私たちは福音書から神のことば、特に主イエスが語られたことばを知ることで、神のこ
とばを神のことばとして聞き、神のことばとして伝え、神のことばとして生きることに、
真に謙虚で、真摯であるべきことを教えられます。
今日の箇所でも、主イエスとユダヤ教指導者たちとの、神のことばに対する向き合い方
の違いを知ることができます。ひとりの女性が安息日に癒やされました。それを素直に喜
び、主なる神をほめたたえることができる人と、自分たちが作った基準に従っていないこ
とを悪とし、神に背いていると非難して、自分たちの主張を押しつける人がいます。
同じ神のことばを用いても、神のみ思いを正しく知らないならば、神のことばを、自分
に合わせて、自分好みに歪めて適用してしまうのです。気をつけましょう。
10節。主イエスは安息日に、いつものように礼拝を献げ、どこの会堂かは記されていま
せんが、そこに集まっている人たちに教えられました。
11節。その会衆の一人に、18年も病の霊に憑かれ、腰が曲がっていて、全く伸ばすこと
ができない婦人がいたのです。この婦人は当然のこと、周りの人たちも、その女性の状態
が当たり前になっていて、人々はだれも、この女性の病を憂えることもなかったと考えら
れます。そのような中で、主イエスは、彼女を病から解放したいと思われたのです。
12節。主イエスは彼女を呼び寄せ、癒やしの宣言をされました。病からの解放です。
13節。主イエスがその女性に手を置かれると同時に、彼女の腰が伸びました。この女性
は自分に与えられた神の恵みを感謝し、神をあがめたのです。素直な喜びです。
14節。しかし神の律法のことばを、神のみ思いにふさわしく、ではなく、自分たちが定
めた人間の基準で、機械的に適用する宗教指導者の一人、会堂司が憤りました。働くべき
日は六日ある。だから、その間に来て直してもらえ。安息日にはいけないと。一見正しく
見える会堂司のことばです。確かに、医者が安息日に医療行為を行い、その治療費を得よ
うとしているなら、それは安息日の規定に反する行為となります。しかし主イエスが、会
堂で礼拝を献げている、腰の曲がった婦人を病の霊から解放したことを、医者の業務では
ないと受け止められなかったことに、彼の律法主義がありました。
安息日を聖とする、という神の規定をどのように適用するかで変わるのです。安息日規
定とは何でしょうか。モーセを通して定められた神の戒めを確認しましょう。出エジプト
記20章8~11節。安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのす
べての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もし
てはならない。主が六日間で、天と地と海、それらの中にあるすべてのものを造り、七日
目に休んだからである。創造の神のみわざを覚え、創造者である神にあって自分は生かさ
れていることを感謝し、神をほめたたえるために、安息日は定められました。
申命記5章でも十誡が再確認されています。申命記では、安息日を守る理由が変えられ
ているのです。12~15節。一つは自分が休むだけではなく、奴隷たちも休むことができ
るためです。さらに創造のみわざではなく、出エジプトのみわざ、奴隷状態から解放され
たことを覚えるために安息日を守るのです。
一週間の六日間と一日の違いは、聖か聖でないかの違いです。聖とは神のものとして取
り分けられたものです。聖の対語は俗です。神に属するものか、世俗に属するものかの違
いです。一週間の六日は、私たちに委ねられた日々、一日は、神のものであるということ
です。この区別を基にして、私たちは一週間を歩むのです。
主なる神が安息日を定めたのは、人のためであると主イエスは言われました。「安息日
は人のために設けられたのです」と。しかし宗教指導者たちは、人が安息日のために造ら
れたかのように解釈を変えて、人の行動を規制する、様々な細かい規定を設け、人に押し
つけ、奴隷のように従わせたのです。
本来安息日は、人が神の恵みを味わい、神のみ思いを深く知り、感謝と喜びを携えて神
である主をほめたたえて、礼拝を献げる日です。感謝の第一は、創造者である神の創造の
みわざを覚え、神がすべての良いものを造られ、私たち人間を楽しませくださったことで
す。主なる神は大盤振る舞いの、祝福と恵みに富むお方であることを覚えるために、そし
て神の愛を素直に受け入れて感謝し、主を愛する者となるために、一日を休むのです。
また主なる神はイスラエルを神の民とするために、エジプトでの奴隷状態から解放し、
その上で、神の民として歩むための教えと戒めを定め、全世界の祝福の基として整えよう
としたのです。この与えられた救いを喜び、感謝し、救いを生きる者として整えられるた
めに、一日を休むのです。安息日は私たち人間のために設けられたのです。
15節。主イエスは会堂司を、ユダヤ教指導者たちを、偽善者たちと糾弾します。彼らは
自分が大切にしているもののためには、時間も労力も費やすけれど、他人に対しては、冷
たく扱うのです。それが偽善者と言われる所以です。神のことばをいかにも正しく守って
いるかのようにふるまい、人々を彼らが定めた戒めの奴隷に貶めていたからです。ここに
律法主義、教条主義に陥った者たちの愚かさがあり、偽善と言われる姿があるのです。
礼拝への招きで詩篇のことばが語られました。愚か者は心の中で「神はいない」と言う
と、愚か者の定義がなされています。彼らは腐っていて、忌まわしいことを行う。善を行
う者はいない、と。愚か者は自分の愚かさが分かっていません。自分たちは神のことばを
知って、日常生活への適用を定め、神の戒めを守っていると錯覚して、律法主義に陥り、
神のことばを人間の規定に貶めて、人々を縛り、奴隷のように従わせていたのです。
主イエスは、彼らが安息日にしていることを指摘して、そのことばとの矛盾に気づかせ
ようとされました。彼らは、自分の牛やろばを飼葉桶からほどき、連れて行って水を飲ま
せています。毎日です。安息日にも当然しているのです。
16節。主イエスは家畜を比較の対象にして、一人の人の価値に目を向けさせます。家畜
を安息日にも、水を飲ませるために飼葉桶、飼育小屋から連れ出している。それが神に受
け入れられ、安息日規定に反するのではないのだから、18年もの間病の霊に憑かれていた
婦人を、その束縛から解放することも規定違反ではないと言うのです。私たち人間は神の
かたちとして、神の似姿に造られた存在ですから、一人の人の存在価値は絶大です。
主イエスは言われました。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失った
たら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいので
しょうかと。いのちの対価にふさわしいものは何もありません。人の価値はそれほどまで
に大きいと主イエスは言われました。
私たちは、神のことばを人間の教えに貶めてはなりません。そのためには、人となられ
た神、主イエスから学ぶ必要があるのです。神のことばを自分に合わせるのではなく、自
分を神のことばに合わせて、変えていただくために、主イエスから学ぶことが重要です。
人間中心ではなく、神である主を中心にして考え、神のみ思いに自分を合わせることを、
繰り返しし続けることが大事です。日々みことばに聞き、祈りつつ、神のみこころを知ら
せていただきましょう。神のみ思いを自分の思いとすることを続けるのです。
主イエスのユダヤ教指導者たちへの指摘を、もう一箇所確認します。マルコの福音書7
章9節。自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。
13節。あなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしてい
ます。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです。
安息日規定を始め、神の定めは、私たち人間のために設けられています。私たちが真に
祝福され、豊かな恵みを味わい、喜びと感謝に溢れる毎日を歩むことができるように、愛
と恵みに富む父なる神は、私たちのために、様々な教えと戒めを与えてくださっているの
です。私たちは主なる神を自分の神としてあがめ、神に愛されているゆえに神を愛し、神
に聞き従い、神とともに歩む歩みを続けていきましょう。
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