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2024年11月3日 礼拝「神の招きを拒む者たち」ルカ14:15~24

 皆さまはこれまで、どのような集まりに招待されたことがあるでしょうか。その集まり

は皆さまにとってどれほどの価値があり、どれほどの喜びをもたらしたでしょうか。

 私たちは本来、招待されることそれ自体を喜び、誉れを覚えます。しかしその集まりが

自分にとって、どれほどの価値があるかによって、その対応を変えます。その招待が重要

であると思えれば、その招待に応じようとして様々な調整をして、出席をします。

 私たちも様々な招待を受けます。学校からはクラス懇談会や授業参観、運動会などがあ

るでしょう。結婚式に招待されることもあります。何らかの祝賀会に招かれることもあり

ます。すべてに出なければならないことではありません。その招待を断ることや無視する

ことも自由です。招待に応じるか、拒むかは、招待される側で決めて良いのです。

 さて私たちは今、主への礼拝に集まっています。この礼拝の主催者は主なる神です。主

なる神がご自分を礼拝する機会として、一週間の六日と一日を区別して、安息日を定めら

れました。新しい契約においては、主イエスを信じることが契約の条件であり、信じた者

は神の子どもとされる特権が与えられます。今は、この契約を有効にした、主イエスの復

活の日を記念して、週の初めの日、日曜日に主への礼拝の日が定められています。

 初めの契約では、神の民とされたイスラエルの民が安息日を守ることが、神との契約の

条件でしたから、安息日規定を破ることは、死に定められました。新しい契約に生きる私

たちは、主イエスを信じること、あの十字架と復活が自分のためであると受け入れること

が契約の条件ですから、安息日規定を破ったとしても、死に定められることにはなりませ

ん。しかし主への礼拝を拒むこと、軽んじることが何を意味するのか、その結果、どのよ

うな事態を招くのかを知っておくことは大切です。今日は、このことを確認します。

 主なる神への礼拝に招いているのは、八重山福音光る海教会ではありません。牧師とし

て立てられている者でもありません。その群を代表する組織体でもないのです。主なる神

がご自分を礼拝する機会を備え、私たちを招かれました。主なる神が招待者です。

 私たちはかつて、創造者である神を知らず、自分の主と仰ぐことをせず、自分の目に正

しいと思えることを行っていました。その結果は、こんなはずではなかったと思う間違い

であったり、自分の弱さやいたらなさのゆえに、罪や過ちを犯していたわけです。

 そうして、まことの神、創造者である神から離れていることそれ自体が罪であり、的外

れで歩んだ結果、様々な罪を犯していたのです。罪の報酬は、死です。人間には、一度死

ぬことと死後にさばきを受けることが定まっています。そのような私たちを、主なる神は

あわれみ、可哀想に思って、罪に赦しを備え、罪からの救いに招いて、創造者であるまこ

との神を自分の神、自分の主とする者としてくださったのです。主イエスを信じる信仰に

よって、私たちは、造られた本来のあり方に立ち返ることができました。この事実を私た

ちは心から喜び、主なる神に感謝しました。この認識、この自覚を忘れてはなりません。

罰せられ、滅ぼされて当然の罪人である私たちが、主なる神の一方的な恵みによって罪か

ら救われ、主なる神を自分の主とあがめて、まことの神を礼拝する者とされたのです。

 これがどれほどの大きな栄誉であるかを、私たちは忘れてはなりません。私たちが主な

る神への礼拝を献げる者とされたのは、私たちが選んだからではなく、滅ぼされるべき罪

人である私たちを、主なる神があわれんでくださり、一方的な恵みによって、主なる神を

自分の神として仰ぐ者とするために、罪を赦し、罪から救い出してくださったので、私た

ちは、聖なる神を礼拝する者として、御前に出ることが許可されたのです。

 今日の聖書の箇所で、主イエスは一つのたとえを語られました。ある人が盛大な宴会を

催して、大勢の人を招いたことのたとえです。ある人とは主なる神、大勢の人とは自分た

ちこそ神の民であると自負しているユダヤ人たちがたとえられています。盛大な宴会とは

主なる神との親しい交わりであり、主なる神に対して、感謝と喜びをささげる場でした。

 しかし招かれていた人たちは一様に断り始めたのです。その理由が18~20節で語られま

