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2024年12月15日 礼拝「またおいでになります」 マタイ25:1~13

  • hikaruumichurch
  • 2024年12月15日
  • 読了時間: 9分

更新日:2024年12月17日

 アドベント第3週を迎えました。アドベントとは到来の意で、主の来臨を待ち望む期間

を言います。キリスト教会では毎年、クリスマスを待ち望み、救い主の誕生に思いを向け

るために4週間を過ごしています。先週私たちは、主イエスの人としての誕生について、

旧約聖書の預言を中心に確認しました。神の御子は、私たちを罪から救うために、十字架

で死ぬために、人として生まれたこと、メシヤ、救い主の出現については永遠の昔からの

定められていて、その預言の数々は主イエスによって実現したことを確認したのです。

 私たちはアドベントの期間を、クリスマスを待ち望むために過ごすとともに、主イエス

の再臨を待ち望むためにも過ごします。普段はあまり、主の再臨について思いを向けない

人も、アドベントの期間に、主の再臨を待ち望む自分であることを確認するのです。

 主イエスは十字架で全人類の罪に赦しを与えるために処刑されました。それは私の罪の

ためであったと、個人的に受け入れたのが、私たちキリスト信仰者です。主イエスは死ん

で葬られ、三日目に死者の中から復活し、40日後に天に帰られました。主イエスは、世の

終わりとご自分の再臨を語っておられました。

 先ほど交読した使徒の働き1章に、主イエスが40日に亘って弟子たちに、復活されたご

自分の姿を見せ、復活が事実であることを確認させたことが記されていました。そして約

束の聖霊を待つようにと促した後、天に上って行かれました。その時に御使いは、主の再

臨を約束したのです。弟子たちが見たのと同じ有様で、またおいでになりますと。

 私たちキリスト信仰者は、主イエスがもう一度来られるという約束が実現する時を待ち

望んでいます。神のことばはその時が来れば実現するからです。旧約聖書に、主イエスの

初臨について、数々の預言がなされ、その預言が実現して、神の御子が人となられたよう

に、主の再臨も、神が定められた時に、実現します。主イエスの再臨は、人間の赤ちゃん

としての誕生ではなく、王の王、主の主として、公正なさばきを行い、私たちの救いを完

成されるために来られます。その約束の実現を、私たちは待ち望んでいるのです。

 主イエスはもう一度来られます。必ず来られます。主なる神のことば、その約束は、そ

の時が来れば必ず実現するからです。誰も妨げることはできません。その日が来たなら、

私たちは皆、主イエスの前に出ることになります。その日を、喜びと感謝の日として迎え

るのか、悲しみと嘆きの日として迎えるのかは、私たち次第です。私たちは、主の再臨に

備えて、いつ来られても喜んで迎えられるように信仰を整えておきたいのです。

 マタイの福音書25章には、主の再臨に備えるためのたとえが記されています。主イエス

は24章で、天地万物が滅びる終末を予告し、24章45節から25章の終わりで、たとえを語

りました。私たちは緊張感をもって、主イエスの再臨を待つことが大事です。

 25章1~2節。この話で、花婿でたとえられているのは主イエスです。そして花婿を迎

える10人の娘たちは主イエスを待つキリスト者一人一人、私たちがたとえられています。

5人は愚かで、5人は賢かったとありますが、人数に意味はありません。愚かと言われる

人と、賢いと称される人がいるということです。ただし非常に厳粛な区別です。主イエス

は私たちに、愚かではなく、賢い娘のようでありなさいと勧めたのです。

 愚かさと、賢さの違いは3~4節。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたけれど、花

婿の到着が遅れるとは思わずに、予備の油を用意していませんでした。賢い娘たちは、と

もしびと一緒に、予備の油を用意していたのです。10人の娘はほとんど同じです。花婿が

来るのを知っていて、その到着を待っています。ともしびを灯しています。

 5節。花婿の到着が遅れました。彼女たちはうとうとし始めます。10人が10人とも同

じでした。しかし賢い娘たちは、予備の油を用意しており、愚かな娘たちは予備の油を用

意していなかった、その違いだけで、他は同じです。不測の事態に備えていることが、賢

いと言われる所以です。これが決定的な違いとなるのですから、油断してはならないとい

うことです。このたとえの焦点は、想定外を設けない、油断をしないで、いつ主イエスが

来られても、いつでも迎えられるように備えておくことです。

 前後のたとえを簡単に見ます。24章45~51節では、忠実な思慮深いしもべとして、主人

に委ねられた働きを忠実に、誠実に行いながら、主人の帰りを待つことへの招きです。主

人の帰りが遅くなっているからとか、主人に見られていないからと、自分を楽しませるの

ではなく、主人がいてもいなくても変わらずに、委ねられた働きを誠実にしているなら、

主人が帰ってきたときに、忠実なしもべとして主人を出迎えられます。そのようなキリス

ト信仰者は幸いです。私たちは主人が見えないと怠け心が働くことがあります。主人が見

ていなくても、常に忠実なしもべであることを心がける者は幸いです。忠実で思慮深いし

もべは、主人がいつ帰ってきても、喜んで出迎える者です。

 25章14節からは、自分に与えられている能力をふさわしく用いて、主人の帰りを待つこ

とのたとえです。自分の能力を出し惜しみする者は、主人に喜ばれることはできません。

悪い、怠け者のしもべだと言われ、退けられます。主イエスは私たちに与えた能力にふさ

