前回私たちは、17節までを見てきました。17節に、福音には神の義が啓示されている
とあります。福音は良い知らせ、喜びの知らせです。主イエス・キリストを信じるなら罪
の赦しに基づく救いが与えられるという神からのメッセージが福音です。その福音に神の
義が啓示されています。これは福音を信じるなら救われる。しかし、福音を拒むなら救わ
れないというメッセージです。主イエス・キリストの十字架の身代わりの死を自分のため
であると受け入れるなら、どれほど極悪非道の人生を歩んできたとしても、その人の罪は
赦され、救われます。この福音はそのまま、この福音を拒むなら、すなわち主イエスの身
代わりの死を自分のためであると受け入れないなら、罪の赦しはなく、その人が犯してき
た罪のゆえに罰せられ、滅ぼされるというさばきのメッセージとなります。
18節。神は怒っておられます。神は何を怒っておられるのでしょうか。神の怒りは天か
ら啓示されています。主なる神が、神の怒りについて明らかに示しておられるのです。神
は人が犯している不敬虔と不義に対して怒っておられるということです。これは私たちが
知らなければならない、霊的な真理です。不敬虔とは主なる神に対する罪です。創造者で
ある神を自分の神としない、神に感謝をしない、そして神ではないものを自分の神とす
る、神への冒瀆の罪です。不義とは人に対する罪です。人に対して義を行おうとしない
様々な悪、人の権利を奪う様々な行為による罪です。
私たちは、神の怒りについて知っておきましょう。創造者である神は、罪人であり、罪
を犯している私たちを怒っておられるのではないという事実です。これは感謝です。不敬
虔で、不義を行っている私たちを、主なる神はなおも愛しておられるのです。
神の怒りは、私たちが犯している不敬虔と不義に向けられています。私たちが、頑なに
罪を悔い改めようとしなければ、赦されないままになっている私たちの不敬虔と不義に向
けられたその怒りが、私たち自身に及ぶことになるのです。愛の神は、私たちを愛するが
ゆえに、罪の赦しを備えて、悔い改めに招いておられるのです。
19節。人は謙虚になるなら、創造者である神について知ることができます。創造者であ
る神が、ご自分について、その存在について、人に明らかにされているからです。
20節。私たちが、創造者であるまことの神を知ることができるのは、造られた世界、被
造物によってです。この世に存在しているすべてを謙虚に調べるなら、そこに創造者であ
る神がおられると分かるはずです。
私たち人間の多くは、この世界が偶然に、何もないところから自然発生的に存在したと
言います。多くの科学者たちがそのように言うので、それが真理だと思うのは当然かもし
れません。しかし自然発生的に、宇宙が、地球とその中の様々なものが生じてきたとする
には、冷静に考えると無理があります。しかし人間は高慢になって、自分たちがそのすべ
てを解明できると考え、納得できる説明をしようとしているのです。
宇宙の始まりについて、科学者たちが研究しています。宇宙誕生の秘密を明らかにしよ
うとしているのです。宇宙に始まりがあるなら、宇宙誕生の前に、宇宙を誕生させた何か
が存在することになります。聖書は、創造者である神が万物を創造したと宣言します。
生命も不思議です。生命はどのようにして生み出されたのか。多種多様な植物はどのよ
う存在したのか。多種多様な動物はどのよう存在したのか。聖書は宣言します。創造者で
ある神が種類に従って植物を、種類に従って魚や鳥を、地を這うすべてのものを、種類に
従って動物を創造された、と。現代の優れた科学技術を行使しても、いのちを生み出すこ
とはできないのです。どのようにしていのちは生み出されたのでしょう。
私たちが謙虚になるなら、被造世界に創造者である神を見出すのです。創造者である神
が天地万物を創造されました。いのちを生み出し、各種の植物、各種の動物、各種の生き
物を、それぞれ種類に従って創造されたのです。そうして創造のクライマックスとして、
私たち人間を、創造者である神のかたちとして、神の似姿に、男と女に創造しました。人
間だけを特別に、人格を備える霊的で、ユニークな存在として造られたのです。
20節。生けるまことの神は霊ですから、目で見ることはできません。人間が目で見るこ
とができない神の性質、神の永遠の力と神性は、神が造られた被造世界を、被造物の一つ
一つを謙虚に見ていくことによって知ることができるのです。
私たちの周りにある様々な物は、人間が作ったものです。この部屋にあるすべては、そ
のどれも、偶然存在したとだれも言いません。人間の作品です。だれかが目的を考え、仕
様を検討し、設計し、材料を加工し、部品を作り、それらの部品を適切に、精密に組み立
てて、完成品を作ります。相当の時間と工夫を重ねて、様々な物を作り出したのです。
それなのに、人間が叡智を尽くしても決して造れない、宇宙や、生命など、自然界に対
しては、偶然の産物だとするのです。創造者である神を認めないようにと思考停止させて
いるとしか考えられません。人間の作品に比べることができないほどの被造世界にあるあ
らゆるもの、物理法則で正確に運行している宇宙と天体、精密に造られている、いのちや
細胞、人間の各器官を、偶然の産物とすることには、相当無理があると言えます。しかし
