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2024年10月6日 礼拝「救われる人は少ない?」ルカ13:22~30

 救われる人は救いない? 私たちもそのような感想を持つことがあります。主イエスご

自身が直接、神の国の福音を伝え、救いに招いておられたのに、このような質問が主イエ

スになされたのですから、人が救われるのは難しいということでしょうか。

 主イエスの地上生涯も終盤にさしかかっています。公生涯の初期には、多くの人々が主

イエスの許に集まり、神の国について、福音について、主イエスから話を聞き、また様々

な病も癒やしてもらっていました。しかし、しるしとしての不思議を行うことが少なくな

るにつれて、人々は主イエスの許から離れて行くようになったのです。ユダヤ教指導者た

ちから敵視されるようになったことも、人々が離れて行く要因の一つでもありました。し

かし主イエスは、神の救いの計画の実現のために、十字架への道を進まれたのです。救わ

れる人が少ないとしても、主イエスが差し出す救いは、罪の赦しに基づく救いでした。

 23節。ある人が主イエスに問いかけました。救われる人は少ないのですか、と。彼は、

主イエスの取り巻き状況を見て、正直な感想を口にしたと言えます。私たちもいろいろな

状況を見るときに、それぞれに、自分の感想を口にします。ただ感想とは客観的なもの、

自分とは直接関係のない、他人事としていることの表れとも言えるのです。

 24節。主イエスは命じました。客観的ではなく、他人事でもなく、自分のこととして、

救われるために努力しなさいと命じたのです。救われる人が多く与えられようが、少なか

ろうが、それは大した問題ではない、あなたの救いとは何の関わりもありませんと。救い

は主のものです、とあります。私たちは自分の救いのために、愛する家族や親族、友人、

知人の救いのために、努めることが命じられているのであって、救われる人の多数、少数

に一喜一憂する必要はないのです。自分の救いに関心を持つべきということです。

 主イエスは、狭い門から入るように努めなさいと命じます。この門は、28節から、神の

国に入るための門であると分かります。神の国に入る、すなわち救いは狭い門から入るこ

とでしか得られません。救われたいと思っている人は多くいます。日本でも、多くの人々

は、地獄よりも、極楽に行きたいと思っているでしょう。しかし救われるための努力はし

ません。救われたら良いなとは思っても、救いを真剣に求めないので、救われないので

す。救われるためには、狭い門から入らなければなりません。しかし多くの人々は、狭い

門から入る努力をしないのです。そうして、入ろうとしても入れなくなる日が来ると主イ

エスは警告されました。神は侮られるような方ではありません。

 25節。狭い門が開いている期間には限度があります。その期限が過ぎたなら、この狭い

門は閉ざされ、その人は入れなくなります。その人が救われることはないのです。そうし

て主イエスは、多くの人は入れなくなる、と言われました。救いに入るための門が閉ざさ

れます。主人が、門を閉ざして、あなたがたを知らないと、言われるのです。

 26節。救いに入る門を知ってはいても、狭い門から入るように努めなかった人たちは、

その門が閉じられてから、門を叩きながら訴えます。ご主人を知っている。ご主人と食べ

たり、飲んだりしたことがある。ご主人から教えていただいた、などなどです。しかし彼

らは、主人が与えようとしておられた救いを受け取りませんでした。自分好みの主人との

関わり方、自分が満足するだけの主人との関わり方ですませていたのです。

 27節。どのように訴えても、主人は、厳粛に答えます。おまえたちを知らないと。そう

して、不義を行う者たちと断罪し、私から離れて行け、と宣言されるのです。なぜ彼らは

このように言われたのでしょうか。彼らが求める救いは、主なる神が与えようとしている

救いとは違っていたからです。救いは求めていても、自分好みの救いであって、神が備え

た救いは求めなかったのです。主なる神が備えた救いは罪からの救いです。自己中心とい

う罪の歩みをやめ、神を中心に歩む、造られた本来の歩みに立ち返ることです。

 では、主イエスが命じられた、入るように努める狭い門とはどのような門でしょうか。

みんなが行きたいから競争が激しくなり、入るための倍率が高くなった結果として、入る

のが難しくなるという意味での狭い門ではないことは分かります。

 マタイの福音書7章13節。主イエスは山上の説教でも、狭い門から入りなさいと命じて

