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2024年12月1日 礼拝「主の弟子への招き」ルカ14:25~35

 本日からアドベントに入ります。クリスマスを待ち望む期間を過ごすのです。クリスマ

スは、私たちを愛して、私たちを罪と滅びから救うために、神のひとり子が人となられ、

この地上に誕生したことを記念する日です。神が人となられたことの意味を改めて思い巡

らし、感謝と喜びを新たにしていくための日々を過ごすということです。神が人となられ

た目的は、十字架で罪の処罰を受けることです。私たちの罪、全人類の罪に赦しを備える

ために、罪のないお方が、罪を犯さない生涯を送って、罪の処罰を受けたのです。

 私たちキリスト信仰者は、この十字架の死を自分の罪のためであると受け入れました。

主イエスが十字架で流された尊い血によって、私たちは買い取られ、神の子どもとなる特

権が与えられたのです。私たちは代価を払って買い取られて、神の所有となりました。

 今日私たちは、主イエスの弟子となるようにと招かれていることを確認します。主イエ

スは13章で、狭い門から入るように努めなさいと言われました。多くの人が、入ろうして

も入れなくなるからですと、警告したのです。この警告は、主イエスに敵対している人々

にではなく、主イエスとともに歩もうと考えた人々に対しての警告ですから、私たちキリ

スト信仰者に対しての警告として受け止めることが大事です。

 25節。大勢の群衆がイエスと一緒に歩いていました。この人々の多くは、イエスととも

にいれば物質的な祝福に与れると考えていました。霊的な、永遠の祝福ではなく、肉的で

一時的な、地上での祝福を主イエスに期待したのです。彼らは、自分に都合の良い、自分

を満足させてくれる、地上での権力者を求めていました。そのような彼らに、入るように

努める具体的な道、主の弟子となる道に招いたのが、今日の箇所です。

 26節。主イエスは語りかけます。わたしのもとに来るのは良いけれど、それだけではわ

たしの弟子にはなれない。主イエスの弟子となるためには、主イエスを最優先にすること

が必要です。それはまさに、狭い門から入ることです。

 憎むとは、憎しみを抱くことではありません。優先しないことのユダヤ的表現です。自

分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、自分のいのちよりも、主イエスを選ぶ、主イエスを優

先する時、私は、自分の父、母、子、兄弟、姉妹、自分のいのちを憎むと言うのです。

 マタイの福音書10章で、主イエスは弟子たちに「わたしよりも父や母を愛する者は、わ

たしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさ

わしい者ではありません」と言われましたが、同じことです。主イエスを選ぶ、主イエス

を優先する者は、主イエスの弟子となるにふさわしい。親や子どもを選ぶ者、親や子ども

を優先する者は、主イエスの弟子にふさわしくないと言われたのです。

 これはまさに、狭い門から入ることです。主イエス以外のものを、主イエスよりも優先

する者、選ぶ者は、主イエスの弟子となることはできません。主イエスの弟子となるので

なければ、救いに入ることはできないのです。私たちは、この主イエスの招きにどうお答

えするのかは、厳粛な問いかけです。永遠のいのちに繋がること、天の御国に入るか、入

れないかを左右する重大な選択だからです。

 27節。まさに厳しい選択です。自分の十字架として負う覚悟が必要です。家族と主イエ

スとどちらを優先するのか、どちらを選ぶのか。日常生活において、私たちは悩みます。

家族を優先したくなる気持ちは分かります。家族の都合を主イエスに従うことよりも選び

たくなるのも分かります。私たちは家族を愛しています。ユダヤ的表現を使うなら「主イ

エスを憎む」選択をしたくなるのは当然のように思います。しかしこれは主イエスの弟子

となることを妨げるのです。そうして私たちは、地上での一時的な優先順位のはき違えに

よって、永遠の、神が与えようとしておられる霊的祝福を失うことになるのです。

 主イエスの弟子となる、狭い門から入るように努めることが大事です。永遠がかかって

いることを忘れてはなりません。と同時に、主イエスを優先する、すなわち創造者である

神を自分の神とすることを選び取るなら、地上においても祝福されるという主イエスの約

