前回私たちは、神の怒りは、罪を犯している私たちにではなく、私たちにある不敬虔と
不義に向けられていることを確認しました。1章18節にあるとおりです。
創造者である神は、私たち人間を、ご自分のかたちとして、ご自分の似姿に創造された
ので、私たち人間を特別に愛しておられます。しかし義である神は、私たちが犯している
罪を見過ごすことはしません。必ず罰するのです。この神の愛と神の義を正しく知ってお
くことが大事です。愛の神は私たちに悔い改めを求めます。罪から離れるようにと招きま
す。義の神は、悔い改めない者を、その罪のゆえに罰し、滅ぼすのです。
罪とは、創造者である神を否定するそのあり方です。罪人と言われるのは、神の存在を
認めているのに、創造者である神を自分の神としない者を指します。生きるのに必要なも
のが与えられているのに、それを創造者である神からの恵みと認めず、感謝もしません。
その結果、彼らの思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなりました。そうして、偶像礼
拝に、性的倒錯に、さらにしてはならないと分かっていることを行う者となりました。前
回確認したことです。
1章29節以降に、してはならないことが列挙されました。この一つ一つを見ていくとき
に、人は、社会が変わっても、国が違っても、文化や文明が進んでも、何も変わらないの
だと認めざるを得ません。2000年前も現代も同じです。
1節。人をさばくことについて警告がなされます。人をさばきながら、あなたは同じこ
とを行っていると指摘するのです。人をさばいてはならないとは、主イエスも弟子たちに
命じられました。「あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るそ
の秤で量り与えられるのです」と。人ではなく、自分を見るように、自分にさばかれる罪
が指摘されたのなら、すぐに悔い改めるようにと招いたのです。
ローマにある教会、そこに集うキリスト信仰者はユダヤ人もおり、異邦人もいます。そ
のキリスト信仰者たちの、他人をさばく者に対して警告するのです。私たちキリスト信仰
者は、そうでない人たちよりも、より明確に、してはならないことが分かっています。そ
れなのに人をさばくことがあります。人をさばく人は、自分にある罪を認め、悔い改める
ことをしないで、他者のしている悪を指摘してさばくのです。そのようにして自己正当化
しようとしているとも言えます。私たちは知っています。自分の罪を認め、悔い改めるな
ら赦されます。しかし人の悪をひけらかして、自己正当化を図るなら、つまり自分の罪を
認めず、悔い改めないなら、神にさばかれることになることをです。
2~3節。すべて罪を行っている者に、神のさばきは下されます。偶像礼拝をしていな
くても、人を妬んでいることもあります。貪欲ではなくても、不誠実で、情け知らずな人
もいます。ここに列挙されている罪や悪の一つでも心当たりがあるなら、それを認め、悔
い改めなければなりません。他者を断罪することで、自己正当化をしてはなりません。
罪や悪を行っているのに、人をさばくことで自己正当化をしようとしている者が、神の
さばきを免れることはできません。私たちが神のさばきを免れるためには、自分の罪や悪
を正直に認めて、悔い改めること、差し出されている罪の赦しを受け取ることです。
4節。創造者である神は、私たち人間に対して、いつくしみ深く、忍耐強く、豊かな寛
容を示して招き続けます。私たち人間を、ご自分のかたちとして、ご自分の似姿に造られ
たからです。私たちが神の恵みを受けるにふさわしい者だからではなく、神の役に立つ功
績を残すような人物だからでもなく、ただ神が特別な存在として造られたことそれ自体の
ゆえに、神は私たちを愛して、救おうとして、悔い改めに招いておられるのです。
この招きを無視してはなりません。退けてはならないのです。私たちは自分の罪や過ち
を正直に認めて、なおも愛してくださる神の、いつくしみ深さと忍耐と寛容を知って、悔
い改めに進むことが大事です。神のいつくしみを、決して軽んじてはならないのです。
5節。しかし多くの人は創造者である神を侮ります。神のいつくしみ深さと忍耐と寛容
を軽んじるのです。そうして心を頑なにして、自分の罪や過ちを認めようとしません。頑
なに悔い改めようとしないので、神の正しいさばきが現れる御怒りの日を、自分のために
蓄えることになります。愛の神は、いつくしみを持って、罪の赦しを備えて、悔い改めに
招いていますが、その神のいつくしみを軽んじる者は、罪に向けられた神の怒りから逃れ
ることができません。悔い改める心のない罪人が被らなければならない悲劇です。
6節。公正な神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報います。後にパウロは、罪の
報酬と神の賜物をまとめます。罪の報酬は死です。罪を犯した者の報いは死です。公正な
義の神は、どんな些細な罪であっても、その罪を見逃すことをしません。必ず罰するので
す。罪の報酬は死だからです。しかし、罪を犯した私たちに、愛の神は永遠のいのちを賜
