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2024年10月13日 礼拝「マナセの背きと滅亡の宣告」列王Ⅱ21:1~16

 イスラエルの王たちを見ていますが、いよいよ南ユダ王国の滅亡が宣告されます。南ユ

ダ王国最悪の王マナセによる甚だしい偶像礼拝の罪、その背きのゆえです。

 1節。マナセは12歳で即位しました。その治世は55年間ですから、67歳まで在位した

ことになります。12歳から偶像礼拝に陥ったとは考えられませんから、即位後何年間かは

父ヒゼキヤに倣ったのではないかと思います。ただマナセはいつしか偶像礼拝に走り、エ

ルサレムの神殿の中にまで、偶像礼拝のための祭壇を造ったのです。

 前回私たちは、南ユダの霊的善王ヒゼキヤの信仰を見ました。彼の父アハズは、それま

での南ユダ王の中で最悪の王でした。彼がどのように偶像礼拝に進んだかが16章に記され

ています。3~4節。さらに10節。アハズはダマスコにある異教の祭壇と同じものを祭司

に造らせ、そこでいけにえを献げました。14節。さらに、主へのささげ物を献げる祭壇を

神殿から移し、この祭壇の北側において、王が伺いを立てるために使ったのです。

 ヒゼキヤは父アハズが造ったものも含め、すべての偶像や偶像礼拝のための施設を取り

除き、主に堅く付き従って離れることなく、主に信頼して歩みました。そうして主なる神

から高く評価され、アッシリア帝国の襲撃から守られたのです。しかしその子であるマナ

セは、祖父アハズよりも甚だしく、霊的に堕落していくのです。

 21章2~4節。マナセは父ヒゼキヤにではなく、北イスラエルの王アハブに倣ったとあ

ります。マナセがどうして父ヒゼキヤの道に進まなかったのか、その理由は説明されてい

ません。ただ民の多くは、父ヒゼキヤがした宗教改革に心から同意していなかったと知ら

されたのではないかと想像するのです。それでマナセは、主なる神にではなく、異教の

神々を求めている民に迎合して、偶像礼拝を進めたのかもしれません。

 エレミヤ書44章15節以降から、民の偶像礼拝についての思いを知ることができます。南

ユダ王国の民の本心が分かるのです。この発言は、マナセの時代と、その孫ヨシヤの時代

のことを回想していると思われます。ヨシヤは主なる神の目に正しいと思えることを、徹

底的になした王でした。ヨシヤの信仰については次回確認します。

 16~17節。預言者エレミヤを通して語られた主のことばに対して、公然と異を唱えるの

ですから、彼らの心の高ぶりは甚だしいとしか言いようがありません。エレミヤが主の名

によって語ったことばに従うわけには行かないと言い切ったのです。ここに南ユダの民の

思いが言い表されています。彼らは王たちが偶像礼拝を禁じ、主なる神に仕えることを促

したとき、表面上は従っているけれど、心の中では同意していなかったのです。だから偶

像礼拝に進む王が立つと、彼らは何の躊躇もなく偶像礼拝に進み、他の神々に仕えていく

のです。南ユダ王国は、主の目にかなうことを行う王と、主の目に悪であることを行う王

とが入れ替わる、その繰り返しでした。そうして民の多くは、表面上は主の目にかなうこ

とを行う王に従ったとしても、本心では偶像礼拝を欲していたということです。そのよう

な中でマナセが王になり、民に迎合していったのではないかと思われます。

 3節。マナセの即位後、何年くらい経ってからでしょうか。彼は偶像礼拝に進んで行く

のです。それも先の、主の目に悪であることを行った王たちよりも、さらに悪を行なう者

となって、です。マナセは父ヒゼキヤが打ち壊し、取り除いた高き所を築き直しました。

北イスラエルの最悪の王アハブに倣ってバアルのためにいくつもの祭壇を築くのです。さ

らにアシェラ像を造り、天の万象までも拝んだとあります。

 4節。しかもマナセは、これまでの、主の目に悪であることを行う王たちがしなかった

悪を行いました。それは主の宮に、いくつもの偶像礼拝のための祭壇を築いたことです。

エルサレムにわたしの名を置くと言われ、ソロモンに建てさせた神殿、創造者である神が

定めた聖を冒したのです。その具体的な内容が、5節、7節にあります。二つの庭に天の

万象のための祭壇を築き、宮の中にアシェラの彫像を安置させました。

 8節。主なる神は、モーセを通して命じられたすべての律法を守り行いさえするなら、

先祖たちに与えた地から、イスラエルの足を迷い出させないと約束されたのに、イスラエ

ルの民は主に聞き従うことを拒み続けます。主の目にかなうことを行う王が立つ度に、律

法に従う歩みに立ち返りはするけれど、それは表面的な悔い改めであり、民に迎合して、

主の目に悪であることを行う王の下では、民は喜んで偶像礼拝へと戻ったのです。

 9節。だから、彼らはと言われます。マナセではなく、イスラエルの民全般の罪が指摘

されるのです。彼らは主の警告に聞き従いませんでした。マナセは彼らを迷わせてとあり

ますが、民の偶像礼拝を助長させたということでしょう。その結果民は、主なる神がイス

ラエルの子らの前で根絶やしにされた異邦の民よりも、さらに悪い者となったのです。

 その内容が6節です。子どもたちに火の中をくぐらせ、卜占をし、まじないをし、霊媒

や口寄せをし、とあるように、主なる神が禁じた異教の祭儀を行って、主の怒りを引き起

こしました。カナンの地の先住民が滅ぼされたのは、これらの異教の祭儀が甚だしくなさ

れていたので、それらに神の民が悪影響されないために、聖絶が命じられたのです。しか

