ローマ人への手紙第2回目となります。今日の宣教題は、福音は救いをもたらす神の力
ですとなります。福音について、救いについて、神の力について確認していきましょう。
書き出しの挨拶の部分で、パウロは「福音は御子に関するもの」として、罪の赦しと罪
からの救いは、神の御子によってもたらされることに触れ、自分は、異邦人の中に信仰の
従順をもたらす福音宣教者として召されたこと、ローマにいるキリスト信仰者たちは、召
されてイエス・キリストのもの、聖徒たちとなったと確認させました。
今日の箇所でパウロは、何度もローマに行きたいと望んでいるけれど、その道が妨げら
れている自分の状況を知らせています。
8節。パウロは、ローマにいる聖徒たちについて、神への感謝を記します。感謝の理由
は、全世界にローマの聖徒たちの信仰が語り伝えられていることです。当時ローマ帝国に
は平和がもたらされていました。ローマの駐留軍が帝国内に配備され、治安が維持されて
いたからです。なので、多くの人々が帝国内を移動していました。パウロも、このローマ
の平和の中で、伝道旅行ができたのです。現代とは違う様々な危険はありましたが、それ
でも比較的自由に移動することができたのです。
そのような社会秩序の中、ローマにあるキリストの教会についての情報も世界各地にも
たらされたのです。ローマにいるキリスト信仰者たちについての良い知らせが、各地の教
会に伝えられていたということです。その報告に基づいて、パウロは、イエス・キリスト
を通して私の神に感謝しますと、心からの感謝を書き送るのです。
ローマの聖徒たちに福音を伝えたのは、使徒や教師など、霊的指導者たちではなく、キ
リスト信仰者たちが行く先々で自発的に福音を伝え、それがローマにも届いたのです。そ
うして主の恵みによって、信じる者たちがローマにも起こされていきました。
9~10節。パウロの正直な思いが記されます。パウロは遣わされる地域において、御子
の福音を伝えてきました。主なる神に遣わされたとの確信に立っています。その神に心か
ら仕えているパウロが、自分の正直な思いを述べるのですが、この思いは神が証してくだ
さることだと強調するのです。パウロは、絶えずローマの聖徒たちのことを思っており、
祈る時には、今度こそ道が開かれて、何とかしてローマに行けるようにと願っていると。
しかしこれまで、自分が仕えている神は、その道を開いてくださっていない。今回もコリ
ントまで来ているけれど、ローマには行けないと伝えるのです。
パウロは第3次伝道旅行を終えようとしています。トルコ半島の最西端のアジア州、エ
ペソで3年にわたる福音宣教と教会形成の主のみわざに参与し、マケドニア、アカイアの
諸教会からの義援金を受け取ってエルサレムに届けるために、ギリシアを回り、コリント
教会の問題を解決するために3ヶ月間滞在しています。しかしエルサレムへ支援献金を届
ける必要があり、ローマへの道は閉ざされたのです。
11~12節。なぜパウロがローマに行き、ローマの聖徒たちに会いたいのか、その理由
を知らせます。パウロの切なる願いは、ローマのキリスト信仰者たちにも、御霊の賜物を
いくらかでも分け与えて、強くしたいということです。上から目線で教え、強くするとい
うことではなく、ともに励ましを受けたいと言い換えます。あなたがたの間にあって、互
いの信仰によってとのことばで、使徒と信徒という立場の違いから教えるのではなく、同
じキリスト信仰者として、ともに励まし合いたいのだと言うのです。福音を伝える者、福
音を聞く者、福音に生きる者、立場の違いはあるけれど、お互いの間に、福音を信じ、生
きる者たちが、ともに霊的に成長を目指すことが大事です。
13節。パウロは自分に委ねられた福音宣教、特に異邦人伝道について、ローマの聖徒た
ちに知らせたいと思うのです。パウロは召され、委ねられた福音宣教に、忠実に、誠実に
取り組んできました。3回にわたる伝道旅行において、主なる神は福音宣教の実を結ばせ
てくださり、パウロはそれらの豊かな実を、多くの収穫として見せていただいたのです。
救いの実、義の実、霊的成長の実、教会形成の実などです。それぞれの地域に、様々な問
題を抱えている教会があり、それらに対処しつつ、主のみわざとしての解決も見ることが
できました。そうしてほかの異邦人たちの間で見たように、ローマの聖徒たちの間でも、
いくらかの実を得たいと考えて、何度もローマの教会を訪ねる計画を立てたのです。しか
し今に至るまで妨げられているのです。
14節。パウロは、すべての人に対して負い目があると言います。それは主イエスご自身
から福音宣教という使命が委ねられているからです。かつてパウロは、主イエスを信じる
者たちを激しく迫害しました。旧約聖書にある「木にかけられた者は神に呪われた者だか
らである」との神のことばによる確信に立って、十字架で処刑された男がメシヤ、キリス
トであるはずはないと考えました。十字架で処刑されたナザレのイエスをキリストである
と信じる者、伝える者たちを迫害し、間違った教えから救い出そうとしたのです。
間違った熱心ではあったけれど、熱心にご自分に仕えようとしたパウロを、神はあわれ
んでくださいました。復活された主イエスを現してくださり、さらに直接、主イエスご自
