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2024年8月25日 礼拝「罪の始まりと赦しの計画」 創世記3:1~13

 聖書の書き出しは「はじめに神が天と地を創造された」です。宇宙万物が存在するその

前に、創造者である神がおられ、天地万物は創造者である神によって造られた、これが聖

書の宣言です。創造のみわざのクライマックスは、私たち人間の創造です。私たちが、神

のかたちとして、神の似姿に、特別な存在として、最高傑作品として、固有の人格を持つ、

霊的な存在として造られたことで、神は創造のすべてを見て「それは非常に良かった」と

満足されのです。これが創世記1章の記述です。

 最初の人アダムとその妻エバは、すべてが整えられた、何不自由のない、真に快適な世

界で、充実した生活を送っていました。互いに信頼し合い、助け合い、労り合い、生かし

合う関係は、神である主を自分の主とあがめ、神に聞き従うことを喜ぶ、彼らの信仰姿勢

を基盤にして、確かなものとされていきました。これが2章の記述です。

 そのような理想的で、何不自由のない環境は、感謝と喜びの日々であったでしょう。し

かしこの二人にとって、理想的で、何不自由のない環境が当たり前になったときに、問題

の目が生じるのです。何不自由のない、理想的な環境であっても、感謝を新たにして、そ

の恵みを確認し直すのでなければ、次第にその恵みや祝福は、あって当たり前となり、次

第に恵みは恵みであると感じられなくなって、感謝や喜びは薄れて行きます。

 私たちも気をつけましょう。今与えられている、神である主からの霊的な祝福や恵み、

物質的な必要が満たされていること、何よりも滅びからいのちに移され、神の子どもとな

る特権が与えられ、永遠のいのちを生きる者とされたことの、絶大な恵みと光栄を繰り返

し確認し、感謝を新たにするのでなければ、私たちは神の恵みに慣れ、恵みが当たり前で

あるかのような錯覚に陥り、感謝や喜びが薄れていくことになります。

 創造のはじめに、罪はありませんでした。神である主が定められた基準に聞き従って生

きることを、神の愛への応答、神への信頼の表明として行っていた二人にとって、神に背

くことなどは思いもしなかったことでしょう。今私たちは、神に聞き従って生きることが

最も幸せな生き方だと同意していても、神である主と主のことばを退けて、神に背く道を

選び取ってしまうこともあり得ます。私たちは神を拒絶し、神のことばに背くことが罪で

あると知っているのに、これくらいは良いだろうと自分を甘やかし、罪を犯すこともある

のです。後に、悔い改めることができることは、主のあわれみによるのですが。

 最初の人アダムとエバに、神である主を拒み、神が定めた基準に背くという発想はあり

ませんでした。神への不信が植え付けられるまでは、神を信頼しきっていたのです。

 3章に罪の始まりとその後の悲劇が記されています。1節。惑わす者が蛇の姿で近づい

てきました。この蛇はヨハネの黙示録で、悪魔、サタンであると説明されています。惑わ

す者は女に語りかけます。惑わす者の常套手段は、神への信頼を失わせることです。これ

まで人とその妻は、神である主に不信を抱いたことはありませんでした。そのようなエバ

に、本当に神を信頼して良いのかと疑念を抱かせるのです。そのために、神のことばをわ

ざと歪めて語りかけます。1節。神のことばを巧妙に歪めて語りかけたのです。

 蛇は「本当に言われたのですか」と問いかけます。そんなことを言うなんて信じられな

い、ずいぶんとひどい命令をするものですねと、神への不信を抱かせようとする語りかけ

です。その巧みなことばによって、女の心に神への不信の芽が生じました。2~3節の蛇

への応答に、神への全幅の信頼を揺るがされた女の心が見えます。2章16~17節にある

神のことばと、3章2~3節にある女のことばを比較すると分かります。

