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2024年7月28日 礼拝「いのちへの招き、死の警告」創世記2:8~9、16~17

 創造者である神が天地万物を創造され、その創造のクライマックスとして、人間を創造

されました。人間はどのような存在であるか、どのように生きることで祝福に満たされる

かが、1~2章に記されています。聖書は、死ではなく、いのちに招きます。そうして死

ではなく、いのちを選ぶようにと警告したのです。

 聖書の書き出しは「はじめに神が天と地を創造された」です。聖書の宣言は明確です。

創造者である神がおられます。そして宇宙も、地球も、すべて存在するものは、目に見え

るものも目に見えないものもすべて、創造者である神が創造しました。そして人間だけ

は、創造者である神の似姿に、神のかたちとして、特別に造られたのです。私たちは一人

ひとり、偶然に存在したのではありません。創造者である神の必然によって存在したので

す。目的があり、役割が委ねられて存在しているのです。

 1章26~27節。私たち人間は、他の動物とは決定的に違います。人間だけが神のかた

ちとして、神の似姿に造られました。「神は霊」ですから、私たちとは違って肉体はあり

ません。どんな形もありません。私たち人間が神のかたちとして造られたとは、外形が神

に似せて造られたのではなく、霊である神と人格的に交わることができる、人格を持つ存

在として造られたということです。私たち人間だけが人格的で、霊的な存在です。だから

人間は神を求め、礼拝行為をします。宗教活動をするのは人間だけです。

 人格を持つ存在、ここに私たち人間の存在価値があります。人格とは、他者とは違う、

固有で、唯一無二の存在です。世界に同じ人はだれもいません。だからその存在価値は、

何ができるかで評価されません。存在そのものに絶大な価値があるのです。あなたは神の

似姿に、神のかたちとして造られ、存在しています。神の最高傑作品として、世界にただ

ひとりしかいない、ユニークな存在なのです。

 2章16~17節。創造者である神が被造物である人に語りかけました。主権者として命

令したのです。生きる基本姿勢の提示です。被造物である人は創造者である神に聞いて、

その基準に従って生きるように造られたということです。

 この命令を通して、私たちは、神である主について知ることができます。主は恵みと祝

福に満ちておられるお方であり、私たちをその恵みと祝福の中に置かれました。「あなた

は園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と命じています。主は大盤振る舞いの祝福

の神です。9節で、園の中央には二つの木があることが分かります。いのちの木と善悪の

知識の木です。そして、いのちの木からは思いのまま食べてよいとあります。つまり永遠

に生きることの保障です。制限はありません。主が備えられた恵みと祝福を喜び、感謝し

して、その中を生き続けることの招きです。生けるまことの神は、全能の神であり、祝福

と恵みに満ちた、大盤振る舞いの神です。このことを、まず覚えましょう。

 しかし神である主は、一つの禁止命令を定めました。被造物である人が、主権者である

神に聞いて生きる存在として造られたことを覚えるための命令です。これは人間が、被造

世界すべてを管理する使命を委ねられているからです。1章28節は、私たち人類が独裁者

として被造世界を支配するのではなく、管理者として支配する命令です。この立場を覚え

るために、神は主であることを意識するのです。被造世界を破壊してはなりません。しか

し罪に陥った人類は環境を破壊し続けて、現在に至っています。

 17節。ここに、神が定めた禁止事項があります。禁止命令は一つです。園の中央にある

もう一本の木、善悪の知識の木から食べてはならないということです。この禁止命令は、

人が神である主を、自分の主権者と仰いで生きるのか、それとも主権者とするのを退ける

のか、それを選択させるものです。人は創造者である神に聞き、神とともに歩む存在とし

て造られました。神のかたちとして、神の似姿に造られた私たちは、自由意思を持つ、自

分の責任で選び取る人格的で、霊的な存在です。神は私たち人間をロボットではなく、愛

の対象として造りました。人が神の愛を喜び、その愛に応答して、心から神を愛するがゆ

えに神に聞いて生きる、神の基準を喜んで生きる存在として創造されたのです。

 人に自由意思を与えたことは、人がその自由をもって神に背く可能性も意味します。し

かし神はあえて、人を愛の対象として、自由意思を備えた存在として創造されました。そ

して一つの禁止命令を定めたのです。この命令に背いた時、必ず死ぬと明言されました。

人は神に聞いて、神のことば、神の基準に従って生きる時に、真に主体的で、真の自由を

生きる者として創造されています。この神との本来のあるべき状態から逸脱すること、そ

れが死です。造られた本来のあり方から逸脱する、それが霊的な死です。

 制約があるのは不自由を感じさせます。しかし実は、真に自由を得させるのです。魚は

水の中という制約に生きるものとして造られました。金魚鉢の金魚は、金魚鉢という制約

に置かれています。その制約は窮屈だと考えて、金魚が金魚鉢から飛び出したなら、その

金魚を待ち受けているのは死です。飼い主が外に出てしまった金魚を見つけて、もう一度

金魚鉢に入れなければ、その金魚は死ぬのです。金魚は金魚鉢という制約の中で、最も自

由に動き回ることができ、またいのちを生きることができるのです。

 社会には様々なルールがあります。それらのルールによって社会の秩序は保たれていま

す。法律も規則も、しきたりも約束事も、すべての決まりが必要とは限りませんが、それ

