私たちはそれぞれに、身近な人の死を体験していると思いいます。私も両親4人と姉、
義理の兄や姉などを亡くしてきました。牧師としての働きも37年になりますから、神の家
族とされた方々の葬儀を司式し、臨終にも立ち会いました。それまで元気で、いろいろと
交流があった方が急に逝去するということもあります。本当に、死はいつ起こるか分から
ない、と思わされます。また自分もいつ死ぬのか、全く予測がつきません。
死はすべての人に公平に臨みます。成功者も、そうでない人も、健康な人も、難病を抱
えている人も、大金持ちも、貧困に苦しむ人も、どんな境遇にも関係なく、すべての人に
死は公平に及びます。誰も死を逃れることはできません。必ず死ぬ時を迎えるのです。
では、なぜ私たちは死ぬのでしょう。なぜあなたは死ぬのでしょう。その答えを知って
いるなら、そうして死と死後について、正しく対処できるなら、死を恐ろしいと感じるこ
とがなくなり、死を見据えて、地上生涯を有意義に過ごすことができるようになります。
6章23節。死が定義されています。死は「報酬」です。報酬とは、働きや行ないに対し
て当然支払われるものです。つまり死は、運命や宿命ではありません。私たちが罪を犯し
た、犯している、その報酬が死です。私たち一人一人が、あなたが、私が、自分の選択で
罪を犯し、罪の中を歩む、その当然支払われるべき報いとして死を受け取るのです。
創世記2章は、天地創造について、その六日目、人間の創造に焦点を合わせて記述され
ています。1章31節。神が造られた世界は非常に良いものでした。そこには罪も悪も一切
なく、秩序があり、平和があり、祝福に満ちていました。その中で人は、被造世界を、す
べての生き物を支配し、管理する使命を委ねられたのです。人間は神のかたちとして、神
の似姿に造られ、神と人格的に関わることができる特別な存在として造られたのです。
2章9節。神である主はエデンの園に数多くの木を生えさせました。それらは見るから
に好ましく、食べるのに良いものでした。そして園の中央には2本の木、いのちの木と善
悪の知識の木を生えさせたのです。16~17節。神である主は、園に生えさせた数多くの
木を、食料として人に与えられました。人は自由に、自分の好みに従って、思いのまま食
べることが許されましたが、善悪の知識の木から取って食べる、ただ一つのことが禁じら
れたのです。それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬと警告されました。
禁止命令が定められたのは、私たちが自由意思を用いて、主なる神とともに生き、神と
の人格的な交わりを持ち続けることを選ぶことを期待しているからです。人は、自分が創
造者である神に造られたことを喜び、神に愛され、生かされていることを感謝して、神を
愛し、神に聞き従って生きる時に最も主体的で、最も自分らしく、最も自由に生きること
ができる者として創造されました。その造られた本来のあり方を喜び、そのあり方に生き
ることを、与えられた自由意思で選び取ることが期待されたのです。
神は愛そのもののお方ですから、私たちをロボットとして造り、プログラムされたとお
りに従わせることはなさいませんでした。強制してではなく、自発的な応答を期待された
のです。私たちが創造者である神の愛を喜び、神の恵みに感謝し、神を愛するがゆえに、
神とともに生きることを選び取ることを期待して、自由意思を与えたのです。それは、人
がその自由意思を用いて、神から離れることを選び取ることもあるということです。善悪
の知識の木から取って食べることを禁じたのは、そのテストでした。
17節。神である主は明確に、禁止命令を破った時の処罰を警告しました。善悪の知識の
木から実を取って食べる時、あなたは必ず死ぬ。しかし人は3章に記されたように、善悪
の知識の木から実を取って食べました。神の禁止命令に真っ向から背くのです。神である
主が望まれた、神の愛に対する人の自発的な応答としての従順を拒んだのです。人は自由
意思で、神の愛を拒み、自分の心の望むままに生きることを選びとりました。神に背くこ
とになると自覚した上で、自分の思いを優先して生きることを選び取ったのです。
聖書が罪と指摘するのは、本来のあるべき状態から逸脱している、その状態です。法や
決まりを犯すことだけではありません。人は神のかたちとして、神の似姿に造られた存在
として、創造者である神を認め、神に造られたことを感謝して、神とともに生きることが
本来のあるべき姿です。この状態からの逸脱が罪です。私たちは罪人となったので、人は
様々な罪を犯す者となりました。その当然の報いが死です。
ローマ6章23節。罪の報酬は死です。いのちは賜物です。この事実を確認しましょう。
私たちはいのちが与えられ、この世を生きる者となりました。自分でいのちを得たのでは
ありません。母の胎内にいのちが生み出され、形造られて、誕生しました。詩篇139篇を
見ると、創造者である神が、私を母の胎内で組み立てられたとあります。いのちは賜物で
す。そして生きることができるのも、創造者である神がその環境を整えてくださっている
からです。空気があり、水があり、食べ物があり、生命を維持する環境が地球に整えられ
ているので、私たちは生きています。いのちは賜物なのです。
