今年も、先に天に召された信仰の先輩たちを憶えて、ご遺族の皆さまにも出席していた
だき、召天者記念礼拝を行うことができました。今日私たちは「義の栄冠を授けられる
人々」と題して、主イエス・キリストを信じる者に、永遠を生きるいのちが与えら
れた者の幸いを聖書から確認しつつ、天の御国へ思いを向けたいのです。
私たちは普段、あまり「死」を考えていないと思いますが、私たちも必ず死ぬ
という厳粛な事実から目を反らすことはできません。いつ死を迎えるかは、だれ
にも分かりませんし、死の時を自分で決めることもできません。しかし、死はすべ
ての人に公平に臨みます。肉体の死を逃れることのできる人は誰ひとりいません。
その人がどのような人生を歩んだとしても、その生き様とは関係なく、すべての人に、
公平に死は臨むのです。地上で手にしたすべてをこの世に残して、何も持たずに去ってい
きます。人は裸で生まれ、裸でこの世を去ります。すべての名誉も、すべての業績も、す
べての富も、すべての苦痛も、すべての苦悩も、負債がどれほどあったとしても、そのす
べてを残して、あるいはすべてから解放されて、この世を去っていくのです。
人の一生は千差万別です。人間的に見て、人々から羨ましがられるような生涯を送る人
もあれば、この世の成功という観点からは評価されない生涯を送る人もいます。健康に恵
まれ、物質的に豊かで、社会的な業績を残す人もいれば、病弱であり、経済的な困難を強
いられる人もいます。それぞれの生涯は様々です。互いに比較しあうなら、優越感に浸れ
る生涯であったり、劣等感に苛まれる生涯であったりするでしょう。しかしどのような人
生であったとしても、必ず死の時を迎えます。すべてをこの世に残して、すべてのことか
ら解放されて、この世を去るのです。それは誰も避けることのできない厳粛な事実です。
死は公平です。私たちも必ず、その日を迎えます。
今日私たちは、週報に名を記してあるお一人びとりとの関わりを、それぞれに思い出し
ているでしょう。懐かしい思い出もあれば、苦々しい思い出もあるかもしれません。一人
ひとりの生涯も千差万別でしょう。その人生の中で、彼らはそれぞれに、主イエス・キリ
ストとの出会いを持ち、主イエスを信じる信仰に導かれ、紆余曲折がありながらも、この
世の旅路を終え、今は、いのちを捨てるほどの愛で愛してくださった神の懐に抱かれ、永
遠の憩いと安らぎを得ています。
多くの人は、死を恐れます。それは、死後について全く分からないからです。分からな
いから、死と死後に対して大きな不安を抱きます。しかし私たちキリスト信仰者は、自分
はどこから来て、どこへ行くのかを知らされました。死の意味と、死後のことについて知
る者となったので、死は恐怖でなくなり、希望をもって死を迎えることができます。先に
天に召されて、この世を去られた信仰の先輩たちとも、天の御国でお会いします。
今日私たちが開いている聖書、テモテへの手紙第2は、著者パウロの最後の手紙です。
この後パウロは、ローマ帝国によって処刑され、殉教します。パウロのキリスト信仰者と
しての生涯は、迫害と困難の連続でした。彼はユダヤ人であり、ユダヤ社会でのエリート
コースを歩んでいて、将来はユダヤ社会を、宗教的にも、政治的にも指導する者として期
待されていた人物です。旧約聖書に精通しており「木にかけられた者は神に呪われた者で
ある」という神のことばを基に、十字架で処刑されたナザレのイエスを、約束の救い主、
キリストと信じる者たちを、ユダヤ教の異端、邪教として、徹底的に排除すべきと考え、
迫害することが神に仕えることだと確信して、熱心に迫害し続けていたのです。
そのようなパウロが一転して、ナザレのイエスをキリストであると宣言し、ユダヤ人た
ちを説得し始めました。それは、復活された主イエス・キリストがパウロの面前に現れ、
直接パウロに語りかけ、その間違いを正し、救いに招き、そうして新たな使命、十字架と
復活による罪の赦しと罪からの救いを伝える宣教者としての働きに召されたからです。
パウロは自分の旧約聖書の読み方の間違いを認め、ナザレのイエスの生涯と、旧約聖書
にある約束のキリストとを照合し直して、十字架につけられたナザレのイエスこそがキリ
スト、救い主であると受け入れ、十字架による罪の赦しを信じ、受け入れる以外に救いは
ないと伝える宣教者となりました。大迫害者は大宣教者に変えられたのです。
このことはユダヤ社会から裏切り者と糾弾され、ユダヤ人たちからの攻撃に晒されるこ
とになりました。さらにローマ帝国からも、キリスト信仰者たちが、ローマ皇帝を崇拝し
ないことから、反社会的な集団を見なされ、迫害の対象になっていきます。今パウロは2
度目の投獄にあり、その獄中で、テモテに第2の手紙を書き送っているのです。
7節。パウロは自分の死が間近に迫っていることを承知した上で、テモテに、そしてテ
モテが仕えている教会に、さらに聖書を通して私たちに、パウロが抱いている希望を知ら
せるのです。その希望は、どれほどの困難に見舞われても、どれほどの危険に晒されたと
しても、決して失われない、決して奪われることのない、神の約束から来ています。パウ
