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2024年11月10日 礼拝「子どもたちをわたしのところに」ルカ18:15~17 子ども祝福

 今、私たち光る海教会に、多くの子どもたちが与えられていることは、本当に感謝なこ

とです。これらの子どもたちが、一人残らず、主イエスを自分の救い主と信じ、自分の主

とあがめて、地上生涯を主なる神とともに歩む者となれるように、祈り求めましょう。こ

れらの子どもたちが、5年後、10年後、15年後に、教会の中心となって、教会形成に、

福音宣教に、主にあって励んでいる姿を望み見たいのです。この子どもたちが、喜んで主

と主の教会に仕える信仰者として成長していることを、祈り求めましょう。

 私たちが牧師家族として教会に仕えたのは、40年近く前になりますが、その最初に仕え

た教会で、私たち家族は支えられ、育てられました。3人の幼い子どもたちもお世話にな

り、いろいろな面で助けられ、私自身も牧師として育てていただき、感謝でした。

 私たちが招聘されたとき、その教会は設立30年ほどになっていましたが、そこには20

才未満の青少年や子どもたちはほとんどいませんでした。教会の様々な働きは婦人たちが

中心に担っていましたが、その子どもたちは教会に来なくなっていたからです。かつては

教会学校に、たくさんの子どもたちが来ていたというのです。とても残念に思いました。

 光る海教会は今、大人と子ども一緒の礼拝をしています。大人の礼拝に子どもを参加さ

せるということではなく、主なる神への礼拝は、大人も子どもも、ともに招かれているの

であり、主にある神の家族として、一緒に父なる神の御前に出るということです。

 子どもたちは小さいからまだ分からないと、大人が判断して、子どもたちを主への礼拝

から除外してはならないと肝に銘じましょう。子どもは子どもなりに、主への礼拝を身に

つけていきます。子どもにはつまらないだろうと、勝手に決めつけてはなりません。福音

の恵みは赤ちゃんの皮膚からも浸透すると言われます。親と一緒に主への礼拝の場で過ご

し、親や大人たちが、主なる神を心からあがめ、感謝し、喜んで礼拝を献げている姿は、

子どもたちの主なる神への信仰を養う模範となるのです。

 私たちキリスト信仰者は、自分好みの礼拝ではなく、主なる神があがめられる礼拝、主

が求めておられる礼拝を献げることが大事だと分かっています。自分たちが喜び、満足す

る礼拝ではなく、主なる神を喜び、主に栄光を帰する礼拝を献げることが重要です。子ど

もたちも成長します。成長させてくださるのは神ご自身ですから、必ず成長するのです。

子どもたちも、主への礼拝の大切さを、幼いときから学び、身につけることが重要です。

 15節。人々は子どもたちまで、主イエスのところに連れてきました。主イエスに触れて

いただき、子どもたちをも祝福してほしいと期待したからです。しかし弟子たちは、それ

を見て叱りました。どうして弟子たちは、子どもたちを連れてきた人々を叱ったのでしょ

う。考えられることの一つは、主イエスの働きの邪魔になるということでしょう。また主

イエスを煩わせてはならないとの配慮もあったと思われます。

 子どもはじっとしていられないし、静かにしていられない。主イエスの話を聞きに来て

いる人々に、静かに話を聞いてほしいとか、主イエスから病気を直してもらいたいと考え

てきている人々の邪魔になると考えたのでしょう。子どもたちを連れてきた人々は、弟子

たちに叱られて、ばつの悪い思いをしたに違いありません。

 16節。主イエスのことばに、耳を傾けましょう。主イエスは、子どもたちを邪魔とは考

えませんでした。子どもたちを迎え入れ、祝福されたのです。マルコの福音書では、主イ

エスが弟子たちを憤ったと記されています。そして弟子たちに、子どもたちを、わたしの

ところに来させなさい、邪魔をしてはいけませんと言われたのです。主イエスは子どもた

ちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福されました。

 子どもたちを主イエスのところに連れて行くのを妨げようとするなら、主イエスの憤り

を買うことになります。主イエスは、子どもたちがご自分のところに来ることを喜び、親

や大人たちに、子どもたちを主イエスのところに連れて行くことに、積極的であれと教え

られました。大人もこどもも、主イエスのところに行くことに積極的であるべきです。

 17節。主イエスは弟子たちに言いました。それはそのまま、私たちキリスト信仰者に言

われたことです。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入るこ

とはできないと。これは真剣に受け止めるべきことばです。決してそこに入ることはでき

ないと言われているからです。子どものように神の国を受け入れることが大事です。私た

ちは子どもたちを邪魔者扱いにするのではなく、子どもたちから学ぶことが大事です。子

どもたちは私たちが、その信仰姿勢を見習うべき教師だということです。

 子どものようにという意味を、間違えてはなりません。小さな子どもは純真無垢で、罪

がないように見える。だからそのようにふるまわなければ、神の国に入れないと考えては

ならないのです。どんなに小さな子どもでも、立派な罪人です。誰からも教えられないの

に、いつの間にか悪いことを覚えます。しかも悪いと自覚しながら、大人の顔色や回りの

状況を見て、悪いことを行うのです。そして悪いことをしたと自覚しているので、隠れま

す。言い訳もします。大人もこどもも同じ罪人だということです。

 人はすべて、生まれたときから立派な罪人です。創造者である神に聞き従うことをしな