しかし私たちは罪を犯し、その報いとして死ぬものとなりました。死を逃れることので
きる人は誰一人いません。肉体の死は罪の結果、当然の報いです。そして罪は、霊的に死
なせ、罪の中を歩ませます。そして罪人となった私たちが、そのままで永遠を生きる不幸
を負わないように死が定められたのです。肉体の死は愛の神の恵みによる計らいです。そ
して霊的に死んだままで肉体の死を迎えるとき、永遠の死をも迎えるのです。罪のうちを
歩み続ける者に、いのちは与えられません。
造られたものはみな、造り主が定めた枠組みの中で、いのちが保たれます。魚は水の中
という枠組みの中で、生きることができます。その制約を嫌って、水から飛び出すなら、
待っているのは死です。水から飛び出すことを選んだ魚の報いは死です。魚にとって、水
の中という制約は束縛ではありません。いのちを保たせる枠組みなのです。
私たちも同じです。神に造られた人間は、神が定められた秩序の中で生きるとき、真に
主体的で、真に自由に生きることができます。人は、神と共に生きることが、いのちを保
たせる枠組みです。束縛に思える神とともに生きるという枠組み、その「制約」こそ、人
間にとって最も自由で、最も自分らしく生きることを得させる枠組みなのです。その枠組
みから逸脱する、つまり創造者である神から離れることが罪です。さらにすべての人は何
らかの罪を犯しているので、その報い、報酬として、死ぬのです。
23節。罪の報酬は死です。非常に厳しい宣告です。「しかし」です。この「しかし」は
何という恵みに満ちたことばではないでしょうか。私たちは罪を犯しています。そのよう
な私たちへの報酬は死であると宣告されています。私たちには絶望しかありません。しか
しです。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。この
約束がなされたので、私たちは絶望ではなく希望が持てます。失意ではなく喜びが、後悔
ではなく感謝が与えられます。罪を犯し、罪の中を歩む者は、死と滅びに向かっていま
す。そのような私たちに対して、主なる神は永遠のいのちというプレゼントを差し出され
たのです。それはすべての人に対してです。だれもが永遠のいのちを神からのプレゼント
として受け取ることができる。極悪非道を歩んできた人であっても、永遠のいのちを受け
取れます。ただし一つだけ条件があります。それが主イエスを信じる信仰です。
6章23節。神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにあると限定されています。それ
は永遠のいのちであり、主キリスト・イエスにあるのです。言い換えるなら、永遠のいの
ちは、十字架につけられたナザレのイエスを自分の救い主と信じる信仰によってのみ受け
取ることができるのです。永遠のいのちを受け取るための必要条件は、罪の赦しです。
死は罪の報酬です。罪の赦しを受け取らないなら、その人に永遠のいのちは与えられま
せん。創造者である神は愛に満ちたお方ですが、罪はことごとく憎み、必ず罰する義の神
です。人間には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっています。神が定め
られました。だから罪の赦しは必要不可欠です。罪の赦しはキリスト・イエスの十字架で
備えられました。主イエスは私たちのすべての、あらゆる罪をその身に負って、十字架刑
に処せられることで、私たちの代わりに罪の処罰を受けて、罪の赦しを備えてくださった
のです。あの十字架の処罰は私のためでしたと感謝し、受け入れる者は、罪の赦しに与り
ます。罪が赦されるとは、罪のない者、罪を犯さなかった者と見なされることです。
そのような者は、死後、さばきの座に立つ時、主なる神は、あなたにはさばくべき罪は
ないと宣言されるのです。しかし罪の赦しに与っていない者は、その人が犯したあらゆる
罪の事実を示され、当然のさばきを受けるのです。罪を赦された者が受ける報いは、肉体
の死だけです。そして永遠のいのちを受け取った者は、罪のない新しいからだに復活し、
再創造される新しい天と新しい地で、永遠を、主なる神とともに生きるのです。
罪の報酬は死です。これが創造者である神の定めです。私たちは罪を犯してきたので、
必ず死にます。そのような私たちに、創造者である神は、永遠のいのちをプレゼントとし
て差し出してくださいました。そのいのちは、私たちの主キリスト・イエスにあります。
永遠のいのちを受け取るために必要なことは、主イエスを救い主と信じ、あの十字架の死
は私の罪の処罰の身代わりであると受け入れ、罪を悔い改め、罪の赦しを受け取ることで
す。私たちの主であるキリスト・イエスを自分の主とあがめる者は、主イエスにある永遠
のいのちをも受け取ることになるのです。
私たちは必ず死にます。しかし肉体の死は避けられなくても、希望が提示され、永遠の
いのちが差し出されていて、それを受け取るようにと招かれています。主イエスにある永
遠のいのちを受け取るとき、死後に私たちは、罪の全くない新しいからだに復活して、新
しい天と新しい地で、永遠を生きるのです。
主イエスを信じる者となり、主イエスを自分の主とあがめる私たちとなりましょう。
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