ロは、自分に委ねられた使命を果たそうと努め、地上生涯を勇敢に歩んできました。そう
して完全とは言えないけれど、走るべき道のりを走り終え、主イエスを信じる信仰を、創
造者である神に信頼する信仰を、守り通したのです。
8節。パウロは神の約束を述べます。パウロにとって、死の日は、義の栄冠を受け取る
栄えある日と変えられています。義の栄冠が私のために用意されていると、大胆に告白す
るのです。実際に授けられる日は、主イエスの再臨の時となるのですが、用意されている
義の栄冠を目にするのです。義の栄冠を授けられるのは、パウロだけではなく、主の現れ
を慕い求めている人、すなわち主イエスの再臨を待ち望んでいる人、すべてに、です。こ
れが、聖書に記されている神の約束です。主イエスを自分の救い主と信じて、あの十字架
の死は、私の罪を赦すための身代わりの処罰であったと受け入れ、罪の赦しを求めて悔い
改めるなら、創造者である神を自分の神と信じる者には、だれにでも義の栄冠が用意され
ていて、主イエスが再び来られる、公正なさばきの時に授けられるのです。
義の栄冠とあります。神が義とする、すなわち正しいと認めてくださるのは、創造者で
ある神を自分の神とする信仰です。「義とする」とは法廷用語で、「無罪の宣告をする」
ことです。私たちはみな、だれもが何らかの罪を犯してきました。今も犯しているかもし
れません。これからも様々な罪を犯す可能性があります。それらの罪をなかったことに、
罪を犯さなかったことにする。これが「義とする」こと、「無罪の宣告」です。
私たちの地上生涯は必ず終わります。だれもが必ず死にます。聖書は明確に「罪の報酬
は死です」と宣言しています。死は罪を犯した者が受け取る当然の刈り取り、報いです。
「しかし」と聖書のことばは続きます。「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエ
スにある永遠のいのちです」と、いのちへの招きがなされているのです。
死は報いです。永遠のいのちは賜物、プレゼントです。死は、罪を犯した者が受ける結
果責任です。それを避けることはできません。しかし死に向かっている私たちに、永遠の
いのちが差し出されています。報酬としての死は執行猶予されていて、猶予期間に、永遠
のいのちを受け取るようにと、創造者である神は招き続けています。永遠のいのちは、主
キリスト・イエスにあります。これは神からの一方的な恵みによるプレゼントです。プレ
ゼントですから、受け取るか、受け取らないかは、私たちが決めるのです。
愛と恵みに満ちておられる神は、私たちを愛して、私たちに罪の赦しを与えるために、
神の御子キリストを人として地上に遣わしました。クリスマスはその記念の日です。そう
して私たち全人類のあらゆる罪を、主イエスの身に負わせて、十字架で私たちの代わりに
処罰したのです。本来なら、罪人である私たちが処罰を受けるのですが、愛の神、あわれ
みに満ちた神は、私たちの代わりに、主イエス・キリストを処罰しました。これが約2000
年前に起こった、ローマ帝国による、ナザレのイエスの十字架刑です。
私たち全人類の罪に対しての処罰は終わっています。罪の赦しが差し出され、永遠のい
のちへの招きがなされています。しかし永遠のいのちは強制ではありません。受け取るこ
とも、受け取らないことも、私たちが自分で決めるのです。プレゼントは差し出されてい
ます。それを喜び、感謝する者は、受け取ることをします。それが気に入らない、欲しい
と思わない者は、受け取ることはしません。創造者である神を認める者、神は愛と恵みに
富み、赦し、祝福に満たす神であると信じる者は、感謝して受け取るのです。
今日私たちが記念している召天者たちは、主イエスを信じ、創造者である神を自分の神
としてあがめ、差し出されたプレゼント、主キリスト・イエスにある永遠のいのちを受け
取りました。そして天の御国に凱旋し、自分のために用意されている義の栄冠を見、授け
られる日を待ち望んでいます。そうして、召天者を覚えて集まっている私たちに、あなた
のためにも義の栄冠が用意されているよ、永遠のいのちがプレゼントとして差し出されて
いるよと証し、それを受け取るように、義とされるように、無罪の宣告を受け取るように
と促しているのです。
私たちもやがて、肉体の死を迎えますが、肉体の生死に関係なく、主イエスを信じる者
は永遠のいのちを受け取り、永遠を生きるいのちに生きる者となります。私たちの、この
世のいのちが朽ち果てる時、私という霊、私という人格は、国籍のある天に凱旋し、天の
御国で、肉体の復活の時を待つ者とされるのです。
これは十字架で処刑されたナザレのイエスこそキリスト、救い主であると信じる信仰に
よってのみ与えられる、神の恵みによる賜物、プレゼントです。義の栄冠が用意され、授
けられることを待っている信仰の先輩たちに思いを向けつつ、私たちも、キリスト信じる
信仰を守り通しましょう。そうして私たちも、心からの確信をもって「義の栄冠が私のた
めに用意されているだけです」と、大胆に告白しましょう。
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