物として与えられました。「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリス
ト・イエスにある永遠のいのちです」とあるとおりです。愛の神からの、永遠のいのちと
いうプレゼントを拒む者は、報いとしての死を受け取ることになるのです。永遠のいのち
は、私たちの主キリスト・イエスにあります。主イエスを自分の救い主、自分の主とする
ことを拒む者は、永遠のいのちを拒むことになるのです。
7節。私たち人間は、創造者である神のかたちとして、神の似姿に造られたので、心に
神が定めた善悪の基準をもっています。良心と言い換えることができます。人間はだれも
が頭では善悪を判断できます。何が良いことで、何が悪いことかを判断できるのです。そ
れで社会の秩序が保たれています。
しかし人は罪に陥ったことで、善を行ういのちを失いました。悪を止めるいのちを失っ
たのです。だから正しいと判断しても、その善を行おうとしないこともあります。悪いこ
とだと判断しても、誘惑に引き込まれてその悪を行ったり、進んでその悪を行うことさえ
します。そしてこの世では、それらの悪を行う者が正しくさばかれないこともあります。
罰せられないままであったり、善を行う者が正しく評価されないこともあるのです。
神は公正なお方です。人が良心に従って善を行い、神が備えておられる栄光と誉れを朽
ちないものを求める者には、永遠のいのちをお与えになります。しかし私たちは正直に認
めます。自分はすべてにおいて、良心に従って善を行えないということをです。ある程度
は努力できたとしても、完全には善を行えないのです。罪人となった私たちは、自分の肉
の頑張りで、永遠のいのちを受け取ることはできないことを知っています。
8節。すべての人は、良心を無視して、いや良心に逆らって、自分さえ良ければという
利己的な思いから真理を退け、不義であることを行うことがあります。人と比べるなら、
道徳的な歩みをしているとしても、公正な神の基準に照らすなら、神を完全に満足させる
ことはできないのですから、義の神は、その不義に怒りと憤りを下さざるを得ません。
9~10節。ここには、ユダヤ人だから、ギリシア人だから、日本人だから、という区別
はないことが分かります。公正な義の神は、どの民族、人種であっても、悪を行うすべて
の者の上に、苦難と苦悩を下し、善を行うすべての者に、栄光と誉れと平和を与えます。
ユダヤ人であろうが、ギリシア人であろうが、日本人であろうが、変わりはないのです。
悪を行おうとする者か、善を行おうとする者かで、苦難と苦悩か、栄光と誉れと平和か、
が下されることになるということです。
11節。神にはえこひいきがありません。創造者である神が、すべての人を、ご自分のか
たちとして、ご自分の似姿に創造されたから、すべての人に罪の糾弾をする権威を、すべ
ての人に罪の赦しを差し出して、悔い改めに招く権威を持っておられるのです。さばきを
行う権威を持っておられるのは、創造者である神だけです。罰し、滅ぼす権威を持ってお
られ、罪を赦し、救う権威を持っておられるのは、創造者である神だけです。
ユダヤ人は神の民としての特別な使命が委ねられました。全世界に創造者である神の祝
福を分かち広める使命を委ねられた、祝福の民です。しかしユダヤ人は、自分たちだけが
神の祝福を受ける民であり、他の民族は神に呪われていると、自分勝手な選民意識を持ち
ました。そうして、主イエス・キリストを信じる信仰によって、全人類は救われるという、
神の救いの計画を否定し、ナザレのイエスを十字架につけて殺したのです。それは、創造
者である神への敵対行為であり、その罪のゆえに、ユダヤ人の多くが退けられました。
主イエスが十字架で、すべての人の罪の処罰を身代わりに受け、死者の中から復活され
たことで、救いのみわざは完成しました。主イエスを信じる信仰によってのみ、救いに与
ることができる新約の時代になったのです。この結果、ユダヤ人だから、ユダヤ人でない
からとの区別は全くないことが明白になりました。罪を悔い改めることをしないで、自分
を神の立場に置き、悪を犯し続けるのか、罪を悔い改めて、創造者である神を自分の神と
して、聖霊の助けを受けて、善を行おうとするのかが問われているのです。それはそのま
ま、神に対する態度であって、悪い刈り取りをすることになるのか、良い刈り取りをする
ことになるのかに分かれるということです。私たちは、自分は罪人であったし、今も罪の
誘惑に晒されて、善ではなく、悪を行う危険があるということを正直に認めたいのです。
キリスト信仰者とされた私たちですから、人をさばくことをしないで、神の御前での自
分の歩みを吟味し、主が良しとされ、主が喜んでくださる歩みを選び取りましょう。
神にはえこひいきがありません。愛の神は、すべての人に罪を知らせ、赦しを備えて悔
い改めに招いておられます。義の神は、自分に罪があることを認めず、悔い改めることも
しない、すべての者を、その罪のゆえに罰し、滅ぼされます。私たちは、創造者である神
を正しく知り、正しく恐れ、主イエス・キリストの十字架で現された、神の豊かないつく
しみの中を歩み続けましょう。
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