わしい働きを求めておられます。人と比べて自分には能力はないと、自己卑下するのでは

なく、また人と比べて自分の能力は秀でているから少々手抜きしても良いなどと、高慢に

なるのでもなく、自分の能力を主のために喜んで用いること、主のためにどのように用い

ることができるかと考えることが大切なのです。自分にできることを喜んでなし、自分の

能力を生かして、主イエスの帰りを待つのです。その時、よくやった、良い忠実なしもべ

だと言われ、主人の喜びをともに喜んでくれと、労いのことばを受けるのです。

 今日、主イエスが再臨されたとして、喜んで主イエスを出迎えられるなら幸いです。私

たちは、主イエスからどのような評価を受けるのでしょうか。良い忠実なしもべだと言わ

れるでしょうか。悪い怠け者のしもべだと言われるでしょうか。

 私たちは主イエスの自分への愛を、個人的に味わった者たちです。十字架での死を、自

分のためであると受け入れ、自分の罪を認め、悔い改めて、主イエスを自分の救い主とし

て信じました。いのちを捨てるほどの愛で愛されたことを知り、自分の主とあがめる者と

なり、主とともに歩むことを喜び、感謝する者となり、主イエスに「よくやった、良い忠

実なしもべだ。主人の喜びをともに喜んでくれ」と言われたいと思っています。

 私たちは愚かな娘のようにならないよう、自分を戒めましょう。賢い娘のように、主イ

エスがいつ来られても出迎えられるように備えておきたいのです。主イエスは必ず来られ

ますが、その日、その時がいつなのか、私たちには知らされていないからです。

 8節。花婿の到着が遅れました。予備の油を用意していなかった愚かな娘たちは、自分

たちのともしびが消えそうになっていることに気がつきました。油がなくなりかけてから

慌てても、すぐには補給できません。間に合わないのです。

 9節。予備の油を備えている賢い娘たちに、油を分けてほしいと頼みますが、分けてあ

げるには到底足りないと断られてしまいました。他のキリスト信仰者から分けてもらうこ

とはできないのです。主イエスの再臨を待つ備えは、信仰者一人ひとりがしておかなけれ

ばなりません。救われたことを喜び、感謝して、日々主に仕えていることが大事です。

 知識としての信仰が何の役にも立たないことを、私たちは愚かな娘たちから知らされま

す。彼女たちは知っていました。花婿が到着することを知って、その到着を待っていたの

です。私たちも主イエスの再臨を知っています。そして迎えに出るためには信仰の灯をと

もしておくことも知っています。知識を持つことは大切です。正しい知識は私たちを救い

に導き、主に喜ばれる信仰生活のために必要です。しかし知っていることと、そのように

生きることとは別問題です。知っているから大丈夫だと考えているなら、愚かな娘たちと

同じ間違いを犯すことになります。本当に必要な時に役に立たない信仰かもしれません。

 主イエスが再臨されるという知識は、私たちに、身を引き締めさせます。主が来られた

時には、主にふさわしい者として、主の御前に立ちたいと思わせます。しかし主のおいで

が遅れているかのように感じ、まだしばらくは再臨がないとの思いが生じる中で、いつの

間にか自己中心の信仰生活になっていることがあります。ここに知識だけの信仰の限界が

あるのです。知識に基づいた信仰の熱心さが必要です。

 主に対しての熱心が大事です。キリスト信仰者としての歩み、キリストの証人としての

歩みに熱心であろうとすることが大事です。日々主の自分に対する愛を喜んでいることが

大事です。主を心から愛して日々を過ごすことが大事です。主への愛が冷めていると感じ

るなら、もう一度、主の十字架の愛を確認し、味わい直しましょう。知識だけの信仰は私

たちを生かしません。頭だけの信仰は何の役にも立ちません。みことばと聖霊によって生

かされなければ、神を中心とした信仰に私たちを整えることはないのです。主イエスは、

またおいでになります。私たちは絶えず、みことばに養われ、祈ることで神に応答する、

神との霊的な交わりをしていなければ、自己中心の、自分が満足する信仰生活に陥り、主

のおいでを待つにふさわしい信仰の歩みから遠ざかってしまうのです。

 主が喜ばれるのはどちらか、主が良しとされるのはどちらか、主に受け入れられること

はどちらかを吟味し、その良い方を選び取る信仰の歩みを続けることが大事です。

 13節。ですから、目をさましていなさいと、主イエスは警告されました。主イエスの再

臨は今日かもしれません。明日かもしれません。100年後かもしれません。その日、その

時を私たちは知りません。私自身の終末は今晩かもしれません。明日かもしれません。主

イエスの再臨と私自身の終末と、どちらが早いとしても、その日に主イエスとお会いする

ことになります。喜び、感謝して、主イエスにお会いするでしょうか。悲しみ、嘆きでお

会いすることになるのでしょうか。神を中心にした信仰の備えが必要です。

 12節。愚かな娘たちは、主人から、あなたがたを知らないと言われました。主イエスは

私たちに、そのようになってほしくはないと、目を覚ましていなさいと警告します。私た

ちは、霊の目を覚ましていましょう。主イエスを信じて救いに与った私たちですから、神

との霊的な交わりを深め、救いの喜びを生きる日々を歩みたいのです。日々みことばに親

しみ、祈りを熱くして、主なる神との霊的な交わりを豊かにするのでなければ、私たちは

霊的な眠りに落ち込んでしまい、自己中心の信仰、自己満足の信仰になります。そうでは

なく、神を中心にした信仰へと整えることが大事です。霊の目を覚ましていて、いつ主イ

エスが来られても、喜びと感謝でお会いできるように備えておくのです。

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