した。畑を買ったので、見に行かなければならない。牛を5くびき、10頭を買ったので、

それを試しにいくところだ。結婚をしたので、行けない。ということです。

 その人たちにとっては、確かに重要な事柄でしょう。どれほど盛大な宴会だとしても、

自分の人生の記念すべき重要な出来事に比べるなら、断ってもしかないと思えたのです。

そして宴会への招きを断りました。この人々は、この宴会はさほど重要ではないと考えま

した。招かれたのは光栄だけれど、そのために自分の都合を後回しにするだけの価値はな

いと判断したのです。この招待が何よりも光栄なものだと判断するなら、畑を見に行くこ

とや牛を試すことを後回しにしたでしょう。結婚したのなら、夫婦一緒に、その宴会に参

列させたもらうことを考えたはずです。

 主イエスがこのたとえを語られたのは、15節のことばを聞いたからでした。主イエスと

ともに食卓に着いていた客の一人が、神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょ

うと口にした、そのことばに呼応するかのように、このたとえを話したのですから、ある

人が催した盛大な宴会とは、神の国での食卓をたとえているということです。

 そして24節で、主イエスは断言されました。あの招待を断った人たちの中で、私の食事

を味わう者は一人もいませんと。なかなか厳しい宣言であると言えます。神の民とされ

て、主なる神を証する使命を委ねられたイスラエルの多くが、天の御国での食卓に着けな

いとの宣言です。その理由は、彼らが主なる神を優先しないで、自分の都合を優先したか

らであり、彼らの実態は、口では神をあがめていると言いながら、その心は、主なる神を

軽んじていたのです。その現状を主イエスは憂えて、主イエスの話を聞きに来ているユダ

ヤ人たちに、警告と招きとしてのたとえを話されたのです。

 私たちも、自分にとって重要と思う招待には、時間や都合をやりくりして、その集まり

に参列します。しかし重要とは思わないなら、自分の都合を優先して、その集まりに参列

しません。創造者である神を、心から自分の神としてあがめているかは、毎週の、主なる

神を礼拝する、その姿勢で確認できます。主なる神が週の一日を聖別して、ご自分への礼

拝の日と定められたことは、私たちが創造者である神に造られた世界に生きていること、

また私たちが、神の子キリストの十字架の死と復活のみわざによって、罪と滅びから救い

出されて、神の子どもとされる特権に与っていること、これらを覚えて、主なる神ととも

に生きる信仰生活を歩ませる基本だからです。この神の招きを再確認したいのです。

 もう一度、自分の神への姿勢を振り返り、吟味しましょう。主なる神は、自分にとっ

て、どれほどの価値があり、どれほど重要なお方となっているのでしょうか。その、私た

ちの認識、自覚が、礼拝への招きに対する応答となって現れているということです。

 このたとえで、招待されていた人たちは、この宴会を蔑んだのです。招待された方を蔑

んだので、自分の都合を優先させました。しかしこれは、大きな間違いでした。元々招待

される価値も権利もない者が、一方的な恵みと恩寵の故に招かれたのに、自分には行く権

利があるし、断る権利もあると高慢になっていたのです。そしてその招待を断りました。

自分のとっての大切な用事があるのだから、断るのは当然だと考えたのです。

 さて、私たちは毎週、神への礼拝に招かれています。主への礼拝を献げられることが、

どれほどの光栄であり、栄誉であるかが分からなければ、主への礼拝を退けて、自分の都

合や好みを優先することに平気になります。しかし主への礼拝を軽んじることは、礼拝の

主催者であり、礼拝の対象者である、主なる神を軽んじることなのです。

 私たちが、主なる神に対してどれだけの価値を置いているかは、主なる神を礼拝しよう

とする、その姿勢で確認できます。私たちは主への礼拝に、どれだけの価値を表している

のか確認しましょう。軽んじているなら、悔い改める必要があります。礼拝を献げなくて

も良いと思うようになっていたら、霊的危機に陥っています。それを放置するなら、信仰

そのものが変質し、結局は自己中心の、罪人としての歩みに戻ってしまいます。

 私たちは、天の御国での食卓、主なる神との食事の交わりの幸い、光栄を、その前味を

主なる神への礼拝で味わっているのです。心からの喜びと感謝で礼拝を献げましょう。


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