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2024年12月24日 燭火礼拝「キリストの謙卑に思いを潜める」ピリピ2:6~8

  • hikaruumichurch
  • 2024年12月24日
  • 読了時間: 7分

 今年もクリスマス燭火賛美礼拝の時を過ごすことができ嬉しく思っています。暗闇の中

に輝く光は私たちの心を暖かくします。一本の蝋燭でさえ、灯がともるなら暗黒は消え去

ります。罪が作り出す、この暗黒の世界に、まことの光として、救い主が誕生しました。

王の王、主の主であられる方が、神のあり方を捨てて、最も低い立場にまでご自分を卑し

めて、人間となられて、私たちの世界に生まれました。この世界に住まわれ、私たちと同

じようになられるために、人として生まれて下さったのです。

 今日は特に「キリストの謙卑」に私たちの思いを潜めて、クリスマスの恵みを味わいた

いと考えています。「謙卑」とは、人々に卑しめられる程低い立場にまで自分を遜らせた

ということです。なぜキリストは、これ程までにご自分を卑しめたのでしょうか。それは

私たち一人ひとりを、私を、あなたを、全人類を愛しておられるからです。

 創造者である神の私たちへのメッセージは、わたしはあなたを愛している、です。主な

る神は私たちに対して、わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛して

いると、繰り返し、語り続けておられるのです。そしてこの愛、神の私に対する愛、神の

あなたに対する愛は、クリスマスを通して、明らかに示されました。

 愛をチェックする方法の一つに、どれだけのものを捨てたかがあります。皆さんは、愛

する人のために、どこまで喜んで、自分を犠牲にできると考えるでしょうか。喜んで犠牲

にできる、喜んで捨てられる、その程度が、あなたのその人に対する愛の深さ、また大き

さです。このチェックは、自分がどれだけ愛しているかのチェックであって、相手に愛を

要求するためのものではありません。愛は与えるもの、自発的なものです。

 さて、創造者である神の、主イエスの、私たちへの愛はどれほどのものであるか。それ

は、私たちのために何を捨てたかで判断できます。クリスマスに、主イエスは何を捨てた

のでしょうか。これを知ることで、あなたへの愛、私への愛を知ることができます。

 ピリピ人への手紙2章6~8節に、キリストが、主イエスが、何を捨てたのかが記され

ています。6節。キリストは神の御姿であられるのに、とあります。人となられたキリス

トの、本来の姿が述べられています。ナザレのイエスは、神そのもののお方であるという

ことです。姿とはフォームです。フォームというのは本質が滲み出て、それが表面に現わ

れた状態です。キリストは神の御姿である方なのです。

 スポーツを考えてみましょう。上手な人はそれなりのフォームとなります。下手な人も

それなりのフォームとなるのです。一流と言われるスポーツ選手のフォームを真似ても一

流のプレーはできません。本質が一流でなければ、かたちを真似ても、一流のプレーはで

きないのです。一流の選手は独特のスタイルでも、一流のプレーができるのです。

 キリストは神の御姿である方、つまり神の本質そのもののお方です。主イエスを見れば

神がどのような方かが分かります。キリストは何を捨てたのでしょうか。

 6~7節。第一に、キリストは私たちのために、神のあり方を捨てました。神のあり方

を捨てて、ご自分を空しくされたのです。神としての栄光も、尊厳も、力も、誉れも、豊

かさも、その他の、神として持っておられたすべての特権を捨てて、赤子として生まれ、

私たち人間と同じようになられたのです。これがクリスマスの出来事です。

 神は霊ですから、私たちのように肉体はありません。神のあり方を捨てたとは、霊の存

在ではなく、肉体を取られたということです。神の遍在という特質を捨てたのです。人間

と同じようになるために、肉体を持つために、処女マリヤの胎に宿られました。

 その目的が8節です。十字架で死ぬために、キリストは人として生まれ、人として生活

されました。そして罪を全く犯さなかったのに、キリストは全人類に罪の赦しを備えるた

めに、私の罪を赦すために、あなたの罪を赦すために、身代わりに罪の処罰を受けるため

に、死にために生まれたのです。キリストは私を愛し、私の代わりに死ぬために、あなた

を愛し、あなたの代わりに死ぬために、神のあり方を捨てて、人間と同じようになられた

のです。キリストがあなたを愛するゆえに捨てた第一のもの、それは神のあり方です。神

