今日私たちは、主なる神が私たちに物質的な祝福を与えておられる意味について確認し
ます。私たちの地上生活に潤いを与えてくださることはもちろんですが、それ以上に主な
る神のみわざに用いようとして、私たちに物質的な祝福を委ねておられるのです。
私たちは、私たちに委ねられている物質的な祝福を活用することで、真の幸いに進ませ
ることを確認しましょう。私たちの存在がこの地上生涯だけであるなら、地上生活の豊か
さだけを求めるのは当然です。しかし私たちキリスト信仰者は、永遠を意識して地上生涯
を送っています。地上では旅人であり、寄留者であると自覚していて、永遠の故郷に帰る
途上にあるということです。この自覚に立って、地上生涯を考えることが大事です。
8節。主なる神は祝福と恵みに富んでおられる神です。あらゆる恵みをあふれるばかり
に与えることがおできになるとあります。このお方にあって、私たちは地上生涯を過ごし
ていることを、改めて感謝し、だからこそ主とともに歩むことを追い求めるべきです。そ
れが地上生涯に、そして永遠に、真の幸いを得させる道だからです。
主なる神が私たちに、あらゆる恵みにあふれさせてくださるのは、私たちが、いつもす
べてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようにさせるためです。主なる神
が私たちをして、すべての良いわざにあふれるようにしてくださるのです。
10節。私たちは確認しましょう。主なる神が私たちに、物質的な祝福を与えておられる
のは、私たちの日々の必要を満たすためであることはもちろんですが、それだけではあり
ません。種蒔く人に、と言われています。種を蒔くことを期待しておられることを覚えた
いのです。私たちに物質的な祝福を委ねているのは、蒔くためでもあるということです。
種を蒔くとは、自分のため以外に用いることです。献金も、賜物も、時間も、です。今日
の聖書の箇所では、自分のため以外に用いること、種を蒔くことに重点が置かれて、豊か
に蒔くことが勧められているのです。
6節。豊かな収穫を期待したいなら、豊かに蒔くことが必要となります。わずかだけ蒔
いて、豊かに刈り入れることはできません。わずかだけ蒔く者は、わずかだけ刈り入れる
ことになるのは当然です。豊かに蒔くなら、豊かに刈り入れることができます。そしてわ
ずかか、豊かかは、人と比べてのわずかか、豊かかではありません。自分に委ねられてい
るものにおいてのわずかか、豊かかなのです。
8章12節。持っていないものに応じてではなく、持っているものに応じて受け入れられ
るとあります。私たちが用いるのは、与えられているものの中から、持っているものの中
からです。そうして、自分に与えられているもの、神に委ねられているものの中から、わ
ずかだけ蒔いているのか、豊かに蒔いているのかを、吟味するのです。
9章10節。私たちの父なる神は私たちの必要を知っておられ、その必要を満たしてくだ
さるお方です。だから食べるパンを与えます。ただ与える目的には順序があります。蒔く
種と食べるためのパンです。蒔く種、つまり自分のため以外に用いるものを確保するよう
にと指示しているのです。農夫が、今年は収穫が少ないからと、収穫の全てを食料にして
しまったなら、蒔く種がなくなり、次の年の収穫は望めません。結果として、食べるため
のパンはなくなるのです。農夫は収穫が少なくても、蒔く種を取り分けておきます。食べ
る分を削ってでも、次の年の収穫を望み見て、蒔く種を取り分けておくのです。同じよう
に、私たちも、持っている物が少ないとしても、全部を自分のために使ってしまうのでは
なく、その中から主なる神に献げるものを取り分けておくことが大事です。
私たちは、献金も、教会を建てあげる様々な奉仕も、その他の主に委ねられているいろ
いろな働きも、できることを喜びとし、与えられているものを感謝して、主と主の教会に
仕えていくのです。私たちには様々な賜物が、恵みによって委ねられています。自分にで
きることも、人と比較して、人よりも劣っているからと判断して、活用することをやめて
はなりません。主イエスが語られたタラントのたとえを知っているでしょう。
主人はしもべたちに、それぞれの能力に応じて、タラントを預けました。能力の違いは
あります。だから人と比較してはなりません。人と比べて明らかに劣っているとしても、
持っているのです。その持っているもの、それは与えられたもの、委ねられたものです。
その確かに持っているものを活用することを、主なる神は期待して預けているのです。
1タラントを預けられたしもべは、そのタラントを隠してしまい、主人から、悪い、怠
け者のしもべだと叱責されました。比較していじけてしまうのではなく、あるものを活用
する、できることを喜んで行うなら、2タラント預かったしもべは4タラントに、5タラ
ント預かったしもべは10タラントを預けられたように、1タラント預かったしもべは2タ
ラントを預かることになったはずです。そうして、5タラントのしもべ、2タラントのし
もべと同様に「よくやった、良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったか
ら、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」と言われたはずです。
私たちも様々な賜物を恵みによって預けられています。主なる神が能力の違いを与えて
おられるので、預けられるタラントも違いますが、その優劣や多寡は、主の前では無意味