束を確認しましょう。主イエスは明確に約束されました。「わたしの名のために、家、兄

弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを

受け継ぎます」と。私たちは、この主イエスの約束を信じ、その招きに応じるべきです。

主イエスを信頼して、自分の十字架を負って、主イエスに従いましょう。

 主イエスを選ぶ、主イエスを優先するために、主イエスを愛し、主イエス以外を憎むこ

とを選び取るために、主イエスは二つのたとえによって、良く考えるように、正しく計算

するように、その上で選び取るようにと招かれました。永遠がかかる選択です。

 28~30節。一つは、塔を建てる人のたとえです。どのような塔を建てるのか、それはど

れくらい費用がかかるのか、手持ちはいくらあるのか、資金は調達できるのか、いろいろ

と考え、計算して、大丈夫だと確信できれば、塔を建て始めるのが通常です。しかし安易

に考える人は、何とかなると、自分に都合の良いように考え、資金調達の見込みもないま

まに建て始めます。そうして当然の帰結ですが、資金が足りなくなり、土台を据えただけ

で断念することになります。それを見た人々は、彼を愚かな人だと見なすのです。

 これは自分に都合が良いように、自分が満足するように、キリスト信仰を安易に考える

人と言えます。何とかなると考えたとしても、何ともならない結果を迎えるのです。

 31~32節。二つ目は、戦争をする人のたとえです。2万人の兵力で攻めてくる軍勢を前

にして、自分の兵力1万人で迎え撃つことができるか、戦略を考えます。いろいろと戦略

を練るのですが、どうやっても負けるとの結論なら、敵がまだ遠くにいる間に、使者を送

り、講和の条件を尋ねるのです。どれほど理不尽な要求がされたとしても、国が滅ぼされ

ることなく、国民のいのちが守られる方が良いので、その条件を受け入れます。

 私たちは良く考えましょう。主イエスを自分の主とあがめる以外に、私たちの救いの達

成はあり得ないのです。自分が主でありたいとすること、それが罪です。神との講和条件

を受け入れる以外に救いはありません。主イエスを自分の救い主を信じ、自分の主と仰い

で、主イエスの弟子となる以外に、救いの達成はないと認めなければなりません。

 33節。主イエスは招きます。私たちは良く考えましょう。主イエスが与えようとしてお

られる霊的祝福と、地上生涯で得られる物質的祝福、私たちはどちらを優先することが真

の祝福に与ることになるのかを、良く考えることが大事です。主イエスは、自分の財産す

べてを捨ててでも、主イエスの弟子となることを選ぶようにと招きます。財産すべてを憎

むようにと招くのです。主イエスよりも優先してはならないということです。

 私たちは創造者である神が、祝福と恵みに富んでおられると知っています。私たちを愛

して、地上生涯を歩ませ、日々の生活に必要な物質的な祝福を約束しておられます。だか

ら私たちに、物質的な必要の心配をしないようにと招きました。私たちのいのちを保って

おられる恵みの神が、私たちの日々の生活に対しても保証しておられるからです。

 私たちは祝福を備えてくださる神と、神が備えてくださっている物質的な祝福とを逆転

させてはなりません。主イエスの弟子となることは、財産すべてを憎むことですが、主イ

エスの弟子となることによって、委ねられた財産すべてを正しく管理し、真に有益に用い

ることになるのです。そうしてそのような主イエスの弟子たちに、主なる神はさらに豊か

に物質的な祝福を委ねて、活用させてくださいます。これが主イエスの約束です。

 私たちが弟子になるのは、主イエスの、です。人ではありません。牧師でも、有名な教

師や霊的指導者でもありません。私たちは間違わないようにしましょう。人の弟子になる

と、その人の奴隷になり、主イエスを信じていると自分に言い聞かせても、実際には、主

イエスを憎む歩みとなります。その人を主イエスより優先するからです。

 34節。私たちが塩気を保てるのは、主イエスに学ぶことによってです。主イエスを自分

のかしらとして、主イエスが何を教えておられるかを確認し、それを学んで身につけるこ

とが、主イエスの弟子となる道です。狭い門ではあっても、主イエス以外に優先させるも

のがあってはなりません。主イエスを選ぶ、主イエスに聞き従うことを選ぶのです。

 35節。主イエスに従うために、主イエスから聞く耳を持つのです。


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