のあり方を捨てるほどに、あなたはキリストに愛されているのです。

 キリストがあなたを愛するゆえに捨てた第二のことは、7節にあります。ご自分を空し

くして、しもべの姿を取りました。仕えられる立場を捨てて、仕える者となったのです。

ここでも姿が出てきます。仕える者の本質、人に仕える真の姿を、主イエスから学ぶこと

ができます。イエス・キリストの地上生涯は、与え尽くした生涯であり、仕える者の模範

を私たちに残した生涯とも言えます。

 赤子として生まれたキリストは飼葉おけに寝かされました。王の王、主の主である方の

誕生ですから、本来なら、王宮のきらびやかなベビーベッドに寝かされ、宝石が散りばめ

られた産着に身を包まれ、選りすぐりのベビーシッターたちに傅かれることこそふさわし

いのに、どん底の立場で生まれ、布にくるまれて、飼葉おけに寝かされました。ここまで

自分を卑しくされたのです。まさにキリストの謙卑です。

 キリストは全人類に、罪の赦しを備え、罪からの救いを差し出すために人となられ、処

女マリアから生まれました。罪のない方として生まれ、罪を全くおかさなかった生涯を歩

み、十字架で身代わりに、罪の処罰を受けて死なれたのです。キリストは、あらゆる階層

に属する人々、あらゆる問題を抱えている人々、差別を受けている様々な人々、国も、人

種も超えて、すべての人が、自分の救い主として求めることができるように、最も低い立

場で生まれ、貧しい境遇に育ち、人々の嘆きや悲しみ、苦しみなどを体験されたのです。

 創造者である神は、キリストによる罪の赦しと罪からの救いを、強いることはなさいま

せん。私たち人間が、キリストによる罪からの救いを知り、罪の赦しを自分から求めるこ

とで、救いに与れるようにしたのです。その具体的な例が、羊飼いたちです。

 キリストは最も卑しい立場に生まれ、誰もが気兼ねせずに救いを求めることができるよ

うに、家畜小屋の、飼葉おけに寝かされました。そして当時、身分的に低く、職業的に軽

蔑され、さらに神の救いには遠いと見下されていた羊飼いたちに、救い主の誕生の知らせ

がもたらされたのです。御使いは羊飼いたちに告げ知らせました。今日ダビデの町で、あ

なたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです。その救

い主のしるしは、飼葉おけに、布にくるまれて寝ているみどりごであると。

 人々から蔑まれていた羊飼いたちが、救い主を捜し出し、誰に気兼ねすることもなく救

い主を拝み、喜びと感謝に満たされるようにするためです。羊飼いたちは、自分たちで飼

葉おけに寝かされている赤子を捜し出し、自分の救い主として受け入れました。

 キリストは私たちの心がどれほど醜く、荒れ果てていても、私たちが、自分の救い主と

して求めるなら、喜んで私の、あなたの心に入ってこられます。その時、私たちの心は、

喜びと感謝に溢れ、そして、その時から、私たちの心は、内側から良いものへと変えられ

続けていくのです。キリストが変え続けてくださるからです。

 キリストがあなたを愛するゆえに捨てた第三は、いのちです。十字架で処刑され、死ぬ

ことで、私たちの救いとなられました。キリストは処女マリヤから、創造者である神の力

によって生まれました。罪の性質を持たない存在として生まれるために、人間の父親を介

さないで、処女マリヤの胎内に宿ったのです。

 主キリスト・イエスは、赤ちゃんとして生まれ、乳児期を過ごし、幼児期、少年期と成

長し、青年になり、成人し、大工として働き、最後の3年間の公の生涯に至るまで、罪を

何一つ犯しませんでした。裁判の席で、ローマ総督ピラトは、イエスには死に値する罪は

何もないと宣言したにも関わらず、十字架刑という極刑に処せられました。ローマ総督ピ

ラトは、少なくとも3度、釈放すると口にしたのに、十字架で処刑されたのです。

 あなたはこれほどの愛で愛されています。あなたを罪から救うために、滅びから救い出

すために、キリストは神のあり方を捨て、仕えられる立場を捨て、いのちを捨てました。

そして、わたしのもとに来なさいと招くのです。愛は強要しません。押しつけることをし

ないで、自発的な応答を待ちます。私たちは神の絶大な愛で愛されています。あなたは神

に絶大な愛で愛されています。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれ

になりました。この方こそ、主キリストです。クリスマスの良き日、自分に向けられてい

る神の愛を、喜び、感謝して、素直に受け取る。私たちがすることはそれだけです。

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