身からの語りかけを聞くようにされたのです。主イエスと主の教会を迫害してきたという
負い目、主イエスから福音宣教を委ねられたという負い目があります。その負い目がパウ
ロをして、福音宣教に向かわせているのです。
「ギリシア人にも未開の人にも」とあります。ギリシア人のように文明が進んでいる社
会にいる人にも、そうではない、文明において未開の人にも、人間的な知識に秀でている
人にも、そうではない人にも、すべての人が福音を伝える対象です。
15節。この負い目が、ローマにいるあなたがたに対してもあるとパウロは告白します。
だからローマへの訪問という計画を何度も立てたのです。
16節。パウロは宣言します。「私は福音を恥としません」と。かつて福音は、パウロに
とって恥そのものでした。十字架につけられたナザレのイエスをキリストであると信じ、
主イエスの十字架は罪を赦すための神の恵みであると語られることは、恥としか感じられ
なかったのです。これほどひどく、神に敵対し、神を侮辱する知らせが福音、良き知らせ
であるはずがないとパウロは考えたのです。
しかし復活された主イエスにお会いしたことがパウロを全く変えました。そうして旧約
聖書に記されているメシヤに関する数々の預言が、ことごとくナザレのイエスによって成
就していることを確認することで、十字架の死と死者の中からの復活による、罪の赦しと
罪からの救いが備えられたというメッセージを、パウロも自分のものとして受け取り、福
音だけが罪人を、全人類を、その罪から解放する唯一の救いの道だと認めました。今やパ
ウロにとっても、福音は恥ではなくなったのです。
福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力
です。神の力が信じる人に救いをもたらすのです。信じる人が信じる自分の力で救いを得
るのではありません。これは間違ってはならない重要な点です。私たち罪人は、自分の行
いや自分の力で救いを勝ち取ることはできません。「罪の報酬は死です」と明確に宣言さ
れている通りです。罪を犯した者の報いは死だけです。「しかし神の賜物は」と聖書は続
けます。「神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」と宣言さ
れているように、永遠のいのち、救いは神の賜物、神からのプレゼントです。神は永遠の
いのちという賜物、プレゼントを、主キリスト・イエスに置かれました。救いは、主イエ
スを信じる人に、その信じたことを通して、与えられるのです。信仰によってのみです。
17節。「福音には神の義が啓示されていて」とあります。福音とは良き知らせ、恵みの
知らせです。神の愛が啓示されています。ヨハネの福音書3章16節に「神は、実に、その
ひとり子をお与えになったほどに世を愛された」とあるとおりです。主イエス・キリスト
の誕生を記念する日、クリスマスに、私たちは、私たちへの神の愛を確認します。私たち
の救いのために、神の御子が人となられたからです。さらに主イエスの十字架の死を仰ぐ
ことで、神の私たちへの愛、ご自分のいのちを捨てるほどの愛をさらに深く味わうので
す。神の愛は、「それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを
持つためである」と宣言されていることを通して、私たちに明らかにされたのです。
この3章16節のことばは、神の愛と救いへの招きが宣言されている、良き知らせ、福音
そのものですが、それはそのまま、さばきのメッセージでもあります。御子を信じない者
は、みな滅びるという宣告だからです。御子を信じる者は滅びません。御子を信じない者
を滅ぼされるのです。だからパウロは「福音には神の義が啓示されて」と記しました。
神が義と認めるのは、主イエスを信じる者をです。主イエスを拒む者を義と認めること
はありません。義とするとは、無罪の宣告という法廷用語です。私たちはだれもが、罪の
ある者、罪を犯してきた者です。罪人である私たちに対して無罪、罪を犯さなかった者、
罪のない者と、主なる神が宣告するのは、主イエスを信じることによってです。
福音は救いを伝える良き知らせであり、福音には、神が愛であることが高らかに宣言さ
れています。同時に、福音には神の義も啓示されています。だから「信仰に始まり信仰の
進ませるから」と言われます。人には、自分が犯した罪の報酬として死が定められ、すべ
ての人が滅びへと向かっています。神は公正な、義の神であるゆえに、罪を犯した人をす
べて滅ぼさざるを得ません。しかし神は愛の神であるゆえに、私たちをあわれんでくださ
り、悔い改めと救いへの道を備えてくださいました。私たちの地上生涯は、さばきの猶予
期間です。主イエスの十字架の死と死者の中からの復活によって差し出された罪の赦しを
受け取る者は、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つのです。
私たちが救われ、永遠のいのちを得るのは、主イエスを信じる信仰によってのみです。
救いは信仰に始まり、救われた者としての生活も信仰によって保たれます。信仰に進ませ
るとあるとおりです。「義人は信仰によって生きる」とは、旧約聖書のことばです。
Comments