創造者である生けるまことの神は、私たちに、思い煩うことを止めなさいと命じます。
何も思い煩わないようにと招くのです。この神からの語りかけに対して、みなさまはどの
ように思うでしょうか。そんなこと簡単に言わないでと思うでしょうか。私の実情も知ら
ないのに、無責任なことを軽々しく言ってほしくないと思ったでしょうか。
しかし冷静に考えてみましょう。自分の人生、その日々を、思い煩いに振り回されず、
心配で心が乱されないで過ごせるなら、その方が良いと思わないでしょうか。私たちは毎
日、いろいろな問題や、様々な課題に直面して、心配になります。しかし心を乱されない
で、それらに適切に対応して歩めると約束されているのです。
私たちは気になります。親であるなら、自分の子どもの成長のこと、その教育のこと、
交友関係のこと、その将来のことが気がかりです。勤労者であるなら、自分の仕事の進み
具合や、職場での対人関係のこと、また会社の存続について気になることもあります。年
配者であるなら、健康や体調が気になります。定年期を迎えるなら、定年後どうするか。
将来どのようになるのか。老後はどうなるのか、など心配の種は尽きません。何でも心配
することができます。その時その時に、心を乱されずに、いつも平安で、適切な対応がで
きるなら、これほどの幸いはありません。
しかし何も思い煩わないで生きて行くことなど、本当にできるのでしょうか。なぜ聖書
は私たちに、何も思い煩ないでと招くのでしょうか。なぜ思い煩ってはいけないのでしょ
うか。また、そのように勧める、そこに招く根拠はどこにあるのでしょうか。
6節。思い煩いは「心配」とか「配慮」とも訳されることばが使われています。心配す
るとか、配慮することのすべてが悪いわけではありません。その心配や配慮がどのように
作用するかによって、悪い結果を生じさせるのです。またこの思い煩いは「分ける」「引
き離す」「裂く」「破る」という意味もあります。思い煩いがもたらす悪い結果を連想さ
せます。私たちは思い煩うことによって、心がいろいろと分散させられ、なすべきことに
集中できなくなり、その結果として、自分自身が引き裂かれてしまうのです。思い煩いや
心配症がひどくなると、体調を崩す原因になります。胃に潰瘍を作ったり、活力が失われ
たり、心因性の様々な障害を引き起こす要因ともなります。その結果、日々起こってくる
問題や課題に対して、適切に対処する力が奪われてしますのです。
思い煩いは、将来を自分の思い通りにしようとすることで起きます。しかし将来を確定
することなど誰にもできません。将来は自分のものではないので、どんなに心配しても、
思い煩っても、どうにもなりません。将来の計画はあくまで想定であって、断定はできな
いのです。しかし思い悩む人は、こうなるのではと想像します。いやそうではない、こう
ではないかと思い直します。確信は持てないのに、必要以上こだわり続け、心配するので
す。その結果、悩み、思い煩うことで自分を引き裂くのです。
聖書は、何も思い煩わないでと招きます。そして主イエスも、心配しなくてよいと招く
のです。マタイ6:34「明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心
配します」と。主イエスは私たちに「なぜ心配するのですか」「心配しなくてよいのです」
と言われます。どうすることもできないのだから、心配することはやめなさいと。
「明日」という、自分にはどうもできないことにこだわってはなりません。明日への心
配が、今日の自分を引き裂くのは間違っています。明日のために計画することと、明日の
ために思い悩むことは違います。将来のための備えは大切です。しかし多くの人々は、将
来を自分の思い通りにできるかのように考えて計画を立てて、自分の計画、自分の願いと
違ってくると、なぜそうなったのかと悩み、この先どうなるのかと心配をします。あれこ
れと思い煩うことで自分が引き裂かれ、今の現実に対処する活力が奪われ、悲嘆に暮れま
す。そうして失意のどん底に落されてしまうのです。
明日は、自分のものではありません。「明日のことは明日が心配します。労苦はその日
その日に十分あります」と主イエスは確認させます。自分の心の焦点を、明日にではなく
今日に合わせるのです。今日の問題に対処することは、思い煩いにはなりません。今日の
問題解決のために手を尽くすことが大切です。
主イエスが私たちを招くのは、今日何をすべきかということです。今日なすべきことを
直視し、それに全力を傾けることです。明日のこと、将来のことは、神の御手に委ね、今
日対処すべき課題を一つ一つ解決していくことに心を向けるのです。私たちが取り組むべ
き労苦は、その日その日に十分あるのです。そして今日の労苦に対応することで、思い煩
いから解放されることにもなるのです。
思い煩っている者は、今日なすべきことができなくなり、問題は先延ばしになります。
そして新しい今日もまた、同じように思い悩んだまま過ぎていき、将来を悲観する思いは
強くなります。悪循環です。主イエスは、明日のことまで心配しなくてよいと語り、今日