です。働きも違ってきます。その結果も、比較するなら、当然優劣が生じます。それでも
主の前では、その優劣も多寡も、評価はされません。主なる神が関心を示すのは、用いた
か否かです。用いる者は「よくやった、良い忠実なしもべだ」と喜ばれます。用いなかっ
た者は「悪い、怠け者のしもべだ」と叱責され、預けられたタラントは取り上げられるの
です。しかし活用する者は、さらに与えられ、多くを任されることになります。
7節。自分は今、喜んで与えていないから、神に愛されていないなどと考えてはなりま
せん。主なる神の愛は私たちの行為に左右されません。十字架で示された神の愛は、極悪
非道な者のためにもあるのです。神の私たちに対する愛は、私たちが良い行ないをしたか
ら示されたのではなく、私たちが罪人であったとき、私たちが弱く、間違いを犯していた
とき、神に敵対していたときに、そのような私たちに示されていたのです。だから主イエ
スを信じ、救いに与ることができました。神は愛なので、十字架による罪の赦しを備えて
くださったのです。私たち罪人のだれもが、すべてが救いに招かれています。
「神は、喜んで与える人を愛してくださる」とは、8節の、すべての良いわざにあふれ
るようになるため、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えてくださるという意味で、10節
の、種を備え、増やし、義の実を増し加えてくださるという意味で、11節の、あらゆる点
で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようにしてくださるという意味で、豊かにさ
れるという愛なのです。神は喜んで与える人に、恵みを増し加えてくださいます。私たち
が喜んで与える、すなわち自分の持っているものを活用し、自分のできることを喜んで行
うなら、神は義の実を増し加えるために、さらに恵みを注ぎ、あらゆる点で豊かな者とさ
せるために、溢れるばかりの恵みを注いでくださるという意味での愛です。
タラントのたとえ話で、1タラントを預かった、あのしもべが、その1タラントを活用
したなら、彼は2タラントを持つことになったはずです。しかし彼は活用しようとはしま
せんでした。そして1タラントは没収されたのです。活用しないなら預ける意味はありま
せん。私たちの主人となられる主イエスは、恵みに富んでおられ、私たちにそれぞれの能
力に応じて、蒔く種と食べるパンを委ねておられるのですが、私たちが委ねられたものを
活用しないなら、委ねる意味はないとして、没収されるのです。
私たちはいろいろなことができます。人と比べるなら大したことはできないとしても、
それなりにできるのです。またいろいろなものを持っています。人と比べるなら少ないと
思えるとしても、持っているのです。そのあるもの、持っているものを活用する、そのた
めに主なる神は委ねてくださいました。献金という奉仕のわざにおいても、その他の奉仕
についても、できることをして、私たちの義の実を増し加えていただきましょう。主なる
神がそれを増やし、義の実を増し加えてくださるのです。これは約束です。
7節。心で決めたとおりとは、自分に委ねられたものを感謝し、また喜びとし、蒔く種
と食べるパンを取り分けて、主にあって活用することです。心で決めるのです。主が求め
ておられるのは、私たちがどれだけささげたかの量ではなく、私たちがささげることで表
わしている、主への感謝、喜び、信頼、そして主のために仕えたいと思うその心です。レ
プタ銅貨二つをささげたあのやもめを、主は一番多くささげたと評価されました。神は喜
んで与える人、蒔く種を十分に取り分ける人に、さらに多くを任せてくださいます。
11~12節。主なる神が求めているのは、義務ではなく、習慣でもなく、まして惜しむ
心や強制されての奉仕ではありません。心からの感謝、心からの喜び、心からの感動や感
激が伴った奉仕であり、献げものです。
10節。私たちが父なる神と仰ぐお方、全能の神、恵みと祝福に満ちておられる神は、私
たちに、蒔く種と食べるパンを備えてくださいます。それは蒔く種を増やし、私たちが主
なる神に喜ばれる義の実を豊かに結ぶためであり、主のみわざに豊かに用いられる者とす
るためです。豊かに蒔き、豊かに刈り入れる私たちとされようではありませんか。
ピリピ人への手紙4章17~18節。パウロはピリピの聖徒たちに書き送りました。私は
贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に
加えられていく実なのです。私はすべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロ
ディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳ばしい香りで
あって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。
私たちは地上生涯に蓄えることに精力を費やすのではなく、天の御国にある霊的な口座
に加えられている実のために精力を費やしてはいかがでしょうか。私たちに委ねられてい
る物質的な祝福を、能力を、時間を、お金を、主なる神のみわざに用いるために、蒔く種
とをして取り分け、豊かに蒔く者となりましょう。豊かに収穫することが約束されている
のですから。
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