top of page

2025年1月1日 元旦礼拝「主の召しにふさわしく歩む」 エペソ4:1

  • hikaruumichurch
  • 2025年1月1日
  • 読了時間: 8分

 

 2025年が始まりました。今日私たちは、自分の救いを確認し、救いを喜び、救いを生

きる者であることを確認して、救いを生きる信仰生活を目指しましょう。

 主なる神の私たちへの語りかけは、わたしがあなたを召した、だからあなたは、主なる

神に召された者として、召した方の召しにふさわしく生きよということです。

 私たちは、主イエス・キリストを信じる信仰によって、救いに与りました。何か大きな

功績を残したから、その報いとして救いに与ったのではなく、私たちは様々な罪を犯して

きて、創造者である神に敵対していて、滅びに向かって歩んでいたのに、神の一方的な恵

みによって召され、キリストにあって選ばれたので、主イエスを信じる信仰が与えられた

のです。主なる神のあわれみによるみわざです。

 この救いのすばらしさ、この恵みの大きさに、いつの間にか慣れてしまうと、恵みが恵

みとは感じられなくなってしまいます。感謝や喜びが薄れていることもあります。神の偉

大さ、その力強さは、たえず確認し、味わい直すことが大事です。救いの喜びや感謝が薄

れてしまうと、主に信頼することもなくなり、主なる神のことばに聞いて生きることに消

極的になることもあるのです。3章20節に、私たちを召してくださった主は、私たちの願

うところ、思うところのすべてをはるかに越えて行うことができる方です、とあります。

この事実を、知識だけではなく、信仰の実生活において味わっているなら、私たちは、召

してくださった父なる神を仰ぎ、その召しにふさわしく歩もうと願うことになります。

 4章1節。パウロは、さて勧めますと、3章までと趣を変えて、具体的な信仰生活につ

いて、書き送ることを伝えるのです。3章までは救いの教理を述べてきました。その基本

的な教理を踏まえて、実際的な信仰生活、特に教会生活の勧めをするのです。

 1節。勧められているのは、歩むことです。信仰はアクセサリーではありません。信仰

とは実生活ですから、私たちは与えられた信仰を、日常生活の中で、具体的に現わす必要

があるのです。私たちはかつての、創造者である神とは無関係に生きたむなしい生き方か

ら救い出されました。だから、創造者である神を父なる神と呼び求める神の家族としてふ

さわしく歩もうではないかとパウロは勧めたのです。

 キリスト信仰は、単なる信心とは違います。信じることが重要なのではなく、何を信じ

るかが重要なのです。何を信じるのか、信じた結果どのようにされたのか、その信仰は実

生活でどのように現わされているのかが問われます。この、何を信じたのか、それはどの

ような結果を生みだしたのかが、3章までに記されています。

 3章までを簡単に確認します。私たちは何を信じるのでしょうか。まず1章4~5節。

神はすべてのものの創造者であり、唯一まことの神であると信じました。このお方以外は

すべて造られたものであって、このお方以外に神はいません。

 創造者である神が私たち人間を、神のかたちとして、ご自分の似姿に創造しました。創

世記にあるとおりです。そうして私たちキリスト信仰者を、神の御前に聖なる、傷のない

者とするために、彼、キリストにあって、世界が創造される前から、選んでくださってい

たのです。さらに神の子とするために、愛をもってあらかじめ定めておられました。つま

りキリスト信仰者は、聖なる、傷のない、神の子となるために選ばれたのです。

 1章7節。そのために、神の御子イエス・キリストの血による贖いがなされました。キ

リストの十字架の身代わりの死を信じる信仰によって罪の赦しが与えられ、神のこどもと

される特権が、私たちに与えられたのです。さらに13~14節。イエス・キリストを信じた

私たちの心には聖霊が住んでおられます。聖霊は私たちが救われたことの保証です。

 2章8節。これらはみな神の一方的な恵みの賜物です。私たちが救われたのは、ただ神

の恵みによります。神が私たちを愛し、豊かなあわれみをもって御子を遣わしてくださっ

たので、私たちは救いに与かる信仰を持つことができました。

 イエス・キリストを信じ、創造者である神を父なる神と信じて、罪の赦しを受け、罪か

らの救いに与った私たちは、どのような存在とされたのでしょうか。信じる以前と信じた

後のことが2章にあります。1~3節。キリストを信じる以前、私たちは自分の背きと罪

との中に死んでいた者でした。自分では自由に生きていると思っていても、実際は自分の

肉の欲に支配されていたということです。主体的に生きていたのではなく、罪の奴隷状態

にあり、生まれながら御怒りを受けるべき存在だったのです。

 4~6節。そのような私たち、背きと罪との中に死んでいて、数々の罪を犯してきたゆ

えに、罰せられ、滅ぼされて当然の私たちを、神は豊かにあわれみ、大きな愛で愛して、

