南北に分裂してからのイスラエル歴代の王たちを見ています。前回は、北イスラエル王
国がアッシリア帝国によって滅ぼされたことを見ました。今日取り上げるヒゼキヤ王は、
その頃、南ユダ王国で即位したのです。歴代の王たちの中で、ヒゼキヤほど、列王記の著
者の評価が高い王はいません。3~6節がその評価で、後で確認します。
1節。ヒゼキヤはアハズの子とあります。これまでの南ユダ王国で、アハズほど主の目
に悪であることを行った王はいません。ヒゼキヤの子マナセはアハズ以上に主の目に悪で
あることを行い、その結果、南ユダ王国の滅亡が宣告されることになるのですが。
アハズは主の祭壇を動かし、そこにシリアの首都ダマスコにある祭壇と同じものを祭司
に作らせて、自分のためのいけにえを献げることをしました。その子のヒゼキヤが、どの
ような経緯で、父とは違って、主の目にかなうことを行う者となったのか、その詳細は分
からないのですが、彼は主に喜ばれる王として整えられたのです。アハズ、ヒゼキヤ、マ
ナセと主の目に悪であることを行う王と、主の目にかなうことを行う王が、親子なのです
から、人の心は分からないものです。私たちはただ、主のあわれみを求めて、子どもに信
仰を受け継がせることができるように、最善の努力を続けたいものです。子どもにまこと
のいのちを受け継がせることができれば、これほどの幸い、感謝はありません。
ヒゼキヤが南ユダ王国の王になったのは、北イスラエル王国の王、ホセアの第3年とあ
ります。ホセアの第9年、ヒゼキヤの第6年に、北イスラエル王国はアッシリア帝国に
よって滅ぼされました。その後、アッシリアの王センナケリブがエルサレムを包囲して、
創造者である神をそしることばを発して、降伏を要求するのです。
しかし7節。ヒゼキヤはアッシリアの王に反逆し、仕えませんでした。その経緯を、イ
ザヤ書で交読しました。イザヤ書36~37章は、列王記第Ⅱ18~19章とほぼ同じです。
3節。ヒゼキヤは主の目にかなうことを行いました。それも父祖ダビデが行ったとおり
にと、特別にダビデの名が記されるのです。南ユダ王国では、主の目にかなうことを行う
王と、主の目に悪であることを行う王がいました。主の目にかなうことを行ったと評価さ
れる王たちの中で、ダビデが行ったとおりにと言われているのは、南ユダ3代目の王アサ
に続いて、このヒゼキヤが二人目です。三人目は最後の善王となるヨシヤです。
4節。ヒゼキヤは高き所を取り除きました。これまでの王たちは、宗教改革をしても、
高き所を取り除くことはしませんでした。それで、民はなおも高き所でいけにえを献げて
いたのです。その高き所を取り除いて、民の好き勝手な礼拝を終わらせたのです。
石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒して、偶像礼拝をやめさせました。またモーセ
が作った青銅の蛇をも砕いたのです。イスラエルの民は、荒野で主なる神に不平を言い、
逆らったとき、そのさばきとして毒蛇が送られ、それに咬まれた者が死んでいきました。
そこで民は、自分たちの罪を悔い改め、助けを求めて主なる神に叫んだのです。その時、
神はモーセに青銅の蛇を作らせ、それを旗竿の上に掲げ、それを仰ぎ見る者は毒蛇に咬ま
れても助かると告げさせました。そしてその神のことばを信じた者は、青銅の蛇を仰ぎ見
ることで助けられたのです。その青銅の蛇で偶像礼拝をしていたということです。
5節。ヒゼキヤはイスラエルの神、主に信頼していました。その信頼の仕方は、前の王
たち、後の王たちの中で、抜きん出ていたのです。主なる神は、ご自分に信頼する者を喜
ばれ、祝福で満たしてくださいます。
6節。ヒゼキヤは主に堅く付き従いました。離れることはなく、主がモーセに命じられ
た命令を守ったのです。
だから7節。主はヒゼキヤとともにおられました。主がともにおられる生涯ほど、祝福
に満ちた生涯はありません。主がともにおられるとは、主に堅く付き従って離れることの
ない信仰者に、祝福として与えられる恵みです。私たちも、主に堅く付き従って離れるこ
とのない信仰の歩みを追い求めましょう。主がともにおられる歩みです。その結果、ヒゼ
キヤはどこへ出て行っても成功を収めたのです。それはアッシリアに対しても同じです。
13節。ヒゼキヤの14年、ついにアッシリアの王が南ユダ王国に攻めてきました。ユダ
のすべての城壁のある町々を攻め取ったとあります。
17節。そうして高官たちをエルサレムに、大軍とともに遣わし、降伏を要求しました。
エルサレムの住民ともども、相当の圧迫だったと思われます。
28節。高官の一人ラブ・シャケが大声でアッシリア王のことばを伝えました。ヒゼキヤ
に誤魔化されてはならないこと、アッシリアに降伏すべきだということです。
29~30節。ラブ・シャケはヒゼキヤのことばを否定して降伏を求めるのです。ヒゼキヤ
は「主が必ずわれわれを救い出しくださる」と言って、民に主を信頼させようとするが、
主の守りなど不可能だと、アッシリア帝国の絶対的な力を誇るのです。高慢の現れです。
そうして33節。国々の神々がいかに無力であったのかを述べて、イスラエルの神、主も
同じであると言いきるのです。34~35節。それぞれの国の神々の名を並べます。その上で
主も、と主をそしるのです。主がエルサレムをアッシリアの手から救い出せはしないと。
19章1節。ヒゼキヤはラブ・シャケのことばを受けて、主の宮に入ります。主の助けを