しイスラエルの民は、これらカナンの先住民よりも、甚だしく悪い者となったのです。

 11節。主なる神が預言者たちによって告げておられた内容です。マナセが行った忌み嫌

うべきことは主の目に隠れてはいません。アモリ人が行ったすべてのことよりもさらに悪

いことを行ったと断罪され、その結果、滅亡が宣告されたのです。

 13節。サマリヤに使った測り縄、アハブの家に使った重りとは、北イスラエルを滅亡さ

せたことの表現です。それをエルサレムの上に伸ばすと宣告されました。人が皿を拭い、

それを拭って伏せるように、エルサレムを拭い去ると、滅亡を断言されたのです。

 14節。主なる神がゆずりの民とされたイスラエルの民、これまでも多くを滅ぼしてきた

けれど、その残りの民をさえ捨て去ると言われるのです。主なる神が、ご自分のものとさ

れた神の民を、敵の手に渡し、敵の餌食となって奪い取らせるのです。

 15節。主なる神は、神の民に対して忍耐の限りを尽くしてこられました。エジプトを出

た日から今日までと、イスラエルが神の民とされた時から、ずっとです。神の民イスラエ

ルは主の目に悪であることを行い続けてきました。そうして神の怒りを引き起こしてしま

いました。どれだけの預言者が遣わされたのでしょうか。どれだけの霊的指導者が悔い改

めに招き、主なる神の警告のことばが告げられたのでしょうか。様々な困難や苦難に見舞

われる時には、悔い改めはしても、それは長続きしませんでした。彼らはまさに、喉元過

ぎれば熱さを忘れるとあるように、平穏が与えられると、前よりも堕落したのです。

 ソロモンが主の神殿建設を始めたのが、出エジプトから480年目とあります。それはソ

ロモンの治世4年目でした。その約240年後に、北イスラエル王国は滅ぼされます。さら

にその約140年後に、南ユダ王国も滅ぼされるのです。エジプトでの奴隷状態から解放さ

れた時から、800年以上もの間、主なる神は忍耐してこられ、悔い改めに招いておられた

ことが分かります。しかしイスラエルは、主の目に悪であることを止めませんでした。

 16節。マナセは偶像礼拝による宗教的な背信とともに、非人道的な罪を犯したことが指

摘されています。咎のない者の血を多量に流したとあるように、エルサレムの隅々にまで

虐殺の血を満たしたということです。これらを主は見過ごしにはなさらないのです。

 24章3~4節。ヨシヤ王が亡くなった後、南ユダ王国は滅びに突き進むのですが、その

理由が再度記されています。マナセが犯したすべての罪のゆえ、そして、マナセが流した

咎のない者の血のために、主なる神が滅亡を命じたので、南ユダ王国の滅亡が取り消され

ることはなくなりました。主は赦そうとはされないということです。

 エレミヤ書15章6節の最後で、主なる神は、わたしはあわれむのに疲れたと、預言者エ

レミヤに語らせました。800年以上もの間忍耐をし、あわれみ続けてこられたけれど、イ

スラエルの民は、神の悔い改めへの招きを拒み続けたのです。

 おまえはわたしを捨てた。主のことば。おまえはわたしから退いて行ったのだ。わたし

はおまえに手を伸ばし、おまえを滅ぼす。わたしはあわれむのに疲れた。と主なる神に言

わしめるイスラエルの民の頑なさを思わされます。

 だから1節。モーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわ

ない。この民をわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。と宣言させるのです。

 主なる神は私たちに対しても、だれに対しても、同じように招き続けておられます。主

の許に立ち返るようにと、悔い改めを命じておられるのです。赦しを備えて待ち続けてお

られます。愛とあわれみに満ちておられる主なる神は、私たちを愛して、私たちを救おう

と招き続けています。ユダヤ人も、異邦人も、どの民族も変わりなく、すべての人に罪の

赦しを備えて招いておられるのです。

 そのために主なる神は、神の子、主イエス・キリストを人として地上に遣わし、十字架

で処刑されました。全人類に罪の赦しを備えるために、身代わりに処罰されたのです。主

イエスの十字架刑は、私たちに罪の赦しを備えるための身代わりの処罰です。それほどま

でに、主なる神は、私たち一人ひとりを愛しておられるのです。

 しかし神の私たちへの愛は永遠ではありません。神の私たちへのあわれみは無限ではな

いのです。主なる神はイスラエルを滅ぼさざるを得なかったように、私たちをも滅ぼさざ

るを得ない時を定めておられます。私たちが悔い改めを拒み、神に立ち返ることをしない

なら、主なる神の忍耐の期限が過ぎた時点で、滅ぼすことをなさるのです。

 マナセの時代にも、主なる神に聞き従う民は、少なからずいました。民の多くが主なる

神に背いたとしても、主の目にかなうことを追い求めた人々は少なからずいたのです。そ

うして彼らは、残りの民として、神の復興のみわざの担い手として用いられるのです。私

たちも同じです。多くの人々が主なる神に聞き従うことから離れても、私たちは、主の目

にかなうことを追い求め、それを行う信仰者として整えられたいのです。それが狭い門か

ら入ることです。いのちに至る門は狭く、その道も細く、それを見出す人はわずかだと言

われても、私たちはその狭い門を見出し、細い道を通る者とされたのです。


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