なすべきことに全力を注ぐようにと招くのです。思い煩うことを止め、解決を模索し続け
るなら、必ず解決の道は開かれると約束しておられます。
6節。思い煩いからの解放の秘訣は、すべてを主なる神に委ねることです。何も思い煩
わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願
い事を神に知っていただきなさいと招かれます。まず感謝しましょう。なぜ感謝が必要な
のでしょう。願い事を神に知っていただくだけでは、思い煩いから解放されません。願い
事を自分で手に入れようとして、心が支配されているので、思い煩いが続くからです。
思い煩いそのものを神に委ねて、まず感謝する。感謝している時、思い煩いません。感
謝している人は思い煩わないのです。私たちが思い煩うのは、感謝できないことに対して
です。だからあらゆる場合に、感謝しなさいと招くのです。自分ではどうすることもでき
ないような問題が生じた場合も、まず感謝し、すべてを支配しておられる、生きておられ
るまことの神に委ねなさいと招くのです。その時の約束が7節です。神の平安が、あなた
の心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。感謝して明日を神に委ね、今日
なすべきことに全力を注ぐこと、これが思い煩いから解放される秘訣です。
でも、と言うでしょう。どうして困難な状況や問題を抱えているのに感謝できるのか。
その困難は、ある人にとって、重い病気で苦しんでいることかもしれません。ある人に
とって、借金の返済に途方に暮れていることかもしれません。ある人にとって、失業して
収入の望みがないことかもしれません。八方塞りのような状態にあり、二進も三進もいか
ないような状況にあるのに、その場合にも、どうして感謝できるのか、と。
しかし聖書は招きます。生きておられるまことの神は、あなたを愛しておられるので、
あなたにはそれができる、と。さらに全能の、祝福に満ちておられる神、すべてを益に変
えることのできる方に委ねることで、感謝できるのだ、と。生きておられるまことの神の
愛と全能とを確認して、すべてを最善に導いてくださる神を信頼するのです。そして委ね
るのです。愛と恵みに満ちておられる、祝福の神は、私たちの地上生涯が続く限り、必要
をすべて備えてくださるお方だからです。このお方を信頼して、すべてを委ねて、あらゆ
る場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、自分の心と思いがキリスト・イエ
スにあって守られ、今日を力強く生きるいのちが与えられます。
このすばらしい人生は、だれもが自分のものとすることができます。主イエス・キリス
トはすべての人を招いておられます。マタイの福音書11章28節。「すべて疲れた人、重荷
を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」
6~7節。だれでも主イエスのもとに行くなら、主イエスは神の平安でその人を覆われ
ます。創造者であるまことの神から離れて生きていた人が、全能の神に導かれて、明日を
心配しないで、今日を生きるという本来の生き方に立ち返ることになるのです。
そのために、主イエスは十字架で死なれました。私たちが犯してきた罪に対する、当然
受けなければならない処罰を、主イエスが十字架で、私たちの代わりに受けて、私たちに
罪の赦しを与え、私たちを永遠のいのちに生きる者としてくださったのです。
私たちは主イエスに愛されています。いのちを捨てるほどの愛で、主イエスは私たちを
愛して、私たちを罪と滅びの中から救ってくださったのです。主イエスの、この愛を自分
のものとして味わい知るとき、あの十字架の死は、私のためであったと受け入れ、自分の
罪を悔い改めて、創造者であるまことの神とともに生きることを始めるなら、全能の神の
私への愛、私のための最善が備えられていることを確認して、歩むことができます。
その時、明日のための心配から解放されます。あらゆる場合に、感謝をもってささげる
祈りと願いによって、自分の願い事を神に知っていただけます。私たちは思い煩いから解
放され、さらに、生きておられるまことの、全能の神の平安に満たされます。
6~7節。主なる神は、何も思い煩わないでと招きます。すべてを委ねるようにと招く
のです。私たちは頭では分かっています。思い悩んでも、心配し続けてきても、何も変わ
らないこと、それで状況が好転することは一切ないことを。
だから心配するのではなく、すべてを知っておられ、すべてを益に変えてくださる神、
愛と恵みに満ち、真の祝福に与らせてくださる全能の神に、すべてを委ねて、思い煩いか
ら解放されて、今日なすべきことに精一杯取り組むのです。主なる神が私たちのために心
配してくださいます。事を最善に導き、すべてのことを益に変えてくださるのです。神が
私のことを心配してくださるという、この幸いを自分のものとするのです。詩篇55篇22節
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