求めて祈るためです。そうして預言者イザヤのところに家臣を遣わしました。2節。
4節。ヒゼキヤが預言者イザヤに伝えたことばです。アッシリアの王は、生ける神をそ
しるためにラブ・シャケを遣わした。主はそのことばをお聞きになり、それをとがめる。
そして預言者イザヤにも、祈ってほしいと頼んだのです。まだいる残りの者のために、救
いを求める祈りの声をあげてくださいと。
6節。主なる神はすでに、預言者イザヤにことばを与えておられました。主はこう言わ
れると、ヒゼキヤの家臣に伝えさせたのです。あなたが聞いたあのことば、アッシリアの
王の若い者たちがわたしを罵った、あのことばを恐れるな。そうして7節。アッシリアの
王はあるうわさを聞いて自分の国に帰る。そこで彼を剣で倒すと。
今週のみことばを確認しましょう。詩篇33篇17節から。軍馬も勝利の頼みにはならず
軍勢の大きさも救いにはならない。見よ、主の目は主を恐れる者に注がれる。主の恵みを
待ち望む者に。私たちのたましいは主を待ち望む。主は私たちの助け、私たちの盾。
キリスト信仰者である皆さまは、この詩篇のことばに心から同意しましょう。私たちは
目に見えるものに惑わされてはなりません。敵軍の軍勢の大きさにおののいてはならない
のです。主なる神は、力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、何ら変わりな
くご自分の大能の力を発揮されるからです。主は私たちの助け、私たちの盾です。主の目
は主を恐れる者、主の恵みを待ち望む者に注がれるのです。これを信じますか。
ヒゼキヤは預言者イザヤを通して語られた神である主のことばを信じました。そうして
アッシリアの王からの脅しの手紙を受け取って、主の宮に行き、それを主の前に広げて
祈ったのです。15節。ヒゼキヤは信仰告白をします。あなただけが、地のすべての王国の
神です。あなたが天と地を造られましたと。そうして16節。主なる神に訴えます。耳を傾
けて聞いてください。目を開いてご覧くださいと。生ける神をそしるために言ってよこし
たアッシリアの王センナケリブのことばを聞いてください。
17~18節。アッシリアの王たちが、国々とその国土を廃墟としてのは事実であると認め
た上で、それらの神々は神ではなく、人の手のわざとして作られたのだから、アッシリア
はそれらを滅ぼすことができたに過ぎないのだと言うのです。このことばの背後に、しか
しあなたは違います、あなたは生けるまことの神ですとの信仰の裏付けがあるのです。
19節。生けるまことの神に助けを求めます。救いを求めるのです。それはただ自分たち
が助かれば良いという、自分のための願いではなく、救われることによって、地のすべて
の王国は、主なる神だけが神であることを知ることになる、これがヒゼキヤの願いです。
20節。ヒゼキヤの祈りを受けて、主なる神は預言者イザヤを遣わしました。主なる神は
祈りを聞かれるお方です。そうして祈りに応えてくださるお方なのです。主イエスは「求
めなさい、探しなさい、叩きなさい」と、私たちに祈りを促すのです。「父なる神は、ご
自分に求める者たちに、良いものを与えてくださる」お方なのだと。
21節から、神である主のことばが伝えられました。32~34節。アッシリアの王に対す
る処罰が宣告されます。アッシリアがエルサレムに侵入することはない。攻めることもな
い。主なる神がエルサレムを守り、これを救う。わたしのために、わたしのしもべダビデ
のためにと、ヒゼキヤの祈りに応えて、ご自分をそしったアッシリアをさばくのです。
35節。主の処罰は速やかになされました。あわれみ深く、さばきを猶予される主なる神
ですが、罰する時は速やかに罰するのです。その夜、です。主の使いがアッシリアの陣営
に派遣されました。そして18万5千人の兵士が打ち殺されたのです。
36~37節。センナケリブは失意のうちにニネベに戻りました。そうして二人の息子た
ちによって殺されたのです。しかも自分の神ニクロスの神殿で拝んでいた時です。人の手
のわざである偶像に頼る者の哀れを感じさせる出来事です。
今日私たちは、ヒゼキヤ王の信仰を確認しました。ヒゼキヤは主なる神に堅く付き従っ
て離れることはありませんでした。そうして神のことば、その命令を守ったのです。その
ようなヒゼキヤを主なる神は守られ、助けられました。私たちも同じです。私たちが主な
る神に堅く付き従って離れることなく、主のことばを守り通すなら、主なる神はそのよう
な私たちとともにおられ、私たちを守り、地上生涯を守り通してくださるのです。
ダビデのことばを確認して、その信仰に倣いましょう。ダビデは主をほめたたえて、賛
美を献げ、「あなたは、恵み深い者には恵み深く、全き者には全き方。清い者には清く、
曲がった者にはねじ曲げる方。まことにあなたは、苦しむ民を救い、高ぶる目を低くされ
ます」と告白したのです。私たちは主なる神の前に、どのような存在であろうとしている
でしょうか。私たちの態度にしたがって、主なる神は私たちに向き合われます。この事実
を覚え、主の前に恵みと祝福を受けるにふさわしい信仰者としての歩みを追い求めましょ
う。決して高慢になることのないように、主なる神をそしることのないように、主を信頼
して歩む者となりましょう。
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