います。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入っていく者が多いのですと言

われていますから、狭い門は、いのちに至る門であり、そこから入っていく者は少ないと

いうことが分かります。それが14節で言い換えられます。いのちに至る門はなんと狭く、

その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです、とあります。

 私たちキリスト信仰者は、主イエスが語られた狭い門を知っています。その狭い門から

入りました。それが私たちキリスト信仰者です。主イエスは、わたしは門です、わたしが

道であり、真理であり、いのちなのです、と宣言され、わたしを通してでなければ、だれ

も父のみもとに行くことはできませんと救いに至る道を限定しました。私たちに罪の赦し

を備えるために、十字架で身代わりの処罰を受けてくださった主イエスを、自分の救い主

と受け入れ、自分の主とあがめて、神を中心とする新しい歩みに踏み出すのでなければ、

罪人が救われることはありません。滅びからいのちに移される以外に救いはないのです。

 この、主イエスという狭い門から入ることが必要不可欠です。十字架につけられた主イ

エスは神ご自身であると認めて、自分の救い主であると信じ、自分の主とあがめて聞き従

う歩みをすることです。信じることは、生きることです。信仰は行動に進ませるのです。

主の弟のヤコブは手紙に書いています。行いのない信仰は死んでいるのですと。

 7章21節。天の御国、神の国に入る人々について、主イエスは警告しておられます。主

イエスに向かって、主よ、主よと口にしても、父なる神のみこころに心を向けず、自分勝

手な歩みをしているなら、それは神の国を生きることになりません。神の支配に自分を委

ねて、神が喜ばれること、神が良しとされること、神に受け入れられることは何かと、み

こころに自分の心を合わせて、それを行おうとする者が、神の国を生きるのです。

 多くの人々は、主イエスを信じることはしません。私たちの周りに、主イエスを信じる

信仰を持っている人は、本当にわずかです。そうして主イエスを信じたと口にしているに

もかかわらず、主イエスを自分の主とあがめて、神のみこころは何かと尋ね求め、神に喜

ばれること、神が良しとされること、神に受け入れられることを思い、そのみ思いに自分

を合わせて、信仰生活、教会生活を送っている人はさらに少ないと言えます。

 キリスト信仰者である私たちは、父なる神に自分を合わせて生きる一歩一歩を踏み出し

続けましょう。父のみこころを思い、それを自分の思いとし、神が喜ばれることを選び取

り、神が良しとされることを選び取り、神に受けられることを選び取って、その一歩一歩

を踏み出し続けることが、狭い門から入るための努力です。

 23節。私たちは決して、主から、わたしはおまえたちを知らない、と言われないように

したいのです。そうは思わないでしょうか。しかし主イエスは明確に警告します。わたし

はおまえたちを知らない、と言われる人がいること、そうしてそのような人々が多いこと

です。多くの人々が主イエスから病気を直してもらい、悪霊から解放していただき、様々

なしるしとしての不思議を見せていただき、主イエスを信じようと思ったのです。しかし

主イエスが与える救いは、この世での物質的な祝福ではありませんでした。神の国を生き

るいのちを与えるという意味での救いでした。造られた本来のあり方、創造者である神を

自分の神として、神に聞いて生きるいのちを与えるという救いなのです。

 そのために主イエスは、十字架への道を進まれました。罪を赦し、罪から救うために身

代わりの処罰を受けるために、十字架での死に進まれたのです。その結果、多くの人々は

主イエスから離れていきました。自分の願う救いは得られないと考えたからです。

 滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入っていく者は多いのです。罪人の罪

人たる所以は、自己中心です。自分が喜ぶことを求め、自分の願いの通りにならなければ

退けます。私たちは主イエスを信じました。罪の赦しに与り、創造者である神に聞いて生

きることを求める歩みを始めました。この細い道を進み、この狭い門から入り、神のいの

ちに生きる歩みが大事です。細い道を通り、狭い門から入るよう努めましょう。


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