救いの恵みを備え、御子イエス・キリストを信じる信仰を持たせてくださいました。キリ

スト信仰者は今、キリストと共に生きる者とされています。さらにキリスト信仰者は一つ

に集められ、15節、新しい一人の人に造り上げられ、19節、神の家族とされ、3章6節、

キリスト・イエスにあって、共同の相続者とされています。これが教会です。

 1章23節。教会はキリストのからだというすばらしい呼び名が与えられています。キリ

スト信仰者一人一人はキリストのからだに集められ、お互いが一つのからだを構成する大

切な器官とされているのです。これがイエス・キリストを信じた私たちの状態です。

 4章1節。イエス・キリストを信じた私たちは召された者たちです。この世から、神と

無関係の世俗から選び出され、聖なる神の側に属する者とされました。それまでの古い生

き方、背きと罪の中に死んでいたような生き方から解放されて、新しい、神のいのちに生

きる生き方に召し出されました。その目的は、2章10節、神の作品となるため、1章4

節、神の御前に聖なる、傷のない者にされるためです。

 召しにふさわしい具体的な歩みについては4章2節以降に記されています。今日は、そ

の理念的なあり方について確認しておきます。下図(別紙)を参照。


ree

 イエス・キリストを信じる前の私たちは、創造者である神と無関係の価値基準や世界観

を持っていました。図の中の小さな三角が、個々人の価値観や判断の基準です。価値観や

判断基準が元になって、各人の生活様式が作り出され、実生活となって現われてきます。

それが大きな三角形です。キリスト信仰者になる前、私たちはまことの神を知らず、自分

の欲の中に生き、肉と心の望むままに生きていました。学歴が大切だと思っている者は、

より高い学歴を得るために行動します。お金や財産が拠り所であれば、それを得るために

努力し、さらに蓄えようとします。その他いろいろな価値観があります。この地上での幸

福を求め、この世の様々な情報に支配されて、地上がすべてであるような歩みでした。

 そのような私たちが、神のあわれみによって、創造者であるまことの神を知り、罪とは

まことの神と無関係のあり方であると知って、イエス・キリストを信じて救われ、まこと

の神と共に生きるという造られた本来のあるべき状態に戻ったのです。私たちの価値観は

変えられました。自分中心ではなく、神を中心とし、神のことばを生きることが最も価値

のあることであると分かったのです。私たちは新しく生まれました。霊的な赤子として生

まれ、みことばと聖霊の取り扱いを受けて、霊的大人へと成長していきます。

 しかし生活習慣や行動様式は身に付いたままです。神のことばを生きることが大事であ

るという価値基準、創造者である神の主権に生きるという世界観は持ったけれど、それに

ふさわしい生活様式はまだ身についていない霊的幼子です。図の2番目です。

 神の子どもとされた新しいいのちが実生活に現れていく過程、これがキリスト信仰者の

霊的成長です。神のみことばにふさわしく生活や行動が変えられる、神のみこころにかな

う信仰者として整えられていく。召された目的がここにあります。神の御前に聖なる、傷

のない者とされる。神の作品として整えられていく。この目的が達成されるために、日々

みことばに聞いて、みことばに合わせて自分を変えていただくのです。これを地道に積み

重ねていく、一歩一歩の地道な歩みが、召しにふさわしく歩むことです。

 御前に聖なる、傷のない者となるとは、神に造られた本来の自分とされることです。罪

のゆえに歪められた部分、この世の価値観や常識などで身についてしまった、本来の自分

ではない部分を取り除いていただく必要があります。聖霊の助けを求め、聖霊に助けられ

ながら、神の霊的な取り扱いに自分を差し出して、造り変えられて行くのです。

 4章16節。そのような私たちを、キリストが、ご自分のからだを構成する大切な一つ一

つの器官として、互いを結び合わせ、組み合わせ、つなぎ合わせて、それぞれの部分がそ

の分に応じて働くことで成長し、愛のうちにキリストのからだである神の教会が建てられ

ていくのです。まさに神の作品としての一人一人であり、神の家族としての教会です。

 2025年、このことを追い求めながら、信仰生活を進めましょう。私たちが救いに与る

ことができたということは、主に召された結果です。召してくださった方の目的、御前に

聖なる、傷のない者とされ、神の作品として造り上げられる。そのためには、創造者であ

る神から目を離さず、離れることなく、神のことばに自分を合わせて生きる一歩一歩の積

み重ねが必要であり、大切です。召されたから、召しにふさわしく歩む。2025年の、一

人ひとりの信仰生活が、真に祝されたものとなるようにと主の祝福をお祈りいたします。

 2025年は月に1度の割合で、エペソ人への手紙の後半部分、4章から学び、教会とは

何か、教会生活とは何かを確認していきたいと考えています。

ree

 
 
 

コメント


bottom of page