top of page

2024年8月11日 礼拝「北イスラエルの滅亡」Ⅱ列王17:5~18

更新日:8月13日

 ダビデ王朝が、南ユダ王国と北イスラエル王国に分裂した後の王たちを取り上げてきま

したが、今日私たちは、北イスラエル王国の滅亡の記録を確認します。アッシリア帝国が

北イスラエル王国を滅ぼした、その記録です。私たちが旧約聖書の記録、特に神の民とし

て選ばれたにもかかわらず、滅ぼされるイスラエルの歴史が記録された、その意義を、パ

ウロがコリント人への手紙第一で次のように書き記しています。「彼らは滅ぼす者によっ

て滅ぼされました。これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書か

れたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立ってい

ると思う者は、倒れないように気をつけなさい」と。

 私たちが旧約聖書、特に神の民として選ばれたイスラエルの歴史を確認するとき、それ

は私たちへの教訓であり、戒めのためであることを覚えたいのです。今日の箇所も、他人

事として終わらせないで、私たちに対する戒めと教訓とすることが大事です。

 5節。アッシリア帝国が、北イスラエル王国の首都サマリヤを包囲して3年が過ぎて、

陥落させました。そしてイスラエル人を捕らえ移したと、簡潔に記します。

 7節以降に、北イスラエル王国が滅ぼされる原因が記されます。自分たちの神、主に対

して罪を犯したことが、その原因です。8節。ほかの神々を恐れ、主なる神がイスラエル

の子らの前から追い払われた異邦の民の風習を、イスラエルの王たちが取り入れました。

そして民はその風習にしたがって歩んだのです。王が背信の罪を取り入れたのですが、民

はそれにしたがって歩むことを選び取ったと、民の背信行為が強調されています。

 9節。イスラエルの子らの背信行為です。神の民とされたイスラエルは、自分たちの

神、主に対して、正しくないことを行っていました。それはひそかになされたと言われま

すが、主なる神に隠し通せることは何もありません。民は、すべての町に高き所を築き、

10節、すべての小高い丘の上や、青々と茂るどの木の下にも石の柱やアシェラ像を立てて

いたとあります。神の民として選ばれたイスラエルの、背信行為の数々です。

 11節。それらの背信行為によって、主の怒りが引き起こされたのです。

 12節。それらは、主なる神が行ってはならないと命じておられたことです。私たちは今

日、申命記28章を交読しました。祝福とのろいの宣告でした。そして祝福に与るようにと

招かれているのに、イスラエルはのろいを選び取ったのです。私たちが交読したのは、祝

福の約束のすべてと、のろいの宣告の一部です。

 申命記28章1節。祝福への招きと約束ですが、無条件ではありません。神の民として選

ばれたイスラエルは、彼らを選ばれた神、主の御声に確かに聞き従うことが祝福される条

件です。モーセを通して命じられる主のすべての命令を守り行うなら、です。主の御声に

聞き従い、神が命じることを守り行うなら、2節から12節の祝福を受けるのです。

 しかし15節。のろいは無条件です。祝福の招きを拒む結果は、のろいを引き寄せること

になるのです。あなたの神、主の御声に聞き従わず、モーセが命じる主のすべての命令と

掟を守り行わないなら、すべてののろいが神の民イスラエルに臨むと警告されています。

そののろいを20節まで読みましたが、実際には28章の残りすべてがのろいであり、その

リストは68節まで、事細かに告げられています。21節以降も、ぜひお読みください。

 主なる神はあわれみ深く、赦しに富み、豊かに祝福してくださいますが、祝福への招き

を拒み、進んで罪の中に留まる者に対して、警告されたのろいを容赦なく実行される義の

神です。45節。「これらすべてののろいが、あなたに臨み、あなたを追いかけ、あなたに

追いつき、ついにあなたは根絶やしにされる。あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従

わず、主が命じられた命令と掟を守らなかったからである」と警告されています。

 列王記Ⅱ17章13節。私たちは北イスラエル王国の王たちのふるまいを確認してきまし

た。預言者が遣わされ、神のことばが告げられ、警告がなされ、悔い改めへの招きが繰り

返されてきました。「あなたがたは悪の道から立ち返れ。わたしがあなたがたの先祖たち

に命じ、また、わたしのしもべである預言者たちを通してあなたがたに伝えた律法全体に

したがって、わたしの命令と掟を守れ」と。

 しかし14節。彼らはこれを聞き入れず、彼らの神、主を信じなかった彼らの先祖たちの

ように、うなじを固くしました。神の民とされたにもかかわらず、ダビデ王朝が南北に分

裂したときから、北イスラエル王国はずっと背き続けたのです。王たちが、初代の王ヤロ

ブアムの背信の道を引き継いできたことが、滅ぼされる大きな要因ですが、民の多くはそ

の異教の教えを、自分たちの信仰として選んだのです。8節で指摘されている通りです。

 なぜイスラエルの民は、これほど明確にのろいの警告がなされているのに、主なる神の

御声に聞き従うことを拒み、主の命令と掟を守らなかったのでしょうか。それは、創造者

である神を侮っていたからです。神を信頼せず、神を軽んじていたので、正しく恐れるこ

