです。取税人や罪人たちは律法を守っていない
のに主イエスは受け入れていると怒りを覚えたということです。
私たちはどうでしょうか。感謝や喜びがなければ、主なる神に仕えたいという思いは持
てません。もし義務的に行っているなら、していない人を見て、何で自分ばかりと不満や
不平、怒りが生じ、主に仕えるのを止めたいとの思いが出てきます。もしそのようである
なら、改めて主と主の恵みを味わい直し、祝福の約束を確認することが大事です。
31節。父なる神といつも一緒であることの祝福を確認しましょう。自分に委ねられてい
るものを感謝して、自由に使って良いと理解することが大事です。父なる神は愛の神で、
恵み豊かな神であると分かっているなら、自分に与えられている立場、救われ、神の子ど
もとされている特権、永遠のいのちに生きているあり方がいかに光栄であり、感謝である
のかを味わい直しましょう。私たちは自分への神の愛と恵みを知っています。そして自分
も父なる神を愛しており、主にお仕えできることを喜びとしたのです。
そのような私たちであるなら、32節です。弟が戻ってきた、死んでいたのが生き返り、
いなくなっていたのが見つかったことを、ともに喜び祝うのは当然となるのです。私たち
も確認しましょう。愛に富む父なる神は、私たち一人ひとりを愛して、私たちが立ち返る
のを待っておられ、立ち返るなら、それまでのことをすべて不問にして、喜び迎えてくだ
さるのです。私たちも喜び祝う者となりましょう。
日々、喜びと感謝で、神が喜んでくださること、神に受け入れられること、神が良しと
されることを、義務的にでなく、形式的にでもなく、心から喜び、感謝して、主に仕える
思いで行い、そして神から遠く離れている歩んでいる人が悔い改め、主イエスを信じて、
神の元に帰るのを祈りつつ、待ち望み、その帰還を喜び祝う者となりましょう。
主なる神は預言者エゼキエルを通して語っておられます。わたしは、だれが死ぬのも喜
ばない。だから立ち返って、生きよと呼びかけておられます。この神の御思いを、私たち
の思いとして、執り成し祈りつつ、福音を証していきましょう。




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