 エバの神への全幅の信頼が崩されました。神は自分たちを束縛しているのかもしれない

というかすかな思いが、ただ一つの禁止命令に過剰に反応させます。神は大盤振る舞いの

神で、祝福に満ちたお方であるとの感謝はありません。思いのまま食べて良いとは神のこ

とばです。しかし女は、園にある木の実を食べて良いのですと答えました。神はどれほど

の祝福を与え、どれほどの恵みを与えておられるのか、その感謝は薄れていました。

 もしエバが、神の恵みと祝福の大きさを、改めて味わい直し、感謝を新たにしたなら、

「いいえ、神である主は、大盤振る舞いの神ですよ。園にある木の実はどれでも、思いの

まま食べて良いのです。ただ一つだけ、善悪の知識の木だけは禁止されているけれど、溢

れる祝福と恵みに比べたなら、ほんとうに些細なことです」と答えたはずです。

 しかしエバは、神の禁止命令に過剰に反応します。「それに触れてもいけない」という

ことばを付け加えたことに、禁止命令を下す神に対する不満が見て取れます。しかもエバ

は、善悪の知識の木とは言わず「園の中央にある木」とぼやかします。園の中央にはいの

ちの木も植えられていて、その実は思いのまま食べて良いのです。さらに、善悪の知識の

木の実を食べる時「必ず死ぬ」という明確な神の警告のことばを「死ぬといけないから」

とぼやかしました。ここにエバの、神の愛を疑い始めた状態を見るのです。

 アダムは、エバに注意することも、警告もしないで、その蛇とエバの対話の一部始終を

眺めていたのです。だから聖書は一貫して、この時の罪をアダムの罪と糾弾します。なぜ

アダムが沈黙していたのか、その思いは正確には分かりません。ただ、アダムもまた、神

である主を自分の主としなくなっていたということは分かります。

 神への信頼が薄れ、神のことばに聞き従うことを喜びとしないエバに対して、蛇は神の

ことばを完全に否定しました。神のことばではなく、自分の欲求に従って良いのだと誘惑

するのです。4~5節。まず「決して死にません」と神のことばを全否定します。

 惑わす者は、神のことばを否定した上で、なぜ神は禁止命令を下したのか、その理由を

捏造して述べるのです。神はあなたがたを奴隷として従わせるために、善悪の判断をさせ

ないようにしたのだ。あなたがたは自分で善悪を判断して良いのだ。その実を食べる時、

あなたがたは神のようになる。だから食べなさいと誘惑したのです。もし本当にサタンの

言う通りであるなら、神は善悪の知識の木など造らなかったでしょう。その木の実に魔力

があって、人が神のようになるという木をあえて造る意味はないからです。

 人は元々、神のかたちとして、神の似姿に造られているので、神のような存在です。神

に聞き従って生きることが善であると、自分で判断して、行動していたのです。神に愛さ

れていることを喜び、神に委ねられた責任を、神を愛する者として喜んで果たし、神を自

分の主とあがめて、神の基準で生きることを自分で選び取っていたのです。

 惑わす者に惑わされて、アダムとエバは、神のことばを退けました。これが罪です。神

を自分の主とすることを退け、自分を主とする。神のことばと自分の思いが異なる時に、

神を退けて、自分の思い、自分の考えを選び取る。これが「目が開かれる」の意味です。

 6節。彼らは、善悪の知識の木から、その実を取って食べ、目が開かれました。その最

初の変化が7節です。自分を恥ずかしいと思うのです。ありのままの自分を受け入れるこ

とができなくなったということです。一人ひとりは、神の最高傑作品として造られ、あな

たは宝だよ、最高傑作品だと言われても、そんなことはないと自己否定をします。

 神の基準を生きていた時、自分が裸であることを恥ずかしいとは思いませんでした。2

章25節。人との違い、その優劣さえも、良いものと受け入れていたからです。互いの優劣

は、助け合うためであり、補い合い、生かし合うための違いであり、すべてが良いとは神