多くの人は、創造者の存在を否定して、説明しようとするのです。
それは人間の高慢、不敬虔によることです。創造者である神の存在を認めずに、自分た
ちが納得できる説明を捜し求め、仮説を作り出し、推論を組み立てています。パウロは、
人間は創造者である神をはっきりと認められるはずで、彼らに弁解の余地はないと言い切
りました。しかし不敬虔な者たちは、その事実を認めることを頑なに拒むのです。
21~23節。彼らは神的な存在は認めています。しかし創造者である神は認めません。
彼らは、創造者である神に栄光を帰することをしません。また神の恵みによって様々な祝
福が備えられているのに、感謝もしません。その結果、彼らの思いはむなしくなり、鈍い
心は暗くなるのです。創造者である神を自分の神としなければ、神のかたちとして、神の
似姿に造られた本来の、真理に基づく賢い歩みはできません。
不敬虔な者たちは、自分は知者であると主張しています。しかし現実には、愚かな言動
を行うのです。その愚かさは、朽ちない神の栄光を、造られたもののかたちに替えること
で顕わになりました。彼らが造る神々は、人間の手のわざであるのに、それらを拝むので
す。冷静に考えればおかしいと分かるはずなのに、それが全く分かりません。これほどの
矛盾はないでしょう。造る者と造られるものを比べるなら、だれもが造る者の方がすぐれ
ていると判断します。しかし人間が考え出し、人間が造った、人間以下の神々を、自分の
神と拝み、それに仕えることの愚かさに気がつかないのです。
24節以降では、愚かになった人間が、汚れに、情欲に、無価値な思いに突き進んでいく
のを、主なる神が引き留めるのを止めたという現実が記されています。そしてそれが数々
の不義を、そして悲惨を生み出していくのです。
24、26、28節と3回「引き渡されました」が繰り返されます。神は、創造者である神
を自分の神としないで、神以外のもの、人間が造り、人間が考え出した神々を、自分の神
とする人々を、その心の欲望のままに汚れに、恥ずべき情欲に、無価値な思いに引き渡さ
れたのです。主なる神が、汚れさせたのではなく、恥ずべき情欲を抱かせたたのではな
く、無価値な思いを持たせたのではありません。愚かになった人間が、自分で汚れに突き
進み、恥ずべき情欲に自分を任せ、無価値な思いを選ぶことに対して、それを止めること
をしないということです。不敬虔と不義に突き進む私たちに、好きにしてみればと突き放
した上で、その結果を体験してみなさいということでしょう。
まさにブレーキのきかない乗り物を運転しているかのようです。事故を起こすまで、快
適に進んでいるかのようです。しかしいずれ事故を起こすことは時間の問題であり、必然
です。その時に、人が、自分の間違いに気づくことを、主なる神は待っているようです。
私たちが、心の欲望のままに汚れを、恥ずべき情欲を、無価値な思いを選び取った結果
が24~25節、26~27節、28節です。互いに自分たちのからだを辱め、偶像礼拝に進み、
神の定められた性を逸脱して同性愛に溺れ、してはならいと分かっていることを行ってい
るのです。まさに不敬虔と不義とに自分を委ねているということです。
29節以降に列挙されている、してはならないことは、1世紀の社会でも現代社会でも、
変わらずにしてはならないこととして認識されています。文化や文明が進んでいて、人と
しての民度も高まっている現代において、多くの人々は、してはならないことであると、
頭では分かっています。しかしそれらを行っているのです。あらゆる不義、悪、貪欲、悪
意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれている。悪口を言い、人を中傷し、
神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実
で、情け知らずで、無慈悲です。
ここに列挙されている一つ一つで、文明が進んでいる現代社会では見られなくなったも
のがあるかと調べると、1世紀の社会と何も変わらないと言えます。さらに陰湿に、さら
にひどい状態になっているものもあります。罪人は文明が進んだ社会にあっても、創造者
である神を自分の神としてあがめ、感謝することをしないために、してはならないと頭で
分かっていることを、悪いと認識して行うのです。
33節。罪人たちは知っています。これらを行う者たちは死に値する、という神の定めを
知っているのです。神のかたちに造られた人間には神の義の基準、良心が備わっているか
らです。しかしそれらを行い、またそれらを行う者たちに同意しているのです。
不敬虔と不義を行っている私たちは、その不敬虔と不義のゆえに、罰せられ、滅ぼされ
て当然の罪人です。しかし神はそのような私たちを愛し、罪の赦しを備えて悔い改めへと
招き、救おうとしておられるのです。16節。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、
信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。主なる神のご愛に感謝しましょう。
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