とをしませんでした。これが罪であり、罪に自分を委ねる者の現実の姿です。創造者であ

る、まことの神を自分の神としないあり方、それが罪です。自分がすべてを決める主権者

でありたい、自分を神の立場に置きたいのです。命じられることそれ自体に屈辱を覚える

のでしょう。主なる神との信頼関係、愛の関係を持たない者にとって、神を自分の主とす

ることは嫌なのです。自分の好き勝手に、思い通りに生きたいと、罪人は考えます。どれ

ほどのろいが警告されていても、聞き従いたくないのです。これが罪人の姿です。

 主なる神は、ご自分が愛していることを知らせ、祝福に満たそうと約束されます。しか

し無理強いはしません。人が創造者である神を自分の神とし、神の愛を喜び、神が祝福さ

れるその祝福を感謝して受け取ることを、神は待っておられるのです。それが真に愛する

ことだからです。愛は無理強いをしません。拒む者の拒む決断を尊重しながら、招き続け

るのです。愛は、人の自由意思を尊重します。その決断を尊重するのです。

 21~23節。ヤロブアムが北イスラエルの王となったのは、紀元前931年頃です。そして

サマリアが陥落し、北イスラエル王国が滅亡したのは、紀元前722年頃です。約210年

間、主なる神は滅ぼすことを猶予し、預言者たちや先見者たちを遣わし、罪を指摘し、悔

い改めへと招き続けました。しかしイスラエルの民は、神を退けました。神の招きを拒み

続け、背信行為をなし続けたのです。そうして、神の猶予期限を迎えました。

 悔い改めに招き続けた愛の神は、その招きを拒んだ者に対して、公正にさばく義の神と

して臨みます。警告しておいたのろいを引き寄せる罪人を助けることはしません。主なる

神があわれみをもって、これまで、のろいを防いでおられたその手を取り除けるのです。

 さて、現代を生きる私たちは、この出来事から何を戒めとし、何を教訓とするのでしょ

うか。創造のはじめから、創造者である神は変わりなく、私たち人間と関わります。神は

祝福の神、大盤振る舞いの神です。私たちは思いのまま過ごすことができます。しかし一

つだけ、禁止事項が定められました。創造者である、生けるまことの神を、自分の神とす

ることを拒むなら、その報酬は死であり、悔い改めないなら、滅びるのです。

 神はご自分に対して常に真実です。ご自分を否むことはないお方ですから、約束された

ことは必ず守り、語られた通りを実行なさる神です。罪は必ず罰する義の神ですが、私た

ち罪人をあわれみ、罰するのをかわいそうに思い、赦しを備え、猶予期間を定めて悔い改

めに招き続ける、赦しの神、愛の神です。罪は必ず罰する神の義と、罪人である私たちを

こよなく愛し、赦そうとする神の愛、この相反する神の特質、愛と義の特質のどちらをも

満たすために、主イエスは十字架で処刑され、罪の罰を受け、罪に赦しを備えました。

 罪の赦しを備えるために、創造者である神は、神の御子を人として地上に遣わし、私た

ち全人類の罪をその身に負わせて、ローマ帝国の極刑である十字架刑で罪の処罰を終わら

せたのです。これがイエス・キリストの十字架の死の意味であり、目的です。創造者であ

る神は、罪の赦しを備えた上で、私たち罪人を悔い改めへと招いておられます。そうして

神の御子、主イエス・キリストの十字架は、自分ための身代わりの処罰であると認める者、

主イエスを自分の救い主として信じる者に、永遠のいのちを与えたのです。この神のプレ

ゼントを感謝して受け取ることが、救いの唯一の条件です。

 12使徒の一人ペテロは、主イエスを紹介し、主イエスの十字架の死と死者の中からの復

活を提示した上で、人々を招きました。「この方以外には、だれによっても救いはありま

せん。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないか

らです」と、主イエスを信じる以外に救いはないと宣言しました。

 神の招きのことばは明確です。今週のみことばでもはっきりと招かれています。モーセ

は民をいのちへと招きました。「私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。

私はいのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」とあ

るように、いのちか死か、祝福かのろいか、どちらかを選ぶことになります。だからモー

セは、いのちへの招きをします。「あなたはいのちを選びなさい」と。

 私たちは自分が犯してきた罪のゆえに、滅びに向かって進んでいます。自分に罪がある

ことを認め、罪の赦しを受けなければ、滅びへと進むだけです。創造者である神を自分の

神としてあがめ、神に聞き従うことが、救いを生きることになります。創造者である神を

自分の神とせず、神に聞き従わないなら、滅びに向かって進むのです。「いのちを選ぶ」

とは、悔い改めて、神を中心にして、神に聞いて生きることなのです。

 神の民イスラエルは、神の猶予期限が迫っても、悔い改めることをせず、神への背信行

為を続けました。義の神は、さばくときに容赦はしません。宣告の通りを行うお方です。

私たちは創造者である神を軽んじることなく、その愛と恵みを喜び、感謝して受け取り、

神を自分の主として歩むことを選び取りましょう。


Komentarze


bottom of page