の基準です。この神の基準に生きるなら、私たちは自分を、そして互いを、すべてありの

ままを、良いものとして受け入れることになります。罪とその結果は除きますが。

 目が開かれ、自分の判断を優先することによる二つ目の変化は8節です。神は愛と祝福

の神であることを否定します。愛と赦しの神とは思えず、恐ろしい審判者で、罪を犯した

自分は罰せられるはずだと判断して、神を恐れました。それで隠れたのです。

 神である主は、人が罪を犯したことを知っていて、自発的に悔い改めに進むことを待た

れました。9節。だから「何をしたのか」と罪を糾弾するのではなく「どこにいるのか」

と、神から離れたままではなく、あるべき状態に戻ってくるように招かれました。赦しの

神は赦しを備えて、自発的に悔い改めることを待っておられるのです。しかし罪を悔い改

めない者は、神を愛と赦しの神とは考えず、罰を与える、恐ろしい存在とするのです。

 自分の判断を優先することによる三つ目の変化は12節です。責任転嫁をして、対人関係

を破壊するのです。自分の罪を認めないので、罪を犯したことを、人のせいにします。あ

の人が悪いから、社会が悪いからと責任転嫁ををして、自己正当化をします。

 アダムは一部始終を黙って見ていました。エバに害が及んでいないのを確認して、自分

も食べたのです。アダムが神のことばを退けて、自分の欲求に従って行動したのに、この

女がくれたからだと言い訳をしました。この女がくれなければ、自分は間違いを犯すこと

はなかった。自分は悪くない、この女が悪い。そして、あなたがこの女を私のそばに置か

なかったなら、間違いは犯さなかったと、神にまで責任をなすりつけたのです。

 目が開かれたことで、つまり神のことばにではなく、自分の考え、自分の思い、自分の

欲求に従って行動することで、人は、自分を正しく見ることができなくなり、創造者であ

る神を正しく見ることができなくなり、対人関係を破壊する者となりました。

 罪に陥った私たちは様々な間違いや罪を犯します。そのような私たちを、主なる神はな

おも愛し、罪から救い出す計画を立てられました。15節。女の子孫を遣わすとの予告がな

されます。女の子孫とは、処女マリアの胎内に、神ご自身が宿らせた救い主イエスだけで

す。私たちはすべて、人間の父親によって生まれてきました。みな男の子孫です。

 女の子孫はかかとを打たれる傷を受けます。これが十字架刑の予告です。その十字架の

死は、サタンが勝利したように見えたけれど、軽傷に過ぎません。その本質は罪の赦しの

備えであり、神の愛が注がれていることを知らせ、愛を基盤にしての、神との本来あるべ

き関係に道を開く、罪からの救いです。そしてこのことは、サタンの頭を打つ、つまりサ

タンに致命傷を与えることになるのです。すべての人の、あらゆる罪の処罰を、神の御子

を十字架で処刑することで終わらせ、罪人を罪から救う、神の救いのご計画が明らかにな

ることによって、神は愛であることを味わい知る機会とされたのです。

 その予型が21節です。愛の神は皮の衣を作り、罪を覆ってくださいました。人は自分で

いちじくの葉で腰のおおいを作りましたが、それは一時しのぎでしかありません。皮の衣

は永遠ではないにしても、長期間、裸を覆うことができます。愛の神は皮の衣を作るため

に、罪のない動物を殺したのです。人の罪を覆うために、罪のない動物が殺される。ここ

に、罪のない神の御子を十字架で身代わりに処罰することで、罪人に罪の赦しをもたらす

救いの型が示されています。神は罪人が犯す罪をことごとく憎み、必ず罰しますが、私た

ち罪人を愛して罪の赦しを備えられたのです。私たちは主イエスの十字架によって、神の

愛が自分に向けられていることを知り、その愛を喜び、感謝して、罪の赦しを受け取ると

いう救いの道が開かれました。あるべき神との関係に立ち返ることが大事です。


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