らのルールは私たちを危険や間違いから守り、安全で快適な社会生活を営むために有効な

ものです。ルールを窮屈と判断しないで守る者は、そのルールの恩恵を受けるのです。

 自由意思が与えられ、人格的で、霊的な人間の、真の自由を生きるための最適なルール

を、創造者である神が定めました。神である主に聞いて、神である主に従って生きること

が、最も主体的に、最も幸いに、最も自分らしく生きることを得させるルールです。この

ルールは束縛に感じられますが、これが私たち人間に、真の自由を得させる枠組みです。

神である主は愛であり、私たちを愛して、祝福と恵みに満たそうとしているかが分かるな

ら、私たちは神に聞いて、その基準を生きる生き方を喜び、選び取ることになるのです。

 最初の人アダムは、神は愛に満ち、祝福と恵みに富んでおられると知っていました。神

が造られた世界、すべてが整えられ、何不自由のない環境を生き、そこでの生活を満喫し

ていたのです。しかし神のことばを退けることの恐ろしさ、愚かさを知りませんでした。

だから「必ず死ぬ」との警告を、真面目には受け取らず、神と神の警告を侮ったのです。

 その経緯が3章です。簡単に確認しておきましょう。詳しくは、次回取り上げます。3

章1節。惑わす者は女に語りかけます。女は神の語りかけを、直接は聞いていません。ア

ダムから伝え聞いたと思われます。彼らは、神の愛と恵み、祝福を味わっていました。

 蛇の姿で近づいてきたサタン、惑わすもの、悪魔が語りかけたこと、女が答えたこと、

その会話の一部始終を、アダムはただ静観していたのです。

 6節。女は蛇に惑わされ、食べてみたいという欲求に自分を委ねました。そうして神の

「必ず死ぬ」との警告を退けて、善悪の知識の木から実を取って食べたのです。さらに、

ともにいた夫にも与えたので、夫も食べました。聖書は、エバの罪とは言わずに、アダム

の罪と宣言します。惑わす者が妻を惑わしている時、妻を守る責任がありましたが、それ

を放棄したのです。神の警告を確認させず、成り行きを見ていました。そして妻に何の害

も及ぼさないことを確認した上で食べたのです。卑劣ですね。アダムは神のことばを退け

ました。神に聞き従うことをではなく、自分の欲求を優先したのです。これが罪です。

 神の基準を生きるなら、永遠のいのちが保障されています。いのちの木の実を思いのま

ま食べ続けることができます。神のことばを退けて、自分の思いを優先するなら、死が警

告されています。善悪の知識の木とは、その実に魔術的な呪いが込められて、食べる者を

毒殺する実ではありません。神の基準を悪として退け、自分の基準を善として実行する、

その心を明らかにするための木、それが善悪の知識の木です。

 そうして人は、神の恵みと祝福を思いのまま享受する立場から離れて、死を選び取りま

した。神の基準を善としていのちに生きるのか、自分の基準を善とするために、神の基準

を悪として退けて、死を選び取るのか、私たち人間に、それを選択する自由が与えられて

います。選択する自由はありますが、選択した結果を選ぶことはできません。いのちへの

招きを拒む者には、警告されている死が臨むのです。

 神のかたちとして、神の似姿に創造された私たち人間は、神の基準を善として、それに

従う存在として造られています。そのような私たちが、神のことばよりも自分の思いを優

先して、それを行う者となりました。このあり方が罪です。そして霊的に死にました。霊

的な死とは、創造者である神を神として生きるいのちに死んだということです。そうして

様々な間違いを犯し、罪を犯して、社会を不幸にしています。

 しかしアダムもエバも、肉体の死は猶予されました。愛の神のあわれみです。地上生涯

をしばらく続けることができたのです。それは悔い改めの機会です。いのちへの招きは、

地上生涯の間、たえず為されています。旧約聖書の時代、動物をいけにえとして献げるこ

とで罪の赦しが与えられ、それに従って罪を悔い改める者はいのちを得ました。しかし拒

んだ者は、猶予期間の終わりとともに、肉体の死を迎えるのです。

 神の御子、イエス・キリストの誕生と十字架での死、死者の中からの復活による新しい

契約では、イエス・キリストを自分の救い主として信じる者、自分の主と仰いで、神の基

準を生きようとする者に、永遠のいのちが与えられます。しかし主イエスを拒む者は、い

のちを見ることはなく、猶予期間の終了とともに、滅びるのです。

 いのちへの招きと死の警告は、今も私たちに差し出されています。主イエスを信じて、

神の基準を生きようとする者はいのちを得ます。そうして神のいのち、永遠のいのちを生

きるのです。しかし主イエスを信じようとしない者、神の基準を退け、自分の判断を優先

する者は、いのちを得ることはありません。死であり、滅びなのです。

 キリスト信仰者は、善悪の基準を、神のことば、神のみこころに置く者です。いのちへ

の招きを感謝しましょう。死の警告を侮ってはなりません。

 今週のみことば。出エジプト時20歳以上の者たちは、神に聞き従うという契約を結び、

エジプトでの奴隷から解放され、神の民となる祝福に与りました。しかし彼らは、神のこ

とばを行うことを退け、自分の欲求を押し通した結果、ヨシュアとカレブ以外は全員、荒

野の40年で根絶やしにされたのです。それに対比しての、しかしです。「しかし、あなた

がたの神、主にすがってきたあなたがたはみな、今日生きている」と、モーセは約束の地

を前にして、これから約束の地に入る人々に語り、再度、神のことばを確認させ、神の民

として生きるように、神の基準に生きるようにと招きました。その記録が申命記です。


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