い罪人です。罪人だから具体的な悪を覚え、それが悪いと分かっていて、行うのです。だ

から親は、大人たちは、子どもが小さいうちから、善悪をしっかりと教え、善を行い、悪

を退けることを教えていく必要があるのです。

 特に、罪であること、いのちの危険に関わることは、厳しく教えなければなりません。

甘やかして、何でも好き勝手にさせることは、子どもを愛していないことです。暖かく見

守る必要があるのは、その子の成長に伴って改善されていく事がらについてであって、罪

と無関係のことに関してです。しかし罪に関わること、いのちの危険に関わることは、子

どもの人格を尊重しながらも、厳しく教えていかなければならないのです。ある時には体

罰を与えなければならない時もあるでしょう。しかしそれはしなければならないのです。

 子どものようにとは、子どもとしての自覚を持ってということです。親との関係におけ

る子どものようにという意味です。子どもは親の保護を疑いません。子どもは親を信頼し

ています。親への信頼をなくしてしまった子どもは悲劇的ですが、子どもは親の愛を疑わ

ないのです。叱られても、厳しく罰せられても、その時は泣いても、すぐに何もなかった

かのように親の許に帰っていきます。子どもは壊れた関係を修復することなど何も考えず

に、ただ自分がその人の子どもであるがゆえに、親の許に帰るのです。幼い子どもほど、

親と子の関係を疑うことはしません。

 親である私たちは、子どもの信頼を壊さないように、子どもを愛して、育てていく責任

があるのです。子育て真っ最中の親の方々は、子どもたちの信頼を壊さないように、しか

し主にあっての善悪をしっかり教えて、子育てに励んでください。

 親の愛を全く疑わない子どものように、父なる神の愛を信じ、父なる神の愛の中を生き

ていく、父なる神を信頼しながら、父なる神と共に生きる。神の国とはそのような者たち

のものなのです。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入るこ

とはできません。私たちキリスト信仰者は神の子どもとされたのですから、父なる神を信

頼して、自分の主とあがめて、その愛の中で、神に聞き従って歩むのです。

 また子どもは素直です。プレゼントを躊躇せずに受け取ります。大人になるに従って素

直さに欠けていくのです。しかし神の国に入るためには、神からのプレゼントを素直に受

け取らなければなりません。創造者である神が与える救いは、罪の赦しに基づく救いだか

らです。差し出された罪の赦しを感謝して、素直に受け入れる必要があるのです。

 罪の赦しには、人間のどのような功績も無意味です。道徳的に生きたとしても、それで

罪の赦しが得られるのでもありません。創造者である神の恵みによって備えられた、主イ

エス・キリストの十字架による赦しを受け入れる以外に、罪からの救いはないのです。だ

から子どものように、この神からのプレゼントを感謝して、素直に受け取るのでなけれ

ば、神の国に入ることはできません。決して入れませんと断言されています。

 すべての人は、大人であっても、子どもであっても、創造者である神からの霊的祝福を

受ける必要があります。子どもだからとか、大人だからとかと、区別すること自体が間違

いです。そして子どもたちは、自分から創造者である神の祝福を求めることはしません。

その本質的な必要も、子どもたちは知りません。だからキリスト信仰者である大人が、そ

の本質的な必要を、子どもに教え、味わわせていく責任があるのです。親は、そして大人

である私たちは、子どもたちに主イエスの祝福を味わわせるために、神への礼拝の場に連

ならせることに積極的であるべきなのです。

 詩篇に、子どもたちは主の賜物とあります。主なる神が子どもたちを、私たち親に委ね

られました。子どもたちは親の所有物ではありません。子どもたちに、神の祝福を味わわ

せるために、委ねてくださった存在であると認めなければなりません。だからこそ、主イ

エスのところに連れて来ることに積極的になる必要があるのです。

 子どもたちはずっと静かにできるわけではありません。集中力も続きません。子ども一

人ひとりも違います。静かに過ごすことを身につけやすい子どももいれば、難しい子ども

もいます。しかし子どもたちは成長していきます。少しずつできることを増やしていくよ

うに導くのも、親であり大人です。内緒話を身につけることも必要です。音が出ないもの

を使って過ごすことも必要です。どうしても騒がしくなったときに、和室などを使うこと

はあっても、礼拝の場に、子どもたちのための席を確保しておくことが大事です。

 主への礼拝は、一週間の中の、日曜のごくわずかの時間です。それ以外は、意識しなけ

れば、創造者である神と無関係に過ごす日々となります。だからキリスト信仰者の親は、

日々子どもと一緒に、主なる神の前に出る時間を確保する努力が必要です。聖書を読み、

祈る時を持ち、主イエスを信じる信仰を伝え、霊的に養い育てていくのです。

 大人も子どもも、この世でどれほど成功を収めたとしても、全世界を手に入れるような

権力を得たとしても、まことのいのちを損じたなら、何の益もないのです。この地上での

成功を最大の目的にするのではなく、永遠のいのちに生きる者となれるよう、私たちの価

値観を正さなければなりません。主イエスを信じる信仰によって、罪の赦しを受け、罪か

ら救われて、創造者である神とともに歩む、これを最大の目的とするのです。

 子どもたちをわたしのところ来させなさいと、主イエスは命じられました。この主イエ

スの命令に、私たちは心から同意し、従って、子どもたちの救いを祈り求め、その実現を

望み見ましょう。


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